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2009.5.35 鎌倉幕府研究ノート(21) 頼朝による町づくり

”鎌倉武士物語”(今野信雄著、河出書房新社)から引用します。
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頼朝が理想とする町は京都である。幼時京都で過ごした彼には、その面影がまぶたに焼きついていたことだろう。そのため内裏と朱雀大路のつもりで築造したのが八幡宮であり、若宮大路なのである。若宮大路には桜並木の段かずらが、現在は二の鳥居から三の鳥居前まで続いているが、もとは由比ヶ浜から延々と直線の参道になっていた。これは政子の安産を祈願して、頼朝自身が土を運んだといわれているが、実は若宮大路自体は当時の鎌倉防衛線でもあったようだ。遺構をしらべると、道幅も二の鳥居あたりは今より二十五メートルも広く、西側には土手を築いて溝を掘り、東側は一段高くなって、ここに嘉禄元年(1225)の年末に大倉から移転した宇都宮辻子幕府、さらに若宮幕府があり、また有力御家人の邸が並んでいた。けだし頼朝はこの大路を背景にして、新しい町づくりに着手したのである。
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鶴岡八幡宮は最初から鎌倉の町の中心だったわけですね。広い若宮大路が鎌倉幕府の内堀的な役割を持たせていたのは興味深いです。幕府の、北に鶴岡八幡宮、南に海、東には細いとはいえ滑川、西側に若宮大路がありますので、大倉よりは宇都宮辻子幕府や若宮幕府の方が少し防衛しやすそうです。本当の防衛線は関東南部の八平氏、すなわち秩父、土肥、大庭、梶原、長尾、三浦、上総、千葉であったと思われますので、これらの軍勢を打ち破らない限り、鎌倉に攻め入ることは難しかったと思われます。なぜか坂東の源氏一門、すなわち甲斐の武田、信濃の平賀、下野の足利、上野の新田、常陸の佐竹、は鎌倉から遠くて、すぐには来れそうにありません。というか、源氏一門は内輪もめばかり目立ちますので、わざと源氏一門から離れたところに幕府を開いたのかもしれません。。


2009.5.34 Ennalyt 1.5/85再改造

Ennalyt 1.5/85接着剤による暫定改造のままでしたので、まじめに改造しました。回転ヘリコイドなので、内側の筒が細く、口径の大きなEOSマウントだとビスを打つことができません。そこで、少し口径が小さなニコンFマウントに改造しました。

こちらが完成図。ちょっと色的にはどうかと思いますが、全部ビス止めにしたので、強度的には完璧です。


フードをはずしたところ。85mm F1.5としてはコンパクトな作りです。太さ的にはニコンFマウントがぴったり合います。


最初、直接ニコンFマウントの金具をビス止めしようと試みたのですが、レンズ側の筒が細くてドリルでビスの穴をあけることができません。そこで、一旦リングをかませて筒を太くしてから、穴を開けました。ちょうどぴったりのリングがあったのですが、残念ながら真鍮製だったので、色が合わなくなってしまいました。


まず、リングに横からビスを打って固定します。次に、後ろからドリルでマウント用の穴をあけます。ちょうどレンズの筒とリングの境目に穴をあけることになります。ニコンFマウントの金具をビスで止めて完成。無限を出すためマウント金具を薄く削ったため、皿切りに神経を使います。皿が浅いとネジの頭が出てしまいますが、深いと貫通してしまします。結局ほんの少し頭を出して、やすりで削り取ることにしました。1.7mmのネジを使ったのですが、もう少し細い方がよかったかもしれません。

これでギリギリ無限遠が出ます。普通はかなりオーバーインフに改造して、無限遠でもファインダーでピント合わせするのですが、このレンズの場合は不思議なことに、それだと少し前ピンになります。これで、無限遠はつき当て式でピントが合うようになりました。でも、EXAKTAマウントのニコンF改造は、あんまり安請け合いしない方が良いでしょう。


2009.5.33 人間の眼のF値(2)

単レンズとしては驚異的な明るさ”と書いたのですが、後で考えると、あまり良い表現ではありませんでした。

まず、目はふたつあるわけですから、明らかにレンズは2枚です。昔の人がステレオカメラを好んだのは、ごく自然なことだったのかもしれません。レンズを縦に並べるより横に並べた方が実は効率がいいということが、ダーウィンの進化論的に証明されているのかもしれません。

