EOS10D日記その32 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2009.7.9 大昔のレンズ(20) 魚眼レンズまたはスカイレンズ

360度パノラマ写真撮影用にシグマの8mm円周魚眼レンズを使っている関係で、魚眼レンズに興味を持ってはいるのですが、大昔の魚眼レンズを買う機会はありませんでした。魚眼レンズは全歴史を通じてわずかしか作られていませんし、日本製のレンズが大半を占めるので、がんばれば素晴らしいコレクションができると思います。ただし、監視カメラ用の魚眼レンズは除く。とりあえず、私の知る限りの魚眼レンズを書き出してみます。ニコンの魚眼レンズについては、写真工業2006年9月号に”驚異のニッコール魚眼レンズ総特集”(根本泰人氏)という記事がありますので、こちらをご覧ください。やっぱりニコンが圧倒的に種類が多いようです。

- 1924年 R.J. Beck Hill Sky lens
- 1932年 AEG 魚眼レンズ

- 1962年 Fisheye Nikkor 8mm F8
- 1966年 Fisheye Nikkor 7.5mm F5.6
- 1968年 OP Fisheye Nikkor 10mm F5.6
- 1969年 Fisheye Nikkor 6mm F5.6
- 1969年 Fisheye Nikkor 6.2mm F5.6 SAP
- 1970年 Fisheye Nikkor 8mm F2.8
- 1972年 Fisheye Nikkor 6mm F2.8
- 1973年 Fisheye Nikkor 16mm F3.5
- 1979年 Fisheye Nikkor 16mm F2.8
- 2003年 AF DX Fisheye Nikkor ED 10.5mm F2.8G

- ????年 Olympus Zuiko Fisheye 8mm F2.8
- ????年 Olympus Zuiko Fisheye 16mm F3.5
- ????年 Olympus Zuiko Digital ED 8mm F3.5 Fisheye for Four Thirds cameras

- 1973年 Canon FD 15mm F2.8
- 1979年 Canon New FD Fisheye 7.5mm F5.6
- 1987年 Canon EF Fisheye 15mm F2.8

- ????年 Minolta MD Fisheye 7.5mm F4
- ????年 Minolta MD Fisheye 16mm F2.8

- 1963年 Asahi Fisheye Takumar 18mmF11(ヒルのスカイレンズと良く似た構成)
- 1967年 Asahi Fisheye Takumar 17mmF4
- 2005年 PENTAX-DA FISH-EYE 10-17mmF3.5-4.5ED

- 2007年 Sigma 4.5mm F2.8 Circular Fisheye
- ????年 Sigma 8mm F4 Circular Fisheye
- ????年 Sigma 15mm F2.8 Diagonal Fisheye

- 2006年 Tokina AT-X 107 DX Fisheye 10-17mm F3.5-4.5

- ????年 MC PELENG 8 mm F3.5
- ????年 Sunex 185 deg SuperFisheye 5.6mm F5.6
- ????年 Vemar 12mm F5.6 Fish-Eye

- ????年 PENTAX67 Fisheye 35mm F4.5
- ????年 Zeiss Distagon 24mm F3.5
- ????年 Zeiss Distagon 30mm F3.5
- ????年 ARSAT 30mm F3.5

このようなリストは魚眼レンズマニアがきっと作っていると思うのですが、うまく探せませんでした。


2009.7.8 大昔のレンズ(29) 逆望遠レンズ

逆望遠レンズはレトロフォーカスとも呼ばれます。

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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構成は普通のレンズに拡大レンズか、または逆ガリレオ型補正レンズを付けたものである。1931年、テーラー・ホブスン社のH.W. リーが3色分解テクニカラー・カメラ用に焦点距離35mmF2のレンズを設計した。このカメラではレンズの後ろに置く色分解用のガラス部品が広い場所をとるので、焦点距離50mm以下の普通のレンズは使えなかったのである。
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簡単に言うと、普通のレンズ(マスターレンズ)の前にワイド・コンバーターを置いたレンズです。明るさやイメージサークルはマスターレンズに依存します。マスターレンズにはトリプレット型やスピーディック型やテッサー型やガウス型が使われます。F2クラスの明るいレンズにはガウス型っぽいマスターレンズが多いようです。超広角レンズは暗いくせに、何であんなに大きいの?という疑問を持った方も多いと思いますが、マスターレンズを少し大きくしようとすると、ワイドコンバーターはとても大きくなるので、しかたないのです。

リーの設計したテクニカラー・カメラ用の35mmF2と40mmF2のレンズを試してみたのですが、両方とも非常にシャープで驚きました。この型のレンズは当初から完成されていたようでして、大昔のレンズだからといって、甘いなどということはありません。カメラ屋さんの話では35mmF2はシャープだが、40mmF2はソフトだということで両方試したのですが、結果は両方シャープでした。

あれれ、F2の逆望遠のマスターレンズはガウスタイプ? リーの作った逆望遠のマスターレンズはてっきりトリプレットだと思っていたのですが、怪しいですね。早速分解して調べたところ、やっぱりガウス変形型でした。これに気づいただけでも、この文章を書いた値打ちがありますね。書かなかったら絶対に気づかなかったと思います。リーのテクニカラー・カメラ用の35mmF2の構成は、
ワイドコンバータ部: 2群2枚 倍率約0.7倍
マスターレンズ部: 4群5枚(多分、正、負、貼り合せメニスカス、正)、焦点距離約50mm

要するに、50mmF2のガウス変形レンズ(つまりはスピード・パンクロ)の前に、0.7倍のワイドコンバータを置いたわけです。あれれ、ということは、リーはスピードパンクロと逆望遠を同時に開発していたということですね。気がつきませんでした。

この型のレンズはイメージサークルがきっちりと計算されていますので、35mmシネ用のレンズはきっちり35mmシネフィルムしかカバーしません。従ってAPS-Cはカバーしますが、EOS 5Dのようなフルサイズはカバーしません。標準レンズのようにイメージサークルに余裕を持たせることはないようです。絞るにつれてイメージサークルが広がることもないようです。

逆望遠レンズには、あまり大昔のレンズはありません。多分シネカメラ用の広角レンズしかないと思います。戦後アンジェニューがレトロフォーカスという名前で成功しますが、残念ながら私は使ったことがありません。


2009.7.7 大昔のレンズ入門(28) 複合型

私は複合型については良く知らないのですが、「レンズ設計のすべて」(辻定彦著、電波新聞社)には次のように書いてあります。この本では折衷型と呼ばれています。
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設計の仕様が厳しくなってくると、いくつかのレンズタイプのいいところを組み合わせて性能を引き出せないかと試みることがある。必ずしも全てがうまくいくわけではないが、中には比較的良好な結果が得られることがある。多くの場合、組み合わせた結果の収差はそれぞれの特徴の中間的な性質を示すが、経験上からいうと前群の構成の特徴をより強く持つ。
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ようするに、レンズの前玉と後玉と適当に混ぜてもかまわない、ということのようです。「レンズ設計のすべて」によると次のような例があるそうです。
- 前:Unar 後:Protar --> Tessar
- 前:Protar 後:Unar ---> オリジナルのProtarよりバランスが悪い
- 前:Gauss 後:Plasmat ---> Miniature Plasmat 良好な性能、El-Nikkor 50/2.8やCanon FD Macro 50/3.5がこのタイプ。
- 前:Plasmat 後:Gauss ---> 良好な性能。製品化されていないのが不思議。
- 前:Gauss 後:分離型Plasmat ---> Makro Plasmat, Canon SE 45/1.7
- 前:分離型Plasmat 後:Gauss ---> Hexanon AR 40/1.8
- 前:Tessar 後:Plasmat ---> 思ったほど良くない
- 前:Gauss 後:Topogon ---> XenotarはGaussより広角に適し、Topogonより大口径に適する

あなたも前玉と後玉を適当にブレンドして、オリジナルのレンズを作ってみましょう。(私はプロターリンゼとザッツ・プラズマットの組み合わせはやっとことがありますが、それ以外はやったことありません)


2009.7.6 大昔のレンズ入門(27) 5枚エレメントのガウス型レンズ

5枚エレメントのガウス型レンズは、ダブルガウス型のレンズの中の、一方の貼り合わせレンズを、メニスカス単レンズに置き換えたものです。大別すると2種類あります。
1. メニスカス単レンズが厚いもの。大口径レンズに向きます。例えば、レイ(Wray)のF2 ユニライト(Unilite)。
2. メニスカス単レンズが薄いもの。広角レンズに向きます。どちらかというと、前群ガウス、後群トポゴンの複合型と考えた方が良い、と書いてある本もあります。たとえば、ツアイスのビオメターやシュナイダーのクセノター。

この型を最初に設計したのはWrayのC.G. Wynneで1944年のことだそうです。ほとんどのレンズは戦後に作られており、多分全部優秀です。なので、あまり大昔のレンズという感じはしません。現代のレンズとあまり変わらないと思います。

この型のいいところは、安くて良いレンズが買え、改造なしで手軽に使えるという点です。たとえば、ペンタコン・シックス用のビオメター 2.8/80mmなどは超お買い得です。マウントアダプタも安いのからアオれるものまで豊富に揃っています。

この型は、日本製の一眼レフ用交換レンズにも使われています。たとえば、オリンパス OM Zuiko Maktro 50mm/F3.5などがあります。このレンズはうまく近接補正をしており、私は今でも愛用しています。実は、オリンパスOM-4の時代には持っていただけで使ったことがなく、キヤノンEOS 10Dを買ってから使いだしました。改造したレンズの記録にとても便利です。

この型のレンズを熱心に研究している人は少ないと思いますので、まだまだ新しい発見が期待できます。


2009.7.5 大昔のレンズ入門(26) レンズの型の見分け方

昨日、”ダブル・ガウス型以外のレンズにも同じ名前が使われている場合が多いので、買うときは注意が必要です”、と書いたのですが、私もよく間違いますので、なかなか難しいものです。ダブルガウス型のレンズだとばかり思って買ったのに、家に帰って分解してみたら、ダブルガウス型じゃなくて、ひどくがっかりしたことがあります。逆にテッサー型だろうと思って買ったレンズを分解してみたら、ダブルガウス型だったので驚いたということもあります。

●まずはレンズのスペックから判断します。例えば、戦前のF1.5の玉は有名なものばかりですので迷うことはありません。F2/100mmも多分ダブルガウスだと思います。キノ・プラズマットやエルノスターの可能性もありますが、そんなのは見ればすぐに分かりますので、心配には及びません。F2.3/100mmとかF2.7/150mmとかは多分ダブルガウスではないと思います。F1.9/75mmクラスには、ダブルガウスかキノ・プラズマットかヘクトールの可能性が高いのですが、もしダブルガウスじゃなかったら、そっちの方がうれしいので、気にしなくてもよさそうです。

●レンズの反射を見て判断します。前玉、後玉とも、それぞれ明るい反射が4個(つまり2群)、暗い反射が1個(張り合わせが一箇所)であれば、ダブルガウスかプラズマットの類だと思われます。電球を一個だけ反射させるのがこつです。たくさんの電球が反射すると見分けがつきません。なので、お店で判断することは、なかなか難しいです。

●バックフォーカスを見て判断します。レンズをテーブルに置いて、天井の蛍光灯に向かって徐々に持ち上げます。テーブルに蛍光灯がはっきり写ったところがフォーカスですので、その時の後玉の高さからだいたいのバックフォーカスが分かります。ダブルガウス型だとバックフォーカスは焦点距離の70%−80%のものが多いのですが、エルノスター・ゾナー型では50%程度ですので、区別が付きます。

●シネレンズの場合には同じレンズ名で広角から望遠までラインアップを揃える必要があり、違う型のレンズに同じ名前を付けることがよくあります。たとえば、Dallmeyer Kinematograph(ダブルガウス型、キノ・プラズマット型、古典望遠型が混ざっているようです)。ボシュロムのシネレンズ(F2.7/152mmはトリプレットのようです)など。

●ロス社はいろいろな型のレンズを看板ブランドであるXPRESという名前で売っています。F1.9はダブルガウス型、F2.9は多分ダイナー型、F3.5-F4.5はテッサー型またはテッサー改良型。

レンズの型が分かると、写真が少し上手に撮れるようになるかもしれません。レンズの特性をだいたい把握した上で撮影できるからです。また、写真をWebに発表する時に、多少気のきいたコメントが書けるかもしれません。


2009.7.4 大昔のレンズ入門(25) おすすめのダブル・ガウス・レンズ

入門ですので、昨日のような重箱の隅のような話ではなく、おすすめのダブル・ガウス・レンズについて書きたいと思います。キングズレークはダブル・ガウス型のレンズを列挙していますが、どれがおすすめかは書いていません。書いてあるレンズを全部試してみるのがいいのですが、実際はそういうわけにもいかないので、私が試した範囲でおすすめできるレンズを書きたいと思います。キングズレークも書いていますが、ダブル・ガウス型以外のレンズにも同じ名前が使われている場合が多いので、買うときは注意が必要です。

●ツァイス ビオター 1.5/75mm
安く買える大昔の大口径ダブル・ガウス・レンズと言えばこれが最有力です。M42のレンズをアダプタで使っていますが、EOS 5Dでも特に問題ありません。歴史的なレンズですし、昔のレンズの味わいが十分楽しめます。

●アンジェニュー TYPE S21 1.5/50mm
自分で持っていないのに言うのもなんですが、大変面白いレンズです。レンズはこれ一本しか持っていません、なんて人がもしいたら、尊敬されると思います。EXAKTAあるいはM42マウントのレンズを市販のマウントアダプタで使えますので入門に適します。EOS 5Dでは残念ながら無限遠でミラーと衝突しますが、APS-CやAPS-Hのデジカメであれば無限から使えます。絞り開放では、大昔のレンズっぽい、収差がいっぱいできらびやかな写真が撮れます。ちなみに私が買わない理由は、値段が高すぎるからです。安くなったら是非欲しいです。

●ライツ ズマレックス 1.5/85mm
フードが壊れているものや、失われているものが安いので狙い目です。M8やR-D1で普通に使ってもいいですし、ヘッドをはずして一眼レフ用に改造することもできます。私はEOS 5Dで使っていますが、オリジナルのフードは浅すぎるし太すぎるので、深くて小さいフードを自作して取り付けています。開放でのハイライトの滲みがすばらしく、愛用の一本になることは間違いありません。

●テーラー・ホブソン スピード・パンクロ F2
こちらが本家というべきレンズですので、正統派を目指す方におすすめです。ニコンFマウントに改造済みの2/75mmが見つかれば、普通に使えると思います。古いのから新しいまでいろいろありますが、歴史にこだわるなら、できるだけ古いものを選びたいものです。製造番号が30万以下であれば多分戦前のレンズだと思われます。

●ダルメヤー スーパーシックス F1.9
最近値上がりしてしまって、おすすめと言える値段ではなくなってしまいました。去年激安のが1本買えたのは幸運でしたが、2本目を買う目処はありません。スーパーシックスを持っている友達に頼んで貸してもらうことをおすすめします。

●アストロ ガウスタッカー F2
これも最近値上がりしていますが、まだまだスーパーシックスほどではありません。私の持っている75mmはスピードパンクロに似ており、100mmはスーパーシックスに似ています。アストロが好きな人は楽しめると思います。

●ロス エクスプレス F1.9
これは明らかに入門を逸脱しており、上級コースかもしれません。キングズレークの本にも記載されておらず、XPRESにF1.9があるなんて最近まで知りませんでした。玉数が少なすぎて、相場はありません。掘り出し物が見つかる可能性もあります。写りはスーパーシックスに似ています。


2009.7.3 大昔のレンズ入門(24) ビオターの謎

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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リーに続いて、何人かの設計者がこの型の長所を認め始めた。1925年に、A.トロニエ(Tronnier)がシュナーダーのF2クセノン(Xenon)レンズを設計し、2年後、ツァイスのメルテがビオター(Biotar)のシリーズを設計した。
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なるほど、ビオターは1927年からなんだ、と思っていたのですが、実はツァイスの台帳にはもっともっと若いシリアルナンバーのビオターがあるようなのです。
Biotar 8.5cm F??? 推定1910年 1本
Biotar 8.5cm F??? 推定1911年 1本
Biotar 8.5cm F1.8 推定1911年 1本
Biotar 25cm F2.0 推定1913年 1本
Biotar 5cm F1.9 推定1913年 2本

Biotar 12cm F1.9 推定1920年 1本
Biotar 5cm F1.8 推定1921年 1本
Biotar 4cm F1.8 推定1921年 1本
Biotar 4cm F1.8 推定1925年 1本
Biotar 5cm F1.8 推定1925年 1本
Biotar 6cm F1.8 推定1925年 2本
Biotar 7.5cm F1.8 推定1925年 2本

Biotar Serie III F1.8 12cm 推定1926年 1本
Biotar Serie III F1.8 7.5cm 推定1926年 1本
Biotar Serie III F1.8 4.5cm 推定1926年 1本

Biotar F1.4 4cm 1927年 250本 KEF向け
Biotar F1.4 2cm 1928年 10本 Pathe
Biotar F1.4 2.5cm 1928年 393本 Bell & Howell
Biotar F1.4 2.5cm 1928年 500本 Filmo
Biotar F1.4 5cm 1928年 245本 Kinamo
Biotar F1.4 2.5cm 1929年 200本 Bell & Howell
Biotar F1.4 2cm 1929年 500本 Pathe
Biotar F1.4 4cm 1929年 100本 Debrie

私はてっきり1927年にメルテが設計する前にはビオターは存在しなかったのだと思っていました。しかし、帳簿を調べると、推定1910年から1913年まで1本か2本の少量生産が行われています。25cm F1.9はかなり特殊なレンズで、スローモーションカメラ用とかの特別注文だったと思われます。後のビオターとは違う型のレンズ、たとえばペッツバール型じゃないかと推測します。まさに生物学用なのでBiotarと名付けられたのかもしれません。

1920年に生産が再開されますが、やはり1本か2本です。焦点距離が短いものが多くなっています。レンズの型も出荷先も不明です。

1926年にBiotar Serie IIIというレンズが3本だけ記録されています。これはひょっとしたら、メルテが試作したものかもしれませんね。

1927年から映画用に 2cm - 5cm F1.4 のレンズの生産が始まります。これはキングズレーク氏の記述と一致します。1927年はビオターの量産出荷が始まった年だったようです。急に映画用の注文が来たので、レンズの名前を考えている暇がなく、ツアイスの昔の明るいレンズの名前を流用したのかもしれません。型は違うが明るさの近いレンズに同じ名前を与えるのはツアイスだけではなく、ライツも有名ですね。

実は上のリストの3本目のビオター 8.5cm F1.8を買おうとして某カメラ屋に問い合わせたことがあるのですが、撮影用ではない、との回答で断念しました。どうやら博物館に飾るための物のようです。ですので、1910年代のビオターの研究は現状では不可能であり、よしたほうがいい、と思います。カメラ博物館の学芸員の方に是非研究して頂きたいレンズだと思います。これはちょっとだけ入門の域を超えてるかもしれません。


2009.7.2 大昔のレンズ入門(12.1) オイリプランとプラズマット

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)には、シュルツ・アンド・ビラーベックが特許を持つオイリプランについて次のように書いてあります。
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最初に設計したのは図6.12のような空気間隔入りのダゴール型のF4.5ダブルプラズマットまたはザッツ・プラズマット(Satz Plasmat)である。メイヤーは同じようなレンズをオイリプランの名前で製造していたから、シュルツ・アンド・ビラーベックからこの名前を使う権利を得ていたのであろう。
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いまいちはっきりしませんね。この話はどこかで聞いたことがあります。やっと思い出しました。”カメラスタイル 23 究極の珍品カメラ&レンズ特集”(株式会社ワールドプレス)から引用します。ヒューゴメイヤー(フーゴ・マイヤー)社に関して次のような記載があります。
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そのあと事業は拡大を続け、ベルリンからゲルリッツに移転してきたシュルツエ・ウント・ビラーベック社を1911年に買収しています。この会社は1905年にできた中堅のレンズメーカーで、オイリュプランなどを出して事業を成長させていたのですが、ちょっと経済的なつまづきがあって、マイヤーに身売りしたのです。このオイリュプランの商標はマイヤーに引き継がれて、1916年から市場に出ています。
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これは分かりやすい説明ですね。すっきりしました。

それはそうと、カタカナ表記がいろいろあって難しいですね。"ヒューゴメイヤー"と"フーゴ・マイヤー"、オイリュプランとオイリプラン、シュルツ・アンド・ビラーベックとシュルツエ・ウント・ビラーベックなど、微妙に違いますね。私の方針としては、考えられるカタカナ表記を全部列挙して、検索される可能性を増やしています。統一はちょっと無理ですので、各自好きなようにカタカナ表記すればいいと思います。


2009.7.1 大昔のレンズ入門(23) オピック

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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第1期の流行が終わると、ダブル・ガウス型はしばらく設計者から忘れられていたが、1920年にテーラー・ホブスン社のH.W.リーが一般カメラ用に画角±23度で、F2まで明るくすることに成功した。このレンズの設計手順は公表されている。リーのレンズがプラナーと異なる点はその非対称性と、フリントに替わり、より屈折率の高いクラウンの使用である。このレンズはオピック(Opic)あるいはシリーズOと呼ばれ、テーラー・ホブソンの「カタログ」に長く出ていた。
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昨日調べましたように、1910年から1921年までツァイスではプラナーを生産していませんので、これが「忘れられていた」期間だと思います。1920年にテーラー・ホブスンが復活させたのを見て、ツァイスも再度作り出したのかなぁと思ったのですが、それは後で検討します。

オピックはキングズレークの本で歴史上重要なレンズとして登場するにもかかわらず、ほとんど誰も知りません。興味を持つ人もほとんどいません。中古カメラ屋さんに聞いても無駄ですし、Webを検索しても何も見つけることはできません。レンズは時々売りに出ます。最近3年で3本見ましたので、1年に1本くらいのペースということになります。誰も知らないレンズだから安かというと、そうでもありません。テーラー・ホブソンのF2レンズは、オピックであろうがオピックでなかろうが、それなりに高いのです。

オピックのカタログはこちらにあります。

絞り開放での写りは、甘めのスピードパンクロです。絞るにつれてどんどんシャープになります。しかしながら、オピックの購入あるいは研究は悪趣味であるばかりではなく、時として危険を伴いますので、絶対にやめましょう。もしどうしてもというのであれば、私が一通り買い終わってからにしましょう。


2009.6.43 大昔のレンズ入門(22) プラナー

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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このバリッド・サーフェスの曲率半径を替えることにより、他の収差に関係なく色収差を自由に制御することができる。ルドルフは屈折率1.57の2種類のガラスを使って設計し、F4.5の優れたレンズ、プラナー(Planar)を開発した。プラナーはツァイスにより長年製造され、後にグラフィック・アートのカラー写真用のアポ・プラナー(Apo-Planar)も発売された。
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プラナーというブランドには結構たくさんの種類があり、結構混乱を招きます。人によって思い描くプラナーがかなり違うようです。たとえば、”初期のプラナー”というのが売っていた時、私は自分が持っている1899年製造のプラナー Series Ia よりさらに古いレンズを想像し、ある人はリンホフのプラナーを想像し、ある人はローライフレックスのプラナーを想像し、ある人はハッセルのプラナーを想像し、はたまたある人はコンタックスのプラナーを想像します。

プラナーという名前のレンズは、ほとんどが戦後に作られたのもので、戦前に作られたものは少ないようです。戦前のツァイスはダブルガウス型のレンズのうち、明るいものをビオターと呼び、暗いものをプラナーと呼んでいました。戦前のプラナー製造状況は、帳簿上では次の通りです。(昔は帳簿が残っていないレンズの方が多いので、正確ではありませんが)

1897 2本
1898 4本
1899 8本
1900 - 1904 1,622本
1905 200本
1906 329本
1907 210本
1908 188本
1909 324本
1910 0本
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  |
1922 87本
1923 200本
1924 200本
1925 150本
1926 330本
1927 120本
1928 0本

最盛期は1900年から1909年です。なぜか1910年になると生産中止になります。そして1922年に復活すると1927年まで作られ、1928年にまた中止になります。

1897年から1910年を初期と仮に呼び、1922年から1928年までを後期と仮に呼びます。初期、たとえば1902年に生産されたプラナーを調べると、
6.3/34mm 1本
4.5/50mm 38本
3.6/60mm 10本
4.5/75mm 29本
4.5/100mm 40本
3.8/130mm 12本
3.8/160mm 10本
4.0/205mm 20本
4.0/250mm 28本
4.2/300mm 8本
4.5/370mm 7本
初期のプラナーは本数は少ないですが、34mmから370mmまで割とまんべんなく作られたようです。

一方、後期は1922年から1927年までの全体の集計ができまして、
4.5/20mm 220本
4.5/35mm 300本
4.5/50mm 228本
4.5/75mm 330本
4.5/100mm 129本
これは多分、シネカメラ用ですね。出荷先はMiphoと書いてあります。