次に、ピント合わせと画像合成能力が格段に高いので、2枚のレンズで100枚分くらいの働きをしているのだと思われます。例えば眼前に10個のリンゴがあった場合、瞬時に各リンゴにピントを合わせて行き、10枚の画像を記憶し、それらを合成して鮮明な画像を作っています。ですから、視野全体の収差を補正する必要はなく、ピントが合うポイントだけの収差をなくせば良いわけです。被写界深度をかせぐために絞る必要はないので、常に明るい視野が得られます。

きっともうすぐ、このようなデジカメが登場すると思います。ひょっとしたら、既に発売されているかもしれません。10人の記念写真を撮るとき、ひとりずつにピントを合わせた10枚の写真を撮り、カメラ内で一枚に合成する。レンズをシフトさせれば、全員の顔をレンズの中心で捉えることができますので、明るい単レンズで良いかもしれません。広角の写真はパノラマ合成で処理します。もちろん、目をつぶった人を検出し、自動的に撮り直します。

動物には動き検出という機能があります。常に全視野にピントを合わせていると疲れるので、通常はぼんやりと見てます。視野内で何かが動いたということを検出すると、そこを集中して見ます。普通は周辺の甘い魚眼レンズで見ていて、動くものを検出すると望遠レンズの切り替える、超高倍率ズームレンズですね。普段は省エネ低解像度モードで、緊急時には超高解像度モードに移行する設計だとも言えます。

きっともうすぐ、このような監視カメラが登場すると思います。普段は魚眼レンズを使った低解像度のカメラだが、不審なものが動いたのを検出した時点で、超高解像度モードに入り、超望遠レンズで不審物を追跡する。この間も低解像度で他の不審物の動きを監視し続ける。


2009.5.32 鎌倉幕府研究ノート(20) 藤原純友

東の平将門を出したら、西の藤原純友を出さないわけにはいけません。しかしながら、藤原純友の行動も簡単には理解できません。“海のサムライたち”(白石一郎著、NHK出版)と読んでみたのですが、記録が断片的で詳しくは分からないようですが、後に「将門純友東西軍記」などの書物が出て、混乱を招いているようです。

936年、愛媛の海賊の大将である藤原純友が年貢米を積んだ船を襲撃したりして乱暴を働いた。純友は中流の貴族で、伊予国府のNo.3の高官だったが、土着して海賊となった。朝廷は紀淑人を派遣して海賊に投降を呼びかけ、衣服や田畑を与える寛大な処置を行ったので、海賊は鎮圧された。海賊の大将だったはずの純友は、どういうわけか、朝廷の命令を受けて海賊を鎮圧する側であった。うまく立ち回ったのか、それとも記録があいまいなのか分かりません。

3年後の939年、純友は再び海賊の大将として歴史にあらわれる。海賊鎮圧の功労に対して朝廷から何らの恩賞もなかったことを不満として反乱を起こした。純友が船団を率いて海にでたので、朝廷は純友が淀川をさかのぼって京に攻め入るのではないかと大騒ぎになった。東の将門と同時期に決起したように見えたので、朝廷は動揺した。ところが純友は京に攻め入るどころか、朝廷の懐柔策を受け入れ、しばらく鳴りをひそめてしまった。将門が流れ矢に当たって死んでしまうと、朝廷が勢いを取りもどし、純友は滅ぼされてしまった。

最初読んでいた時には、さっぱり意味が分からなかったのですが、何度か読むうちに少し分かってきました。典型的な官僚の土着化ですね。地方に派遣された官僚は、中央に対しては海賊を鎮圧したと言い、海賊に対しては中央から守ってやると言う。まじめに地方の生活の維持を考える官僚であれば、こうする他はなかったのではないかと思います。

瀬戸内海で製塩業が盛んになると、荘園領主は浜辺を占拠してしまい、貧しい漁民は行き場がなくなります。瀬戸内の島には十分食料が得られる土地などありません。一方、瀬戸内海には九州からの米を満載した船が往来します。この米を少し頂戴する以外に、生きる道はなかったのかもしれません。


2009.5.31 鎌倉幕府研究ノート(19) 平将門の乱

坂東武士の不満を論ずるのであれば、西暦940年頃に起こった平将門の乱を調べないわけにはいけません。Wikiediaの平将門の項目や、房総の歴史・平将門の乱を読んでみたのですが、分かりにくいです。間違っているかもしれませんが、それを承知で要約します。