疲れるので、このあたりでやめておきますが、プラナーについて徹底的に調査するのは、非常に良い趣味だと思います。
リンホフ、ローライ、ハッセル、コンタックスのプラナーについては専門外ですので、良く分かりません。是非どなたか調査してみてください。


2009.6.42 大昔のレンズ入門(21) アイソスチグマー

キングズレークの本の中で約1ページにわたって大きく取り上げられている歴史的なレンズにもかかわらず、世間から全く無視されているという意味で、大変珍しいレンズです。Googleで検索しても、私の書いた記事以外、何も見つけることができません。私がこのレンズを探した時、たまたまヤフオクに出ており、1,600円で落札しました。しかし、これはその後アイソスチグマーを見かけたことはなく、いったいどの程度入手しにくいのか、また値段はいくらが妥当なのか、分かりません。

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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この型(メニスカス単エレメント4枚構成)の改良で面白いのは、ダブル・ガウスの中央の空気間隔に薄い凹のエレメントを入れる設計である。これはロンドンのベック社が1906年に、アイソスチグマー(Isostigmar)レンズとして発表したのが最初である。アイススチグマーは上記の7シリーズが製造された。
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このレンズの中央に入っている薄い凹のエレメントは、ほとんど平板ガラスのように見えます。分解してしまうと、表裏が分からなくなり、組み立てる時に困ります。しかし、逆向きに取り付けた時の写真と、正しく取り付けた時の写真を比較しても区別がつきませんので、どっちでもよいようです。

画面全体を覆う薄いフレアが出て、コントラストは低めですが、開放からシャープです。デジタルカメラでもクラシックな感じの良い写真が撮れます。もし安いアイソスチグマーを見つけたら買いましょう。クモリありとか、カビありとか、バルサム切れとか、剥離とか、汚れありとか、絞り故障とか、のレンズが特におすすめです。中古カメラ店の店頭でこのような理想的なレンズが安く売られているのを発見した場合、喜んだりしてはいけません。こんなレンズは使い物にならないのだけれども、部品取り用に買っていくのだ、みたいな厳しい態度で値切りましょう。店員さんが何も知らないからといって、「このレンズはガラスが硬いので洗えばきれいになるのに、安すぎますよ」、などという知識を披露してはいけません。

開放からシャープですので、高速シャッターの切れるデジカメでは、絞れなくても問題ありません。ちょっと絞れれば、さらにコントラストが上がるという程度の違いです。5群5枚の構成で貼り合わせ面はありませんので、バルサムが剥離することはありません。コーティングはありませんので、かびであろうが、グリースであろうが、汚れであろうが、ごしごし洗えば全部取れます。レンズは簡単にばらばらに分解できます。中性洗剤でごしごし洗っても汚れが取れなかったら、爪で擦りましょう。爪で擦るのがいやな人は、割りばしとか竹のヘラとかでもいいようです。

カビに侵されるガラスと、侵されないガラスがあるようです。窓ガラスと同じようなガラスを使っている大昔のレンズは、カビに侵されにくいようです。レンズの表面に付いた汚れにカビが発生している場合でも、きれいに洗い流せる場合があります。もちろん、軽く拭いただけで傷だらけになるような柔らかいコーティングがかかっていることもあります。第二次世界大戦前後のレンズは注意が必要です。まあ、何個か分解して清掃してみれば、すぐに分かると思います。

今ある9.5インチはちょっと長すぎるので、3インチくらいの短いのがあれば欲しいなぁと思っています。


2009.6.41 大昔のレンズ入門(20) ゾナー

残念ながら、ゾナーのことはよく分かりません。一応、2.8/180mm, 4/135mmを持っていますが、普通に良く写るので、そのままお蔵入りしています。なにしろコンタックスとは縁がないものでして、最も有名な1.5/50mmを触ったこともありません。ちょっと調べたら、JUPITER-9 2/85mmがゾナー 1.5/50mmに似たレンズ構成だったのですが、こちらも普通に良く写るレンズで、あまりクセが強くありません。

まあ、1932年にコンタックス用のSonnar 1.5/50mmが357本も出荷されていますし、きっとライツのXenon 1.5/50mmと熾烈な競争をしていたはずですし、Sonnar 1.5/50対Xenon 1.5/50の徹底比較サイトがいっぱいあると思いますので、私の出番はありませんね。これでSonnarの話題はおしまいというのもさみしいので、レンジファインダーの話題には触れてはいけないと思いながら、ちょっとだけ出荷本数を調べてみました。

year Leica Xenon 1.5/50 Contax Sonnar 1.5/50 Leica Sonnar 1.5/50
1932 357 50
1933 1059 3
1934 1250
1935 4 3500
1936 2000 5102
1937 1500 10000
1938 1000 5020
1939 2000 6600
total 6504 32888 53

Leica Xenon 1.5/50mm, Contax Sonnar 1.5/50mm, Leica Sonnar 1.5/50mmの1932年から39年までの帳簿上の製造本数比較

注意: Xenonは1939年が最後で、それ以降は量産はされていないようです
注意: Contax Sonnar 1.5/50mmは1940年以降も作られていますが記載していません
注意: 出荷先がLeica-Fと書いてあるレンズをLeica Sonnarと分類しましたが、良く分かりません。実際はもっと多いんじゃないかと思います。
注意: ざっと調べただけなので、いい加減です。それに参考資料の記載と異なるレンズもいっぱいあるようです
注意: "世界のライカレンズPart 4"の44ページでXenon 1.5/50mmは6190本生産と書いてありますので、こちらが正しいと思います
参考資料:http://www.forloren.dk/lbf/leica_lens_serial.htm
参考資料:"Fabrikationsbuch Photooptik II Carl Zeiss Jena", Tabelle 2 Onjektive sortiert (ツアイスの黄色い電話帳)
参考資料:"ライカのレンズ"(写真工業出版社) 詳細ライカレンズ別シリアルナンバーリスト

Sonnarの方が圧倒的に生産本数が多く、熾烈な競争とは言い難いですね。同じ年に製造されたXenonとSonnarを比較することは簡単にできそうです。


2009.6.40 大昔のレンズ入門(19) エルノスター

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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1919年に、エルネマン社のルートヴィヒ・ベルテレ(Ludwig Bertele, 1900-85)がこの型の構成について研究し、前群の2枚の凸エレメントを張り合わせに変えてみた。こうして当時23歳で、しかもほとんど独学であった彼が画期的なF2エルノスター(Ernostar)を開発し、小型のエルマノックス・カメラ(Ermanox camera)につけて販売された。このカメラはその場の明るさだけで速いシャッターが切れ、画質も十分というスナップ用カメラの第1号であった。このカメラでエーリヒ・ザロモン(Erich Salomon)が撮った著名な政治家の写真は有名である。翌年、ベルテレはエルノスターを改良して、画角を少し広げ、さらにF1.8まで明るくすることに成功した。
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”この型”とは「基本的なエルノスター・ゾナー型」のことで、その凸レンズを張り合わせに変えてみたら、偶然画期的なレンズができた、とはとても思えません。やはり明確な設計指針があったと思います。この時代の最も明るいレンズであるOpic 2/108mm(1920年設計), Ernostar 2/100mm(1923年設計), Ernostar 1.8/105mm(1924年設計)の外形描写をデジカメを使って比較してみたところ、次のような感想を持ちました。

(1) Ernostarはバックフォーカスを短くして望遠ぎみに設計し、奥行を短縮し、カメラシステム全体の小型化を狙った
(2) Ernostarは後玉を小さくし、ヘリコイドやフォーカルプレーンシャッターの設計を容易にした(キングズレークの本の図7.9(a)の後玉が大きいのでまぎらわしいのですが、実際のレンズの後玉は小さいのです。)

つまり、Opicがレンズ単体の改良を目指しているのに対し、Ernostarはカメラシステム全体の改良を目指したのではないかと思います。

"翌年、ベルテレはエルノスターを改良して、画角を少し広げ、さらにF1.8まで明るくすることに成功した。” と書いてありますが、実際に撮影して比べてみると、少しも明るくなっていません。確かにF値は少し小さくなっていますが、T値は全く同じようです。F1.8を設計した理由は多分、画面全体を覆うベイリンググレアの低減だったと思います。

Ernostar F2には、画面全体を覆うベイリング・グレアにより黒のしまりがなくなり、コントラストが低下するという欠点があるのですが(ひょっとしたら私のレンズだけかもしれませんが)、それ以外はOpic F2より勝っていると思います。Ernostar F1.8ではこの問題が改善され、Opic F2によく似たコントラストになっています。そればかりか、ボケの形までOpic F2に似てしまいました。Ernostar F2の柔らかいボケから、F1.8でははっきりとした二線ボケに変わっており、ちょっと残念です。

ここで、Ernostar F1.8とOpic F2の構成図を比較してみると、なんとなく良く似ています。Ernostar F2の6枚のレンズうち、2枚目抜いて、5枚目の後ろに貼れば、Opic F2になるようにも見えます。

Ernostarを買うとき、F2が良いかF1.8が良いか悩みました。カメラ屋さんに聞いたら、F2の方がシャープだからF2を買えと言うのでF2を買いました。確かにシャープで、ボケが柔らかく、満足しました。その後、F1.8を買って比べてみたら、F1.8も同じくらいシャープで、明るさも同じで、ボケだけが違うという妙な結果になりました。もしこれからErnostarを買う方は、迷わずF2とF1.8を両方買いましょう。そして比較して、結果を教えて下さい。できればOpic F2もいっしょに買って比較しましょう。私とは全く違う結果になるかもしれません。


2009.6.39 大昔のレンズ入門(18) ウルトラスチグマット

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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トリプレットをさらに明るくする良い方法は、前側の空気間隔のところに凸のメニスカス・エレメントを入れることである。最初にこの案を出したのはチャールズ・C・マイナーというシカゴの光学者らしい。1916年、彼はこの形式の4枚玉レンズの特許をとり、ガンドラックが、プロ用シネカメラ向けに焦点距離40mm, 50mm, 75mm F1.9のウルトラスチグマット(Ultrastigmat)として製造した。画角は狭かったがシネカメラ向けであったため、問題にならなかった。後に、いくつかのメーカーがこの簡単な構成を採用して、主として小型カメラ向けのF1.9のレンズを製作した。
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この型は後にエルノスターやゾナーに発展しますので、一般には「基本的なエルノスター・ゾナー型」と呼ばれています。マイナー型とかウルトラスチグマット型とか呼ばれてもおかしくはないのですが、誰もそのようには呼びません。この型のレンズには、アンジェニューのY型レンズ、 コダックのシネ・エクター、 テーラーホブソンのアイボタールなどがあると同書に書いてあります。たまたま、ライツのヘクトール・ラピッド 1.4/2.7cm(Cマウント、普通は2.5cmのようですが、このレンズはどういうわけか27mmでした)を見たら、この型でした。CマウントのF1.4クラスのレンズにはこの型が多いのかもしれません。ヘクトールという名前がついているので、てっきりヘクトール型のレンズだと思ったら、ウルトラスチグマット型だったので驚きました。でも冷静に考えれば、F1.4のレンズがヘクトール型であるはずもなく、最初から気付くべきでした。ライツがHektor 2.5/50mm, 1.9/73mm, 4.5/135mm, 6.3/28mmなどのライカで有名になったレンズの名前を、後にこのシネレンズに流用したのだなぁ、やっぱりレンズはブランドなんのだなぁ、と思ったのでした。

念のため、”ライカのレンズ”(写真工業社)の”詳細ライカレンズ別シリアルナンバーリスト”を見ると、ヘクトール・ラピッドの方が、ヘクトール 1.9/73mm, 4.5/135mm, 6.3/28mmより先に作られているではありませんか。ヘクトール・ラピッドの前にはHektor 2.5/50mmしかありません。ひょっとしたら、マックス・べレークの愛犬がこの小さなシネレンズを見て、ワンと吠えたので、ヘクトール・ラピッドという名前に決まったのかもしれません。

さて、ガンドラックのウルトラスチグマットですが、某有名紀行写真家が見つけたとの噂があります。私はまだ実物を見たことがないので、是非見てみたいものです。


2009.6.38 大昔のレンズ入門(17) スピーディック型

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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トリプレット・レンズをより明るくする一つの方法は、後ろの強い凸エレメントを二つに割ることである。この案は1900年にエドワード・ボシュが試み、 後にH.W.リーが1924年、彼のスピーディック・レンズ(Speedic lens)で一般化した。設計の手順は、リー自身が発表している。F2.5の明るさでは、球面収差はよく補正されているが、中間の画角の非点収差は前より悪くなっている。 この型のレンズはアストロ社のW.F.ビーリケほか何人かが設計しているが、F3以上の明るいレンズを設計するには別のよい方法がある。
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エドワード・ボシュはコンタクトレンズで有名なボシュロムの歴史に登場します。 当時はカメラ用のレンズも作っていました。ツアイスの特許を使った、ボシュロム・テッサーも有名ですね。

”別のよい方法がある”というのは、エルノスター・ゾナー型より悪いという意味なのですが、ちょっとこれは厳しすぎるかもしれませんね。スピーディック型のレンズを手にとってみるとすぐに分かるのですが、「軽い」という大きな特長があります。F1.8 - F2.5で150mmから200mmくらいのレンズをエルノスター型やダブルガウス型で作るとものすごく重くなるのですが、スピーディック型だとガラスが薄いので驚くほど軽いのです。機動力重視のため、多少の収差には目をつぶって、明るくて軽いレンズを作ってみました、という感じです。

スピーディック型のレンズには次のようなものがあります。
Taylor Hobson Series X "Speedic" F2.5
Astro Berlin Tachar / Pan Tachar / Contrast Tachar F2.3/F1.8
RIETZSCHEL PROLINEAR F1.9


2009.6.37 大昔のレンズ入門(16) ヘリアーとその変形

1900年にフォクトレンダーのハーティングが最初のヘリアーレンズを設計します。トリプレットの前後の単レンズを貼り合わせに変えることにより収差の改善を目指しています。ただ、収差が一気に良くなったわけではなく、1902年に同じ構成で再設計、1903年にダイナー、同じ年にオクシン、と少しづつ改良を行っています。

ヘリアーはデジタルカメラに取り付けてもシャープに写ります。ただ、よく写りすぎて、大昔のレンズらしい描写の破綻を楽しむことはできません。ちゃんとした写真を大昔のレンズで撮りたい人向きのレンズだと思います。

1919年に、ダルメヤーがペンタック F2.9というダイナー型のレンズを発表します。このレンズは評判がよく長く販売されました。ロス・エクスプレス F2.9もたぶんこの型ではないかと思いますが、はっきりしません。戦後にフォクトレンダーが出したアポランターも多分このタイプだと思います。

そして、今年、宮崎光学から最新のヘリアー型レンズである MS Optical Apo Qualia 50mm F3.5が発売されました、と書こうと思ったのですが、宮崎光学からはまだ発表されていないようです。中将姫光学さんのブログに作例が出ています。

ヘリアーとかアポランターはとても魅力的な名前なので、コシナがこれらの名前を復活させたのは良いアイデアだと思います。しかし、ネットで検索する時には、ちょっと困ります。コシナのレンズばかりヒットします。

ヘリアーとその変形レンズの描写の違いを調査研究するのは、大変良い趣味だと思います。オクシンは見たことがありませんが、他のレンズは比較的簡単に入手できると思います。同じ焦点距離で、年代と銘柄の異なるレンズをずらっと並べるのは結構難しく、長く楽しめると思います。


2009.6.36 大昔のレンズ入門(15) クックのトリプレット

1893年、クック社の光学設計主任だったデニス・テーラーが全く新しい形の3枚玉写真レンズを開発し、ロンドン光学学会で発表します。ツアイスのアナスチグマットよりは数年遅いですが、テッサーよりは9年も早いです。ツアイスがイエナの新ガラスを使ったのに対し、クックのトリプレットは普通のガラスを使用しました。たった3枚の薄いレンズで明るく鮮明な画像を得られることは、当時画期的でした。戦前の日本製の普及型のカメラでもこの型のレンズがたくさん使われました。ただ、クックのトリプレットの歴史的研究は見つけることができません。せいぜいがんばって、この程度です。

クックのトリプレットは非常に多くのメーカーで製造されました。レンズの枚数を増やした改良型のレンズもたくさん出ました。新しいガラスを使って広角化したものや、ソフトフォーカス、収差を抑えた製版用など、多くのバリエーションも作られています。既に基本設計から116年もたっているのに、今でもバリバリの現役です。

デジタルカメラとの相性も良く、うちにあるSeries IIa F3.5やSeries V F8は、驚くほどシャープな写真が撮れます。ところが不思議なことに、後に各社の作るトリプレットレンズは、少なくとも戦前においては、時代が新しくなるほどシャープになるというわけではありません。逆に時代が新しいほど普及品が多くなり、品質が落ちる傾向にあります(テーラーホブソン以外のメーカーの話です。テーラーホブソンの新しいトリプレットは試していないので分かりません)。 さらに不思議なことに、レンズの枚数を増やしたからと言って、性能が良くなるとは限らないのです。

反対に、プラナーとオピックに始まる大口径ダブルガウスレンズは、時代が進むにつれて高性能になり、レンズの枚数が増えるにつれて高性能なる傾向があります。

これは多分、トリプレットが最初から完成の域に達していたことと、トリプレットが実用品だったことに起因するのではないかと推測します。写真システムの他の要素、たとえばフィルムの平面性、ピント合わせ精度、引き伸ばし機の性能、低価格カメラを買う顧客の画質に対する要求、などを総合的に判断したとき、必要最低限のトリプレットが作られたのではないかと推測します。実用レンズであるトリプレットの性能を必要以上に上げても、最終的に紙の上に現れる画像に影響を与えず、顧客は喜ばない、と考えたのではないかと思います。ところが、現代のデジカメの性能が高すぎるので、実用品のトリプレットの欠点が必要以上に目立ってしまうような気がします。

クックのトリプレットでも初期のものは過剰品質のようで、デジカメでも素晴らしい性能を示します。同様に、高級品として作られたテッサーやダブルガウスの類はやはり過剰品質だったようです。

逆に言うと、多くのトリプレットは正しい価格で提供されたと言えます。トリプレットは安物から製版用の高級品まで、非常に広範囲のレンズですので、調査研究のネタは山ほどあります。しかし、やはり幻のSeries I F3.1を何とか探し出したいものです。


2009.6.35 大昔のレンズ入門(14) ダルメヤー・スピード

イギリスのダルメヤー社がキノ・プラズマットと同じ型のレンズを作っています。どうやら、次のような関係にあるようです。
Meyer Kino Plasmat F1.5 <---> Dallmeyer Speed Anastigmat F1.5
Meyer Kino Plasmat F2.0 <---> Dallmeyer F1.9 (Super-Sixではないもの)

なぜダルメヤー社だけキノ・プラズマットと同じ型のレンズが作れたのかは定かではありません。ひょっとしたら、他の会社でもキノ・プラズマット型のレンズを作っていたかもしれません。大いに興味を引きますが、文献がない、レンズが高価である、レンズを分解してみないと分からない、などの理由により、 調査研究は進んでいません。というか、ダルメヤー・スピードがキノ・プラズマット型のレンズであることに気付いたのが 去年の8月のことでして、私としてはまだまだこれからの研究分野なのです。

キングズレークの本を見ると、ドイツとアメリカの特許しか記載されていませんので、何らかの理由でイギリスではキノプラズマットの特許が成立しなかったのかもしれませんね。あるいは、ルドルフ博士がフーゴ・メイヤーに駆け込む前に、ダルメヤーに立ち寄ってキノプラズマットの設計図を渡し気軽に製造許可を出したが、結局給料が折り合わず入社しなかったのかもしれません。あるいは、メイヤー社が製造したキノプラズマットをダルメヤー社がOEM調達し、刻印だけ打ちなおして販売したのかもしれません。

ダルメヤー社がダブルガウス型のスーパーシックス F1.9 を出した時期ははっきりしないのですが、たぶん1930年代ではないかと思います。それより前に F1.9のレンズがたくさん出ていますので、これらはキノ・プラズマット型が多かったと推測できます。もちろん、スーパーシックス F1.9が出てから後も、映画用にはキノ・プラズマット型のF1.9がたくさん出荷されているようです。

キノ・プラズマットもスーパーシックスも、超人気レンズなので、十分調査研究されているとばかり思っていたのですが、そうでもないようです。まあ、こんなことを調査研究しても何の役にもたたないので、良い道楽である、と言えます。


2009.6.34 大昔のレンズ入門(13) プラズマットの名前の由来

キングズレークの本では、メイヤー社は以前からオイリプランを作っていたが、パウル・ルドルフが入社してきて、似たようなレンズを設計してプラズマットと名付けた。プラズマットは被写界深度が深いという意味であるが、納得しがたい。その後、パウル・ルドルフの設計したレンズを一般にプラズマットという。と書いてあるように読めます。しかし、ツアイスでアナスチグマット、プラナー、ウナー、テッサーなどの著名な新型レンズを開発したパウル・ルドルフの行動としては素直には納得できないです。それに、キングズレークは”被写界深度の増加は、法外な球面収差と色収差の導入によってのみ得られる”と言っていますが、キノ・プラズマットを使ってみると、まさにこれが実現できていると実感できます。フーゴ・メイヤー社のシリアルナンバーに関する詳細な資料がないのではっきりしないのですが、私としては、次のような仮説を提案したいと思います。

---------- (これは仮説であり、裏付けはありません) ------------
1920年、第一次世界大戦後のインフレで財産を失ったパウル・ルドルフ博士は61歳でツアイスに復職を余儀なくされた。昔の功績があるので肩書はもらったが、ツアイスは大会社になってしまい、つまらない会議ばかり。そのうち会議をさぼってキノ・プラズマットというレンズを設計してしまった。わざと収差を増やして、被写界深度を稼ぐという前代未聞の奇妙な設計。当然ツアイスの収差を嫌う社風には合わず、経営陣と対立。ああ、アッベ博士さえ生きていてくれたらなぁと、悔し涙を流したのであった。

ええい、こんな会社辞めてやる、と叫ぶと、ルドルフはキノ・プラズマットの設計図を掴んで、フーゴ・メイヤーに駆け込んだのであった。当時、F1.5などという大口径レンズは他になかったので、メイヤーは大歓迎。何より有名人のルドルフ博士というブランドが欲しかったのである。そりゃもう、ルドルフ先生の好きにやって頂いてかまわないです。

レンズはとにかくブランドが大切である。いくら良いレンズでもブランドがないと売れない。あのルドルフ博士の発明したプラズマットは明るいのにピンボケにならない、という評判を得ることに成功し、キノ・プラズマットは飛ぶように売れた。それに引き替え、オイリプランは性能が良いのに全然売れない。あ、ルドルフ博士、もちろんマーケティングの口出ししてもらってかまわないですよ。そうだ、思い切って改名しましょう。”ルドルフ博士のプラズマット・ザッツ”にしましょう。なぁに、刻印さえ変えれば、レンズは同じでもいいよ。レンズはブランドがすべてなのだから。
------------------------- (仮説終わり) ---------------------


2009.6.33 大昔のレンズ入門(12) プラズマット

大昔のレンズの大口径部門人気ナンバーワンは多分キノ・プラズマットだと思います。以前からライカスクリューマウントのキノ・プラズマットは高価だったのですが、最近では全てのキノ・プラズマットが値上がりしてしまいました。特にパナソニックG1が出た後のCマウントの値上がりが激しく、今年になって、ほんの数か月で高騰してしまいました。

ルドルフがメイヤー入社以降に設計したレンズにはプラズマットという名前がついているものが多いのですが、次のような種類があります。
● Kino Plasmat F1.5/F2.0 キノ・プラズマット うちの1.5/75mm, 1.5/90mm, 2/90mmにはPlasmatの刻印はありませんが、Kinoという刻印はありません。推測ですが、焦点距離の短い映画用のレンズにはKino Plasmatと刻印し、焦点距離の長いスチルカメラ用のレンズには単にPlasmatと刻印したのではないかと思います。
● Makro Plasmat F2.7-F6 これも人気があり高価です。
● Miniature Plasmat F2.7 キングズレークの本には”特に良いところもなかったので、すぐに製造打ち切りになった”と書いてあるのですが、”レンズ設計のすべて”という本では、再設計の結果に基づき、”非常に良好な収差補正が可能であり、なぜ製品となっていないのか不思議なくらいである”と書いてあります。このレンズそのものは全く見つからなかったのですが、CANON MACRO FD 50mm 1:3.5が同じレンズ構成であることが分かりました。当然ながら、非常に優秀なレンズです。
● Kleinbild Plasmat F2.7 ローランドカメラに付いているのが有名ですが、私は使ったことがないので、よく分かりません。レンズ構成も不明。
● Globe Plasmat 超広角レンズ。ほんのわずかしか作られていないようで詳細不明。
● Satz Plasmat - Euryplanと同じ型の組み合わせレンズ。前玉と後玉をワンタッチで取り替えられます。
● Doppel Plasmat - レンズとしてはSatz Plasmatと同じだと思うのですが、使ったことがないので、よく分かりません。
● Russar Plasmat - 戦後ロシアで作られたものだと思うのですが、詳細不明
● Rapid Plasmat F1.0 - 特許を取っただけで、実物は存在しないと思われますが、プラズマット専門家のkinoplasmat亀吉さんが ”素人レンズ教室 第九回 「Rapid Plasmatを作っちゃおう」” で作っています。