桓武天皇の曾孫の子である平良将は、今の千葉から茨城あたりで北辺警備にあたる鎮守府将軍をしていた。良将の子である将門は京都で左大臣・藤原忠平に仕えていたが、父良将が死ぬと千葉に呼び戻された。新田の開墾をするなど領民の評判はよかったが、平氏一族の内部抗争に巻き込まれる。成り行きで茨城の国府を攻めたことから、朝廷に対する謀反とみなされる。京都の朝廷は遊んでばかりで真面目に仕事をしないので関東では不満がたまっており、民衆は将門を支持。ひとつ国府を攻めたなら、後はいくつ攻めても同じだと、常陸、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総、安房と次々に関東の国府を攻め落とす。そして、勢いに乗って939年12月、上野国の大宝八幡の境内で将門は新皇を宣言。クーデターにより関東独立国家が成立。しかし、結局翌年朝廷軍に鎮圧され、クーデターは失敗。

将門は平氏一族の内部抗争に巻き込まれ、また朝廷に対する不満に後押しされ、準備不足のままクーデターに突入したようです。また、職業軍人はあまりいなかったようでして、農民が戦っていたようです。将門軍は農繁期になると兵員を故郷に帰していたようです。240年後、頼朝は将門の失敗を参考にして、鎌倉幕府の構想を練ったのではないかと思います。


2009.5.30 鎌倉幕府研究ノート(18) 坂東武士の不満

“鎌倉武士物語”(今野信雄著、河出書房新社)から引用します。
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では、坂東武士の不満はなにか。関東は相模、武蔵、房総と、そのほとんどが古く都の平氏から分れて独自に新開地を開墾した、やはり平氏一門の土地だ。しかし子孫がふえるにつれておこる問題は、土地の境界線であり、川水の配分である。そのため同族でありながら、しばしば血で血を洗う闘争を見ることになる。それを都に訴えても裁判は一向にはかどらず、しかも多額の賄賂が必要だった。そして十年後、二十年後、場合によっては三十年後にようやく裁決が下るが、それもその間の賄賂次第とあっては、いっそ都をあてにせず、関東のみが治外法権として独立しようとするのは当然の成り行きだ。
 その際に必要なのは、事の是非を判ずる能力と、身びいきのない公平な裁判と、誰もが認める貴い家柄、つまり貴種であることが必要なのである。当時は家柄がまず第一にものをいう時代だったからだ。だから源氏の嫡流である頼朝なら文句はない。
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これは分かりやすい。都にいる平清盛はあてにならないので、ここはひとつ関東にいる源頼朝を担ごう。裁判所は京都に一箇所しかなくて、遅いし、費用が高いし、不公平なので、ここはひとつ鎌倉に勝手に裁判所を作って、頼朝裁判長に速くて、安くて、公正な判決をバンバン出してもらうことにしましょう。裁判に従わない不届き者は、きっちり落とし前をつけますよ。ということですね。


2009.5.29 鎌倉幕府研究ノート(17) 源頼信

鎌倉幕府にたどりつくまでにはしばらくかかるかと思っていたのですが、源頼信まで来ると、何となくほとんど理解できたような気になります。つまり、朝廷が地方の国司に業務委託を開始したのだが、大規模な反乱が起こると国司では対処できない。朝廷はやむをえず京都から討伐軍を送るが、うまく反乱を鎮圧できない。反乱軍も鎮圧軍も皆、源氏あるいは平氏を名乗っており、先祖が天皇であることを権威の拠り所にしている。見事鎮圧に成功し、地方情勢を安定させた源頼信に支持が集まり、鎌倉幕府へとつながっていく。関東で紛争が起こったとき、朝廷に仲裁を求めても埒が明かないし、朝廷は武力鎮圧はできないので、人気と実力のある源頼信一族に仲裁をお願いした方が良いだろう。

そう考えると、鎌倉幕府は朝廷の関東事務所みたいなものだったのかもしれません。あるいは、土地所有問題に関する武力紛争解決のための政府機関と言ってもよいかもしれません。そのうち、まあ関東の治安がまかせられるなら、別に全国的にまかせてもいいのではないか、ということになったのかもしれません。