キングズレークの本に、プラズマットという名前についての解説があります。
”プラズマットという名前をつけたのは、そのレンズが普通のものより被写界深度が深いからだといわれているが、それは納得しがたい。なぜならば被写界深度の増加は、法外な球面収差と色収差の導入によってのみ得られるからである。”


2009.6.32 大昔のレンズ入門(11) 空気間隔入りダゴール型

ダゴールの3枚張り合わせレンズを二組に分けて空気間隔を入れると、輪帯球面収差を改善することができます。1903年、シュルツ・アンド・ビラーベックのアーバイトが特許をとり、オイリプランという名前のレンズを売り出します。オイリプランはフーゴ・メイヤー(マイヤー)社からも販売されています。フーゴ・メイヤーからは同じ構成のレンズがザッツ・プラズマットまたはダブル・プラズマットという名前でも販売されています。オイリプランとプラズマットの違いは不明です。この違いを詳細に調べるのは良い研究テーマだと思います。

この型のレンズには、ツアイスのオルソメターロスの広角エクスプレス、シュナイダーのジンマーなどがあります。この型は広角で歪みがない高性能なレンズですので、大判でじっくり撮影するのに向くと思います。性能が高い割には人気がないので、お買い得だと思います。

肝心の写りについては、よく分かりません。明るさはテッサーやクックのトリプレットなどと同等なので、詳細に比較するのは、良い趣味だと思います。


2009.6.31 大昔のレンズ入門(10) ドッペル・アナスチグマット・ゲルツ

1892年に27歳の数学者エミール・フォン・フーフが3枚張り合わせのレンズを2個対称に配置したレンズを設計します。この案はツアイスには断られましたが、ゲルツに採用され、すぐに製造が始まります。これは、ダブル(ドッペル)・アナスチグマット・ゲルツと呼ばれます。このレンズは非常に人気があり、キングズレークの本には、わずか3年後の1895年までに3万本売れたと書いてあります。しかし、これはちょっとおおげさですね。1895年末でのツアイスの生産本数は1万4千本程度ですので、だいたい同じくらいだったか、少し多い程度だったのではないかと推測しますが、ゲルツの資料がないのではっきりしません。うちにある製造番号42564のものでも、手彫りの刻印がされていますので、ゲルツが当時大量生産できたとは、とても思えないのです。

フーフの提案を断ったはずのツアイスは、なぜかゲルツが特許が公示された直後に似たような特許を申請し、却下されます。それにもかかわらず、却下されたレンズをAnastigmat Series VIとして販売したそうです。ツアイスには特許を無視できるほどの勢いがあったのかもしれませんね。ツアイスのあせりが、逆にドッペル・アナスチグマット・ゲルツの人気を証明しているようです。

その後、フォクトレンダーのコリニア、シュタインハイルのオルソスチグマット、シュナイダーのアンギュロン、ツアイスのアマターなど、多数のレンズがドッペル・アナスチグマット・ゲルツと似た構成を採用します。

ドッペル・アナスチグマット・ゲルツは、1904年にダゴールに改名されます。歴史的レンズという意味では、改名前のドッペル・アナスチグマットと刻印されたレンズに魅力を感じます。

肝心の写りについては、私はさっぱり分かりません。一応デジカメでもシャープに写ることは確認しました。しかし、割と暗いレンズですし、開放からしっかり写るので、味がはっきり出るタイプのレンズではありません。どちらかというと、大判フィルムでじっくり味わうレンズではないかと思います。ですので、このレンズの調査研究は他の方におまかせしたいと思います。


2009.6.30 大昔のレンズ入門(9) テッサー型のレンズ

いろいろなメーカーが大量のテッサー型のレンズを作りました。ライツのエルマー、シュナーダーのクセナー、フォクトレンダーのスコパー、メイヤーのプリモターなどが有名です。ツアイスの特許を逃れるため、後群に一枚レンズを追加し、3枚張り合わせにしたレンズも現れました。ロスのエクスプレスやベルチオのオロールなどがあります。

テッサー型のレンズの特長は、どれもよく写るということです。欠点は、メーカーや銘柄が違っても似たような写りで、写真を見ても区別がつかないということです。膨大な数のレンズが作られているので、中には粗悪品もありますが、普通は安いので気になりません。逆に粗悪品を収集するのも面白いと思います。F2.8より明るいテッサーは一般に評判が悪いのですが、レンズに個性があるので、集めると結構楽しいと思います。

私はレンズを改造して、デジカメで撮影して、文献の記載と一致するか確認して、作例をWebに掲載することを行っています。この時重要なのは、レンズの銘柄です。レンズの銘柄が魅力的なので買う、というのは正しい態度です。レンズの写りは相当使い込まないと分からないので、購入前に知ることは残念ながらできません。特にテッサー型のレンズは写りに差が出ないので、自分の気に入った名前のレンズを買うことをおすすめします。この際、他人がどう思うかは関係ありません。


2009.6.29 大昔のレンズ入門(8) テッサー

テッサーは歴史上最も商業的に成功したレンズです。名前の由来は単に四枚玉という意味だと思いますが、強烈なブランドイメージを築きました。ツアイスのルドルフが1902年に設計したものですが、ルドルフの特許が広範囲なものだったため、1903年から1920年までテッサー型のレンズを独占しました。あまりにも成功したために、このレンズの設計の由来については、いくつかの説があります。

1. ドイツ説: ツアイスのプロターとウナーを元にしたドイツ独自の発明である

2. イギリス説: クックのトリプレットの模倣であり、イギリスの発明である

3. オーストリア説: ペッツバールを前後逆にしただけであり、オーストリアの発明である(これは、私の個人的な説です。ペッツバールをテッサーの区別がつかない時があったので思いつきました)

4. コストダウン説: 別にウナーでもよかったが、レンズ4枚がばらばらだと真鍮の金物が高くつくので、後群を貼り合わせに戻してコストダウン。(これも私の個人的な意見です。ウナーが非常によく写ったので、ウナーからの性能改善というよりはコストダウンじゃないかと推測したわけです。)

まあ、由来は重要ではなく、特許が重要だったわけで、ツアイスの成功にテッサーが大きく貢献したことは間違いありません。

キングズレークの本では、テッサーは最初F6.3、1917年にF4.5と書いてありますが、ツアイスの台帳を見ると、最初からF4.5やF2.7が数本だけ製造されていたようです。ごく初期のテッサーの蒐集は良い趣味だと思います。1905年になると年間3000本以上生産されますので、希少性はなくなります。シリアルナンバーで言うと80,000番くらいまでが最初期と言えると思います。ちなみにツアイスの台帳に出てくる最初のものは、

1902年
470mm F10 56663
165mm F4.5 57661
112mm F6.3 59974
62mm F4.5 59985

1903年
155mm F6.3 60919
145mm F6.3 61252
136mm F6.3 62318
145mm F6.3 62415
54mm F6.3 62641
112mm F6.3 63113
210mm F6.3 63490
1.5cm F2.7 64519

ツアイスの台帳に出ていないものも多数あると思います。もしこれらより若いシリアルナンバーのツアイスのTessarまたはAnastigmat Ic, IIb が見つかれば、相当自慢できると思います。


2009.6.28 大昔のレンズ入門(7) ウナー

アルディスが薄い空気間隔を使って輪帯球面収差を改善しました。これを知ったツアイスのルドルフは、アナスチグマットの2か所の貼り合わせを両方とも空気間隔に置き換え、ウナーを製作しました。ウナー Ib F4.5-5.6 はすぐれたレンズで、1900年から1905年に間に2455本作られています。この期間のプラナー Ia が1622本ですから、ツアイスの I 類、つまり一番明るいレンズとしては最大の生産数を誇ります。1906年、1907年にも少し作られるのですが、1908年になると全く作られなくなります。たぶん、より明るいTessar Ic F3.5 - 4.5の生産が軌道に乗ったせいだと思います。1908年にツアイスの製造した写真用レンズのうち、8割以上がTessarのようです。

ウナーは多分通算で3000本以上作られており、パルモス用に112mmとか145mmとかの手ごろな焦点距離のレンズが出回っているはずなのですが、中古カメラ屋さんでも、インターネットのオークションでも、ほとんど見ません。私はたまたまヤフオクで簡単に買えたのですが、それ以来一度も見たことがありません。ですので、人気があるのかないのか、高いのか安いのかさっぱり分かりません。大判用の10インチ以上のポートレート・ウナーというレンズもあるようですが、これはデジカメで使うには少し大きすぎるようです。

ウナー蒐集は大変良い趣味だと思います。二個買えれば、第一人者になれます。ツアイスでは1900年から1907年の間にしか作っていませんので、古いいものしかありません。ただ、ポートレート・ウナーはボシュロムが作ったものがあるので、こちらの年代は分かりません。

ここで第一人者というのは、インターネットに積極的に公開している人の中での第一人者という意味です。たぶんネットには登場しない凄いマニアの方がおられると思いますが、残念ながら私には知る手段がありません。


2009.6.27 大昔のレンズ入門(6) スチグマチック

1895年にダルメヤーのアルディスがスチグマチックレンズを開発します。スチグマチックはツアイスのアナスチグマットの前群の貼り合わせをせまい空気間隔に置き換えて輪帯収差の改善をはかったと言われています。キングズレークの”写真レンズの歴史”を見ると、次の四つの型が記載されています。

(a) 最初の型 F3.5 --- 私は見たことがありません。販売されたかも不明。
(b) シリーズ I F4 --- カメラ屋さんに一本だけ見つけて頂いたのが、焦点距離が12インチで長すぎるので断念。
(c) シリーズ II F6 --- 割とたくさん出回っています。スチグマチックといえば普通これのことのようです。
(d) シリーズ III F7.5 --- 私は見たことがありません。

シリーズ IIの写りが良かったので、一時スチグマチックを全種類揃えようと思ったことがあるのですが、断念しました。シリーズ I 12インチF4は巨大なレンズで、絞り開放ではソフトだそうです。広いスタジオで巨大なカメラに取り付けて悠然とポートレートの撮影をしていたのだと思います。

スチグマチックは蒐集する価値のあるレンズだと思います。真剣に調査研究すれば、すぐに第一人者になれると思います。


2009.6.26 大昔のレンズ入門(5) ツアイスのアナスチグマット

1890年にツアイスのパウル・ルドルフはアナスチグマットと呼ばれるレンズを設計します。ショットのガラスを用いた新しい色消しレンズの前に、収差補正用の古い色消しレンズを加えた2群4枚、または2群5枚構成のレンズです。明るい順にシリーズ I から V まであります。明るさによるレンズ区分というのは、なかなか科学的で分かりやすいです。
Series I F4.5
Series II, IIa F6.3 - F8
Series III, IIIa F7.2 - F9
Series IV F12.5
Series V F18
この他にもアナスチグマットリンゼと呼ばれる Series VI, VII もあります。3枚張り合わせのF14.5か、4枚張り合わせのF12.5で、単独で使うことも、ふたつ組み合わせてF7.2やF6.3として使うこともできます。

1897年にプラナーが登場するまで、ツアイスではアナスチグマットとアナスチグマットリンゼしか製造していません。例外的にアッベのトリプレットが製造されていますが、製造番号が1-19, 21-32, 35, 44-48, 104-109ですので、市販されたかどうかは怪しいです。ということで、ごく初期のツアイスのレンズが欲しいのであれば、アナスチグマットを買うしかありません。アナスチグマットがプロターと改名されるのは、1899年のことです。

デジカメで使って面白いのは、Series I です(手前味噌)。130mmが3本、150mmが7本、183mmが9本作られていますので、このあたりが狙い目だと思います。こんなに少ない本数しか作られていないので見つけるのは困難なはずですが、なぜかすぐに安いのが見つかりました。縁があったんですね、きっと。


2009.6.25 日本文化と朝鮮(8) 明治政府

1866年、明治新政府樹立を告げる日本からの使節が持参した文書には、明治天皇を朝鮮国王の上位におき、また「勅」という用語も使われていました。朝鮮側は当然これを拒否します。慣例上、「皇」は清国でしか許されないものであり、「勅」は「臣隷」を意味したからです。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)から引用します。
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ところで、樋口の持参した書契は、国交回復を拒否されたという口実をひき出すための挑発文書であって、「征韓」は明治政府の国策だった。
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江戸時代は鎖国しており、封建的で停滞した時代だと思っていたのですが、必ずしもそうとは言えないようです。だいたい、「封建」という言葉は良く分かりません。神聖ローマ帝国の歴史にも、中国の歴史にも、日本の歴史にも使われる言葉ですが、これらの制度の間に特に関連はないようです。「鎖国」と「封建」という言葉の響きに惑わされているような気がします。


2009.6.24 日本文化と朝鮮(7) 朝鮮人街道

実家の近くに朝鮮人街道があるのは知っていたのですが、なぜ朝鮮人街道というのかは知りませんでした。これがまさに書き換えられた回答書を携えた朝鮮通信使380人、護衛の対馬藩士800人、各藩から動員された人足1000人、800等の馬など総勢2000人を超える一行が1608年に江戸へ向かった道だったのです。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)から引用します。
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一行は京都で一泊し、大津をへて守山で宿に入る。翌日は野洲から彦根へ出る。浜街道ともよばれるこの街道が有名な「朝鮮人街道」であって、関ヶ原の戦いで勝利した家康がこの街道を通って上洛し、天下人となった。そのため、この街道は、徳川将軍の上洛と朝鮮通信使の来日のときだけ使われる吉道とされ、1634年に家光上洛のときもこの街道を通った。参勤交代の諸大名はもちろん、オランダや琉球王国などの外国使節もここを通るのは許されなかった。そのことは、徳川幕府が朝鮮をどうみていたかを示す良い例といえるだろう。
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朝鮮通信使は合計12回来日します。第6回(1655)からは新将軍襲位の時に来日しました。幕府が一回の通信使の接待に費やした費用は百万両、動員された人足33万人、馬は77600頭にのぼったそうです。当時の幕府の年収が70万両だったそうですので、重い財政負担だったようです。朝鮮側の負担も大きく、年間30万両にも及んだそうです。これは慶尚道の半道分の財産であったとも説もあるそうです。このような派手な交流が明治維新まで続いたということは、友好関係が双方に大きな利益をもたらしていたのだと思われます。


2009.6.23 内野手5人守備

6月14日の西武・広島戦、4対4の同点で迎えた12回裏無死満塁のピンチで、広島のブラウン監督は左翼手の末永を内野手の小窪に代えます。小窪の守備位置はセカンドベースの前方。一点もやらないという執念の内野手5人守備態勢をとったのでした。西武黒瀬の鋭い打球は小窪の正面。見事に7-2-3という併殺が成立し、引き分けに持ち込みました。ここまで見事に内野手5人守備が成功することはめずらしいです。広島のブラウン監督は内野手5人守備が好きなようですね。

Wikipediaの5人内野シフトの項目を見ると、”メジャーリーグ日本高校野球ではたまに見られる。最近の日本プロ野球では、広島マーティ・ブラウン監督がたびたび用いている” と書いてあります。

他にもいくつか例があります。
1995/08/16 観音寺中央vs日大藤沢  観音寺中央がサヨナラのピンチでセンターをサードの前に置くシフ トをとったが結局サヨナラ負け
2002/11/10 明治オリオンズvs小糸ファイターズ 延長特別ルールで一死満塁、サヨナラのピンチ。レフトをサードの前に置き、ピンチをしのぐ。


2009.6.22 日本文化と朝鮮(6) 国書偽作

徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利すると、朝鮮との和平交渉を推進します。拉致した人びとを送り返したり、謝罪の使いを出しますが、朝鮮の不信感は大きく、なかなか話し合いに乗ってきません。朝鮮へ帰った人々から関ヶ原前後の日本情勢が伝わります。朝鮮からの視察団である「探賊使」に家康と将軍秀忠が会見し、和平を請います。朝鮮出兵に反対だった家康が憎き秀吉を打ち破たことが伝わり、朝鮮側の心証がよくなります。そして、1606年7月、朝鮮側からふたつの条件が示されます。家康が二度と侵略しないことを誓う国書を出すことと、文禄の役で王陵をあばいた「犯陵之賊」を引き渡すことです。

日本側の反応はすばやく、四ヶ月後には家康の国書を手渡し、「犯陵之賊」を引き渡します。ところが、この国書は対馬領主である宗義智の偽作だったのです。対馬には朝鮮との和平が絶対必要だったのですが、幕府から満足な国書が期待できなかったため、対馬で勝手に作ってしまったのでした。少々おかしな国書ではありましたが、朝鮮側はこの国書を受け入れ、これに対する回答書を携えた使節団を送ります。

ところが、家康が出していない国書に対する回答書というのは、まずいです。そこで、朝鮮使節団が携えてきた回答書を宗義智はこっそりと書き換えます。回答書ではなく提案書にしてしまったのです。宗義智の作戦は成功し、見事に朝鮮との国交が回復します。

1634年に対馬藩の内紛がきっかけで国書偽作が明るみに出ますが、幕府は寛大な処置をします。そして、朝鮮との友好関係は明治維新まで続きます。


2009.6.21 大昔のレンズ入門(4) 初期の2枚レンズ

絞りを挟んで両側に同じレンズを置く対称型のレンズは、歪曲が互いに打ち消しあって自動的に補正されます。これは写真の発明とほぼ同時に見いだされました。1866年に開発されたラピッド・レクチリニアまたはアプラナットがその代表で、60年にわたり、あらゆるカメラで使用されました。歪曲が少なく、構造が簡単で、広角をカバーしたため、イエナのガラスを使ったプラナーやテッサーが出た後も、かなりの長期にわたって使用されました。

ラピッド・レクチリニアまたはアプラナット(別々に開発されたが、開発時期も中身も同じ)は、ものすごい数のメーカーが製造しました。良く写るものもあれば、そうでもないものもあります。暗い広角レンズもあれば、明るいレンズもあります。古いガラスを使ったレンズもあれば、新しいレンズを使ったものもあります。例えばC.P. Goerzのリンカイオスコープは、開放F5から非常にシャープに写るので驚きました。

とにかく、ものすごい種類がありますので、コレクションとしては面白いと思います。特殊なものを除けば値段は安いです。ただし、文献は少ないので、調査の難しいレンズが多いと思います。また、8x10や5x7などの大判カメラ用のレンズが多く、絞った時のイメージサークルという観点からの調査が避けられませんので、まじめな調査は大判フィルムで行う必要があります。デジカメで遊ぶのであれば、焦点距離が短めのものが良いでしょう。150mmくらいまでならデジカメでも割と使いやすいです。


2009.6.20 日本文化と朝鮮(5) 鎖国でなかった江戸時代

江戸時代は鎖国をしていたと言われていますが、徳川幕府と朝鮮王朝との間には1607年に国交が回復し、1609年には貿易協定が成立。釜山の豆毛浦倭館には500〜600人の日本人が駐在し、年間二十隻もの貿易船が出入りしていたそうです。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)から引用します。
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倭館の総責任者を館守といい、今日の総領事の役割を果たし二年で交代。初代の館守は内野権兵衛で(1637年に就任)、最後の深見六郎が着任する1872年までに、館守は95名をかぞえた。館守の館は龍頭山の中腹にあって、彼らは就任の日から帰国まで『館守日記』を記録することになっていた。ところで、館守の館を中心とする龍頭山東側の建物群を総称して東館といい、そこに常駐する日本人は五、六百名。彼らは江戸時代の日本唯一の海外公館員として、外交貿易の業務を担当した。
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倭館に関する朝鮮側のスタッフは三千名にものぼり、倭館や波止場の修理、日本からの使節の滞在費も朝鮮側が負担したため、莫大な経費がかかったそうです。秀吉が死ぬと、徳川家康はいち早く朝鮮から撤兵し、国交の回復を行いました。家康が文禄の役に出兵していなかったこともあり、朝鮮での評判は良かったようです。


2009.6.19 大昔のレンズ入門(3) ペッツバールレンズ(補足)

16mm映画用の映写機では50mmくらいの焦点距離のペッツバールレンズが多いのですが、これは残念ながらバックフォーカス(レンズの最後尾からフィルム面までの距離)が短くミラーと衝突するので、一眼レフ用には改造できないと思います。ライカなどのレンジファインダーなら何とかなるかもしれませんが、レンズの太さによります。75mm以上の焦点距離のレンズなら多分大丈夫だと思いますが、念のため購入前にバックフォーカスをチェックした方が良いです。例えばROSSLYTEの場合には、焦点距離5インチ(125mm)にもかかわらず、バックフォーカスが50mmほどしかかく、極端に太いため、ヘリコイドを使って一眼レフ用に改造することはできませんでした。

お店で簡単にバックフォーカスと確認することができます。テーブルにレンズを上向きに置いて、天井の電灯に向けて徐々に持ち上げます。テーブルに上に電灯の形がはっきり写ったら、そこで止めます。テーブルからレンズの下端までの距離がバックフォーカスです。正確に言うと、レンズから3mほど先の天井にピントを合わせた時のバックフォーカスです。無限遠にピントを合わせたときには、これより少しバックフォーカスが短くなります。

無限遠から距離 L の位置にピントを移動する時、焦点距離 f のレンズの移動距離 X は次の公式で表されます。
X = f*f / (L - f)
f=100mm, L=3mの場合には
X = 100 * 100 / (3000 - 100) = 3.4mm

キヤノンEOSマウントの場合、フランジバックは44mm、マウント金具の内径は約47mmです。レンズの直径が金具の内径47mmより太い場合には、フランジバックにマウント金具の厚みを加えた、最低約46mmのバックフォーカスが必要です。レンズの直径が47mmより細く、マウント金具の中に押し込める場合には、40mmほどバックフォーカスがあれば大丈夫です。


2009.6.18 大昔のレンズ入門(3) ペッツバールレンズ

1839年に最初の写真であるダゲレオタイプがフランスで発表されました。この時、使えるレンズはシュバリエのF15のレンズしかなく、明るい太陽の下でも30分の露出が必要でした。風景だと問題ありませんが、人物用としては暗すぎます。ウィーン大学の高等数学の教授だった32歳のペッツバールが明るいレンズの設計を開始し、わずか6か月でF3.6の人物用レンズとF8.7の広角レンズの設計を完了します。ペッツバールは友人のフォクトレンダーに設計図を送り、製作を依頼します。フォクトレンダーは人物用レンズの方だけ製造し、1940年5月に完成させます。このレンズはシュバリエのレンズより20倍ほど明るかったので、大成功をおさめます。しかし、フォクトレンダーがペッツバールはお金のことでもめて、けんか別れしてしまいます。

大昔の人物写真で、顔の部分だけ鮮明で周辺がぼやけている写真は、ペッツバールの設計したレンズで撮影されたと考えられます。大昔はA4サイズくらいの大きな乾板を使ったので、レンズの焦点距離は300mmから500mmくらいあり、非常に大きなものでした。古いペッツバールレンズには良いものが多いのですが、あまりに大きくて扱いにくいです。しかし、金色に輝く美しい外観、手彫りの装飾など魅力がいっぱいで、レンズ蒐集の王道と言えます。値段もそんなに高くはありません。

戦前の写真館のレンズはこれが多かったと思いますが、その後写真用としてはすたれます。一方、映画の映写機用のレンズとしては主流となります。中心部分が鮮明で、明るく、昔ながらの安定したガラスを使うせいだと思います。16mm映画用の映写機では50mmくらいの焦点距離、35mm映画用には100mmくらいの焦点距離のペッツバールレンズが多いようです。近年、映写機が廃棄されるにともない、映写機から取り外されたレンズが時々安く売りに出ます。ただし、絞りも、ヘリコイドもないので、自分で改造するか、業者に改造に出すかしなければなりません。

映画撮影用にもペッツバールレンズが少しだけ作られています。有名なのはAstro社のRosher-Kino-Portraitで、Charles Rosher監督が1920年代にAstro社に製造させたと言われています。大昔の肖像写真のようなイメージ(顔だけ鮮明で周りはボケボケ)を映画で使いたくて、わざとそのようなレンズを作ったようです。AstroのWebを見ると、焦点距離としては、75mmと100mmがあります。数が少ないので、めったに売りにでません。

1920年くらいより前のペッツバールレンズは、まさに蒐集するにふさわしい骨董品であると言えます。良いレンズの当たれば、少なくとも画面中心部分においては、今でも驚くほど鮮明な画像が得られると思います。1920年くらいより後の映画用のペッツバールレンズは、デジタル一眼レフ用に改造して遊ぶと面白いです。

難点としては、ペッツバールレンズだとはどこにも書いていないので、自分で分解するか、試写してみて、調べる必要があります。また、刻印のないレンズも多く、文献もほとんどないので、何年に誰がどこで製造したか分からない場合が多いです。なんだか良く分からないレンズの謎を解くのが好きな人には、最適なレンズです。


2009.6.17 日本文化と朝鮮(1-2) 民族大移動はなかった?

2009.6.12 日本文化と朝鮮(1) 人口激増で、稲作民族の移動が起こったようだ、と書きましたが、”国民の歴史”(西尾幹二、産経新聞社)を見ると次のように書いてあります。
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可能性はいろいろ考えられる。もちろん朝鮮からの情報南下もありうる。だが、いずれにせよ、外から誰かに扉を開けてもらい、何らかの情報を得て、稲作を地域から地域へ、世代から世代へ伝えた主体をなすひとびとは、日本列島に定住していた縄文人であった。すなわち、この時期に「民族大移動」のようなことはまったくなかった。という事実だけは最後にしっかり確認しておこう。
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全く違う意見ですね。歴史というのは、事実というよりは、心理に近いそうです。ひとりの人間が過去に対して感じたことを「心理」と言い、あるグループの人間が過去に対して感じたことを「歴史」と言うのだそうです。グループが異なると感じ方が違い、心理が違うので、歴史が違うのは当然なのだそうです。そういう意味では、未来に対して感じたことを「政治」というのかもしれませんね。


2009.6.16 日本文化と朝鮮(4) 文禄の役

秀吉がなぜ朝鮮侵略を行ったのかは、よく分かりません。日本軍はかなりひどいことをしたようです。そんなことをして朝鮮を疲弊させれば、貿易がだめになり、日本に利益があるとは思えません。堺の商家出身の小西行長は、秀吉と朝鮮の両方を欺いて被害を食い止めようとしますが、うまく行きません。最初は勢いのあった日本軍も、戦争が長引くにつれて日本軍は崩壊してしまいます。戦争が始まって六ヶ月後には兵糧がなくなり、激しい寒気に襲われました。冬将軍に負けたのは、ナポレオンとヒトラーだけかと思っていたのですが、秀吉もそうだったようです。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)の中に、”「日本史」2”(中公新書)から次のような引用があります。小西行長が退却する様子を、宣教師・フロイスがローマ法王に報告した内容だそうです。
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その間、激しい飢餓に襲われたが、辺り一帯は雪に掩われていて、食べる草も見出すことができず、雪を口にしてわずかに露命を繋いだのであった。・・・・・朝鮮人やシナ人が用いる厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草履を履いていたので、その苦痛は言語に絶し、多くのものは(足の)親指が(凍傷で)落ち・・・・
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私が思っていたのよりずっと激しく悲惨な戦争が行われたようです。


2009.6.15 日本文化と朝鮮(3) 白村江の戦い

660年、唐と新羅の連合軍に破れた百済が滅亡します。その後も抵抗を続ける百済の鬼室福信が斉明天皇に援軍を要請します。 斉明天皇はすぐに日本にいた百済の王子である豊璋を百済に送り返し、二万七千の援軍を派遣します。斉明天皇が九州で亡くなると、中大兄皇子が救援軍を指揮しますが、百済・倭国連合軍が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れてしまいます。敗戦後、唐・新羅軍の追撃を恐れた中大兄皇子は、対馬と壱岐に防人を置き、筑紫に大野城と基肄城を築き、都をより安全な内陸の大津京に移します。

難波宮は海に近いので唐・新羅軍に責められる恐れがあったようです。確かに唐・新羅の水軍が逢坂の関あるいは瀬田川の急流を超えて大津京に来ることは考えられないですね。大津京遷都の理由を初めて知りました。

次の資料を参考にさせていただきました。
”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)
白村江の戦い


2009.6.14 日本文化と朝鮮(2) 対馬海峡

弥生時代に大勢の人がどうやて対馬海峡を渡って日本にやってきたのかについて調べてみたのですが、どうもはっきりしません。日本海沿岸には韓国からの漂着物が多いそうですので、韓国から船を漕ぎ出せば、日本のどこかに漂着しそうです。北西風を利用することも考えられますが、冬期は海が荒れるので危険です。

一方、日本から朝鮮に渡るのは少し難しいようです。一回目の元寇である文永の役(1274)では、博多を占領した元軍が突如撤退します。この時吹いた南風を逃すと、次にいつ南風が吹くかわからないので、あわてて帰国したらしいのです。11月から12月のことだったので、真冬になって毎日北西の季節風が吹くと、翌年の春まで帰れないかもしれません。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)に次のような記載がありました。
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 さて、対馬から朝鮮海峡を渡るには、北流する暖流(恒流)と潮の干満による潮流、そして風向きの三者をうまく利用してはじめて可能である。恒流は間断なく北東流するが、潮流は日に二回北東流(引潮)と南西流(満潮)をくりかえす。海上保安庁が八月から十月にかけて観測したデータによると、海水が北東流する引潮時でなければ、対岸には渡れない。すなわち、このとき対馬西岸の木坂沖や棹尾沖の北東流する潮流の速度は2.7ノット(五千メートル/時)で、釜山沖に行くと3.8ノット(七千メートル/時)となる。したがって、北東流のはじまるときに対馬西岸から漕ぎ出せば、南西流に変わるまでに対岸へ着くことができるという(城田吉六「対馬」)。
 いっぽう南西流する満潮時に櫓を漕いで渡るのは不可能であり、また晩秋に入り北西季節風が吹きはじめると三角波の立つ日が多くなって翌春まで渡海できない。「続日本紀」によると、七〇二年の遣新羅使は晩秋に対馬の浅茅湾へ入ったが、そこに翌年の春まで滞在しているのである。
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対馬海峡を渡ることはできたが、いつでもというわけにはいかなかったようです。


2009.6.13 大昔のレンズ入門(2) メニスカス風景用レンズ

写真が発明される前、カメラオブスキュラ(箱の中に景色を投影して写生する装置)には両凸単レンズが使われました。しかし、像面が曲っており、画面の端の方がはっきりしませんでした。1812年頃、イギリスのウォラストンが、三日月型のメニスカスレンズを使うと、かなり平らな画像が得られることを発見します。メニスカス単レンズは何しろ構造が簡単で安価なため、百年以上後の1930年代のコダックのカメラでも使われました。現在でもF11程度の明るさなら十分実用になりますし、絞りを開けるとソフトレンズにもなります。1986年に清原光学から発売されたソフトフォーカスレンズはこのタイプです。

私はメニスカス風景用レンズの調査はほとんどしていません。非常に古い時代のレンズには刻印がないものが多く、調べようがないというのが実情です。もし骨董品としてカメラとレンズを収集するのであれば、大変魅力的な分野だと思います。


2009.6.12 日本文化と朝鮮(1) 人口激増

縄文時代から飛鳥時代にかけて日本の人口が激増したそうです。

”日本文化と朝鮮”(李進熙著、日本放送出版協会)から引用します。
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小山修三(国立民族学博物館教授)はコンピューター・シミュレーションを使って人口動態を推計する。それによると、縄文後期の日本列島の人口は十六万ほどだったが、縄文晩期には寒冷化と食糧不足のため、七万五千余に激減し、紀元七世紀には五百四十万に増加するという。約一千年の間に七十倍に激増したわけである。こうした人口の激増がどうして起こったのか。埴原和郎(東京大学教授)は一九八七年、弥生時代のはじめから一千年の間に少なくても百万以上の渡来がなければ、五百四十万に達しない、というショッキングな説を発表した。彼によると、七世紀の人口に占める割合は、渡来系が圧倒していたという。
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紀元前四世紀頃から、地球の寒冷化が起こり、朝鮮では稲作が難しくなったので、村をあげて海を渡ったのではないか、とのことです。稲作が伝わったというよりは、稲作民族の移動が起こったという感じですね。でも、当時そんなに簡単に朝鮮海峡を渡ることができたのでしょうか?


2009.6.11 大昔のレンズ入門(1) 文献

写真レンズの歴史に興味を持ってから3年半ほどたって、やっと概略が分かってきました。最初は暗中模索でした。特に最初の3か月ほどは、どの本を読めばよいのかも分からず困りました。ライカに関する情報はたくさんあるのですが、ライカ以前の情報が少ないのです。まだまだ分からないことだらけですし、どちらかというと分からないことが増え続けています。しかし、このあたりで、これから大昔のレンズを調べてみようという方のために、すこし情報を整理してみようと思います。

まず、大昔のレンズのことを何と呼ぶのが良いか、いまだに分かりません。クラシック・レンズ、ビンテージ・レンズ、中古レンズとか呼ばれる時もありますが、いまいちピンときません。これはレンズだけでは写真が撮影できないためだと思います。ほとんどの人は、たぶん歴史上99.9%の人は、レンズ付きのカメラを買って撮影するだけなので、やむをえないと思います。何と呼ぶのか分からない以上、文献を探すのが難しいのです。ここでは仮に、「大昔のレンズ」と呼びます。

まず最初に買った本が、朝日ソノラマのクラシックカメラ選書2 「写真レンズの基礎と発展」 (小倉敏布著) でした。この中に12ページほどレンズの歴史が書いてあるので、概略は分かります。しかし、あまりレンズ収集の役には立ちません。朝日ソノラマからたくさん類似の本が出ていることが分かったのは大きな収穫でした。

次に買ったのが、朝日ソノラマのクラシックカメラ選書11 「写真レンズの歴史」(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳)でした。これは既に廃刊になっていましたので、Amazonで古本を購入。この本は一冊全部写真レンズの歴史ですので、大変面白かったです。もちろん一回では理解できないので、何度も読み直しました。特に、各レンズタイプについて、レンズメーカー各社の商品名が書いてあるので、レンズ収集に大いに役立ちます。この本は、写真レンズの歴史がよくまとまっているので、他の本でよく参照されます。例えば、「レンズ設計のすべて」(辻定彦著、電波新聞社)は、「写真レンズの歴史」に沿ってレンズをコンピュータ上で設計し直し、設計データと収差図を掲載し、「写真レンズの歴史」に科学的な根拠を与えています。

写真レンズの歴史」に登場するレンズを、できれば全部手に入れて、キングズレークの記述が本当かどうか確認したい、と思ったのでした。


2009.6.10 高温高圧装置

ハーバー・ボッシュ法によりアンモニアの工業的合成が可能になり、食糧や火薬の増産が可能になり、歴史に大きな変化を起こします。窒素原料が、床下の微量な窒素の採集から、硝石丘による農業的生産、チリ硝石の鉱業的採掘と輸入、そして最後に石炭を主原料とした化学合成に変化したわけです。主役は農民から鉱夫、船乗り、そして重工業従事者に変わります。

ハーバー・ボッシュ法が可能になった理由のひとつに、高温高圧装置の開発があるそうです。ジェームズ・ワットが蒸気機関を開発した時にも高温高圧装置が鍵となりました。ひょっとすると、高温高圧装置が世界の歴史を動かしていたのかもしれませんね。産業革命も、両世界大戦も、日本の戦後復興も高温高圧装置の発展を軸に整理できるかもしれないなぁ、と思ったりします。あるいは、もう一歩踏み込んで、高温高圧装置の製造を可能にした工作機械でも良いかもしれません。


2009.6.9 朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀

テレビのニュースを見ていても、北朝鮮のことがさっぱり分からないので、”朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀”(萩原遼著、文藝春秋)を読んでみました。この本は、とても分かりやすくて、面白く、一気に読めます。一冊読んだだけでは内容についてコメントすることはできませんが、ただただ日本じゃなくてよかったと、思いました。


2009.6.8 硝石の合成

1912年、フリッツ・ハーバーなどの研究により、ドイツでハーバー・ボッシュ法によりアンモニアの合成が実用化されます。それまでドイツは海外からの窒素肥料の輸入に頼って農業を行っていたのですが、国内で肥料を調達できるようになります。同時に、爆薬の原料である硝石も自国で調達できるようになり、硝石の輸入体質から脱却します。第一次世界大戦の2年前ですね。硝石(すなわち食料と弾薬)を持たなかったビスマルクと、硝石を持ったヴィルヘルム2世、ドイツの方向が変わったのは、ふたりの性格の違いだけではなさそうです。


2009.6.7 硝石

鉄砲は刀鍛冶の技術で製造できたのですが、火薬がないと鉄砲は撃てません。火縄銃で使用する黒色火薬の成分は、硝石、硫黄、木炭を7:1.5:1.5の割合で混ぜるのだそうです。硝石は空気中あるいは土壌中のアンモニアを硝酸菌が硝化することによってできるのだそうです。雨が多い日本では天然にできた硝酸は雨で流れてしまうため、蚕のフンなどを使って人工的に生産したのだそうです。Tokyoblogの鉄砲の歴史:戦国時代の伝来と技術波及、刀、鉄砲から自転車や花火までを参考にさせて頂きました。

ただ、あまり大量には硝石を作ることはできなかったようです。これでは大きな戦争はできないですね。Wikipediaの硝石の項目を見ると、幕末になると、フランスから硝石丘を使う方法が伝わり、かなり大量に生産できるようになったようです。しかしながら、窒素工業の原料としては、チリ硝石などを輸入する他なく、重要な戦略物資だったそうです。


2009.6.6 国友一貫斎の天体望遠鏡

鉄砲の歴史を調べていたら、国友一貫斎と言う人に興味をひかれました。国友鉄砲の里資料館国友一貫斎の解説があります。一貫斎はすぐれた鉄砲鍛冶だったばかりではなく、天体望遠鏡を自ら製作し、太陽の黒点の観測をしました。この時の正確な記録は、世界的にも貴重な天文学資料だそうです。これはグレゴリー式反射望遠鏡で、反射鏡は銅と錫の合金で製作し、ガラスのレンズも2枚製作したそうです。初めて見たオランダ製の天体望遠鏡をたった1年3か月で完成させ、オランダ製の2倍の倍率があったそうです。相当の技術力を科学的知識を持っていたようですね。この望遠鏡は長浜城歴史博物館にあるそうですが、先日は全く気が付きませんでした。今度行ったら注意して見たいと思います。


2009.6.5 鄭成功

”鄭成功の乱”とか、鄭成功をモデルとしたと言われる近松門左衛門の”国性爺合戦”は聞いたことがありますが、鄭成功がどんな人だったのかは全く知りませんでした。”海のサムライたち”(白石一郎著、NHK出版)の”鄭成功〜日中混血の海上王”を読んで、はじめて鄭成功がどんな人だったのか分かりました。Wikipediaの鄭成功の項目にも短い解説があります。

徳川幕府は寛永十年(1633)から5回にわたって鎖国令を発布し、6年かけて鎖国が完成する。その直前に平戸で鄭成功が生まれる。父は第四代日本甲螺(にほんかしら、海賊王のこと)である鄭芝龍。当時明国は朝貢船以外の貿易を一切認めていなかったが、実際には密貿易が行われており、日本甲螺は、東シナ海、南シナ海、台湾、琉球、日本にまたがる大きな貿易圏を支配していた。母は田川マツ。平戸で母に育てられた鄭成功は、7歳で単身父の住む中国に渡る。父芝龍は明国政府高官に転身し、莫大な富を築いたいた。北京で清国が樹立されると、明国は弘光帝を擁立して南京に亡命政権を置く。母田川マツは、鎖国中の徳川幕府に特別に許されて息子に会うため中国に渡るが、その直後、南京が陥落する。。。長くなるのでやめておきます。面白いので、自分で読んでください。


2009.6.4 鉄砲の歴史

どこかの本に、戦国時代末期の日本の鉄砲保有量は世界一だったと書いてありました。鉄砲が種子島に伝わったのは1543年、つまり戦国時代の末期であり、ものすごいスピードで鉄砲に量産体制が整ったようなのですが、それしてもちょっと早すぎない?、という疑問があります。

歴史の歩みを加速させた兵器「鉄砲」 (関野勇一氏)を読んでみたところ、かなり良く分かりました。ここには、

”鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶たちは、信長から鉄 砲五百挺の注文を受けている。”

と書いてあります。当時の日本の鍛冶屋の技術は、鉄砲をすぐに量産できるレベルにあったようです。国友は長浜にあるのですが、駅から少し距離があるため、まだ行ったことがありません。車で近くを通った時には、寄ってみたいと思います。

”余談だが、伝来した鉄砲にはネジが使われていた。当時の日本の工学技術にはネジの発想がなく、 そのネジにずいぶんてこずったようである。”

とも書いてあります。当時は旋盤などない時代ですから、ネジ切りは大変だったようです。Wikipediaの工作機械の項目を見ると、時計などの小さなものを加工する旋盤は14世紀には既にあったようですが、大きなものを加工できる旋盤は、18世紀のワットの蒸気機関の頃のようです。それまでは、大きなものを旋盤で削る必要性が特になかったのだと思います。


2009.6.3 Elmar 4.5/10.5cm再々改造

Elmarはやっぱりライツのヘリコイドに入れた方がよいのではないかと思い、ヘクトール135mmのヘリコイドに入れてみました。

ヘクトールのヘリコイドを適当なところで、切断。キヤノンEOSのマウント金具と太さがだいたい合いますので、少しやすりで削った後、金槌で叩き込み。接着剤やビスを使わなくても強固に接合されます。ただ、思いきり金槌でたたくと、マウント金具が変形してしまうので、注意が必要。


適当にM42のレンズボードを作って、レンズをコンパー0番のフランジで止めます。


ヘクトール135mmのヘリコイドはM42によく似ていますので(厳密にはM42ではありません)、うまく接続できます。これで改造完了。



ピントリングの幅が太いので、なかなか使いやすいです。


ライカ用のヘリコイドですが、M42のスクリューがねじ込めるところが面白いですね。なかなか精度の良いヘリコイドでして、金鋸で切断しても、切りくずがヘリコイドに挟まって動かなくなるようなことはありません。


2009.6.2 Apochromat 2/100mm再改造

KINOPTIK APOCHROMAT 2/100mmを派手な色に再改造しました。OPIC 4.25インチを改造した時に余った部品の再利用です。M57の金色の筒は少し長すぎますので、切断。

APOCHROMATのスクリューはM57よりは少し細いので、ビス3本で止めました。


これで改造は完了。


これをM57のヘリコイドにねじ込みます。


完成図。


カメラに取り付けたところ。このアングルだと、レンズが下に曲がっているように見えます。ふしぎです。実際はもちろんまっすぐです。


2009.6.1 英語の歴史 a と an

中学一年の英語の時間に、Thia is a pencil. これは鉛筆ですが一本なので、a を付けます。不定冠詞といいます。例外として、母音で始まる名詞の前では a では発音しにくいので an になります。たとえば、This is an apple. と教わったような気がします。たいがいの日本人は a appleでも別に言いにくくないので、この説明はちょっと腑に落ちませんでした。”英語の歴史”(中尾俊夫著、講談社現代新書)には次のように書いてあります。

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不定冠詞はそもそも数詞 one (古英語では an といった)のアクセントのない形から発達したもので、13-14世紀になって初めて不定冠詞 an として確立した。この an は後に母音が続くとき、「母音+母音」だと発音しにくいので、ちょうどフランス語のリエゾンのように n を落とさず an apple 「(一つの)リンゴ」のようにいった。しかし、後ろに子音がくるときは n を落として a pencil 「(一本の)鉛筆」といった。この規則は16-17世紀になってほぼ完成した。
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先に one == an という言葉があって、後に母音以外で始まる名詞の前では、たぶん面倒臭いので、n が脱落した。この説明の方が納得しやすいような気がしますが、いかがでしょう。


2009.5.40 人間の眼のF値(4)

Wikipediaで盲点を調べると、盲点とは視神経が網膜を貫いて脳につながる部分のことです。この部分には網膜がないので、見えません。しかし、盲点周辺の情報によって補完されるので普通は意識しなくて済むそうです。網膜の中心付近から情報を読みだした方が、視神経を短くできるので高速処理向きですね。デジカメの撮像素子は、現在主力の表面照射型の場合には素子周辺から画像情報を読みだすしかありませんが、将来裏面照射型になれば中心から読みだすことが可能になるかもしれません。

一方、タコやイカの仲間は光を感じる細胞が最前面にあるので盲点は存在しないそうです。そのうちシールのようにどこにでも貼れる、タコ・イカ型の撮像素子が開発されるかもしれません。


2009.5.39 人間の眼のF値(3)

人間の眼球なその名の通り球体です。網膜は球の内側にあります。こんなに曲がっていてよく見えるなぁ、と思ったわけです。しかし、よく考えると、写真レンズは曲った面に写すのが得意で、逆に平らなフィルム上に写すのが難しくて苦労してきたのでした。人間の眼は一枚のレンズでもよく見えるように、網膜をペッツバール面上に配置していたのですね。すばらしい。というか、それに最初から気付けよ。まあ、きっと盲点だったのでしょう。”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。

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凸レンズは本来内側に曲がる像面を作るものであって、他の収差がなければ像はペッツバール面上に出来る。そのため、多くのレンズ設計者はこの欠点を克服し、非点収差をあまり残すことなく像面を後ろに曲げて平らにすることに努力した。もし曲った像面が許されれば、主要な収差を十分補正した明るいレンズを設計することは、それほど困難なことではない。
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半導体の撮像素子を球面に形成することは困難だと思われますが、たとえば弾力性のあるフィルムの上に撮像素子が形成できれば、不可能な話ではありません。カメラシステムの最適化を進めたら、結局人間の眼球と同じ形になった、などどいうのはいかにもありそうな話です。


2009.5.38 ROSS XPRES 2.9/6,5"比較予告

ROSS XPRES 2.9/6,5"と、Dallmeyer PENTAC 2.9/5.5"を比較してみたいと思います。同じイギリス製のTaylor Hobson Cooke Triplet 3.5/6.25"も比較に加えたいと思います。

この頃のイギリスの刻印の特徴は、F2・9のように、小数点がピリオドではなく中点だということです。ドイツ式ではF2,9のようにカンマでして、それぞれの国でこだわりがあったようです。


左から、XPRESはペンタックス67マウント、PENTACはハッセルマウント、Cooke Triplketは自作EOSマウントです。どのレンズも長いです。

他に主要なイギリス製のトリプレット系大口径レンズとしては、Cooke Speedic 2.5/6,5"がありますが、そんなにたくさん持てないので、やめておこうと思います。


2009.5.37 ROSS XPRES 2.9/6.5 inch借用

ROSS LONDON 6 1/2 IN XPRES F.2.9 No 1311xx

をお借りしました。前玉の直径61mm, 後玉49mmという大物です。

シリアルナンバーから、1936年頃のものだと思われます。


立派なヘリコイドがついていることもあり、かなりの重量です。ペンタックス67マウントに改造してありますので、使いやすいです。レンズの中心部分だけではありますが、これで、ROSSの主要なXPRESレンズのテストができたのではないかと思います。

XPRES 1.9/3" (Double Gauss Type)
XPRES 2.9/6.5" (Dynar type)
XPRES 4.5/7.25" (Tessar Type)
WIDE ANGLE XPRES 4.0/5" (Euryplan Type)


2009.5.36 OPIC と ERNOSTAR の外形比較

OPIC F2とERNOSTAR F2/F1.8の描写の比較をしてみたのですが、割とよく似ていて、それほど大きな差はないように思われました。ということは、それ以外の要素を比較せねばなりません。たとえば、製造のしやすさ、製造原価、カメラへの取り付けやすさ、カメラへ取り付けたときの寸法、重量などです。以下の写真の並びはすべて左からOPIC 2/108mm, ERNOSTAR 2/100mm, ERNOSTAR 1.8/105mmの順です。


まずは無限遠時の長さ。EOSマウントのフランジ面から、104mm, 66mm, 74mm。EOSマウントのフランジバック44mmを足すと、148mm, 110mm, 118mmとなります。エルノスターの方がカメラを小型化しやすいわけです。

レンズの最後部からフィルム面までの長さ(フィルムバックとかバックフォーカスとか呼ばれる)は、それぞれ83mm, 51mm, 63mm程度です。焦点距離との比率に直すと、77%, 51%, 60%となります。フィルムとレンズの間にミラーやプリズムを入れる必要がある場合には、OPICが有利になります。


レンズの全長は、70mm, 61mm, 58mmでエルノスターの方が短いです。太さが違うのはヘリコイドのせいです。OPICにはヘリコイドがついていませんが、ERNOSTARは2本ともヘリコイドがついています。


前玉の直径は、55mm, 50mm, 55mmです。


後玉の直径は、49mm, 33mm, 36mmです。ERNOSTARは後群のレンズが小さくてすみますので、製造しやすいと思います。

重量は、OPIC 2/108とERNOSTAR 2/100が同じくらいで重い。ERNOSTAR 1.8/105は少し軽い。ERNOSTAR F2からF1.8にわずか一年で切り替わったのは、軽量化をして製造原価を下げるのが狙いだったかもしれません。もちろん、F2よりF1.8と言った方が売れ行きが良いのは現在と同じだと思いますが、実際にはほとんど明るくなっていません。


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