そうか、ということはつまり、関東の勢力の伸びに朝廷の警察能力では対応できない。警察署の中で一番の実力者を関東に送って鎮圧させたら、評判がよいので、そのまま関東の治安維持を丸投げすることにした。ええい、いっそのこと日本全国の治安維持を鎌倉幕府に丸投げしよう。侍は皆天皇の子孫だという権威なしでは生きていけないので、いざとなったら、源とか平とかの姓を剥奪すれば良いであろう。

やはり天皇家の広報宣伝活動の勝利のような気がしてきました。


2009.5.28 鎌倉幕府研究ノート(16) 平忠常の乱

”概説日本史”(有斐閣選書)から引用します。
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ところで、この国司(受領)は、10世紀ー11世紀中期の歴史過程で、律令軍団制の解体や健児制の衰退以降、荒廃していた地方軍政の整備にのり出し、いわゆる国衛軍制の組織を生み出したのである。近年の研究によると、11世紀の中頃、源頼信が下総の平忠常を攻撃したさいの軍構成は、おおよそ右図の通りであったといわれる。
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平忠常の乱(1028-1031)のことですが、これはとても面白いですね。鎌倉幕府に直接結び付きそうです。

簡単に要約すると次のようなことです。

平忠常は千葉県から茨城県のあたりに広大な土地を持ち、国司の命令に従わず、税金も納めなかった。安房守平惟忠(国司?)ともめごとが起こり、惟忠を焼き殺すという事件を起こす。続いて上総国の国衙を占領してしまい、朝廷に不満を持つ東国人の支持を集める。朝廷も黙って見ているわけにもいかず、関白・藤原頼道は、検非違使右衛門少尉・平直方を討伐に送るが、反乱軍を平定することができない。業を煮やした朝廷は代わりに甲斐守源頼信を派遣する。戦いに疲れていた平忠常は、以前仕えていた源頼信が来ると聞き、戦わずして降伏する。この後、坂東平氏多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げた。この戦いにおいて、千葉の農村は荒らされてしまうのであるが、それは主に平直方率いる朝廷軍の仕業だった。

関東から見ると、同じ朝廷軍でも、平直方はひどいことをする悪い軍であるが、源頼信は戦わずして平忠常を降伏させるような立派な軍である、と思えたのかもしれません。

源頼信は、左兵衛少尉、上野介、前常陸介、鎮守府将軍、前伊勢守、甲斐守、美濃守、相模守、河内守など全国の要職を歴任した地方行政の専門家だったようです。源頼信は源頼朝のひいじいさんのひいじんさん(6世代前)。


2009.5.27 鎌倉幕府研究ノート(15) 平氏と源氏

Wikipediaの平氏の項目を見ると、次のように書かれています。
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源氏と同じく、皇子皇女の処遇として賜姓が行われたが、天皇の孫以降の代に賜姓を受けた例が多いと言われ、そのため源氏よりも格は下とされる。
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確かに桓武平氏高棟流は桓武天皇の孫である高棟王(平高棟)からはじまり、桓武平氏高望流は桓武天皇のひ孫である高望王(平高望)から始まっているようです。伊勢平氏(平家)は高望王のひ孫の維衡から始まり、清盛は維衡のひ孫の孫にあたるようです。

Wikipediaの源氏の項目を見ると、次のように書かれています。
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源氏は源の姓を持つ氏族であるが、嵯峨天皇が生まれた子らにその姓を与え、皇室と祖を同じくするという名誉の意味をこめて与えた。嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。
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なるほど、そういうことだったのですね。うちのひいじいちゃんの、ひいじんちゃんの、そのまたひいじいちゃんは天皇だったんだぞ、頭が高い、みたいな感じですね。徳川家康までもが源氏を名乗った理由が分かりました。庶民から見ると、侍は盗賊団などと区別がつかなかったと思われますので、”我々は天皇の子孫である”と書いた旗を持って歩かないと、庶民の協力が得られなかったものと思われます。今でいうところのパトカーとか警察手帳のようなものですね。

それにしても、天皇家はいつの時代も絶大な権威を持っていたのに驚きます。きっとうまく宣伝広報活動がされたのだと思います。神話なんかもその一環かもしれませんね。


2009.5.26 鎌倉幕府研究ノート(14) 侍

Wikipediaのの項目を見ると、次のように書かれています。
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元来は有力貴族諸大夫に仕える位階六位どまりの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)を指すが、次第にその中でも武芸を職能とする技能官人である武士を指すことが多くなった。初期の武士身分は諸大夫身分の軍事貴族と、侍身分の一般武士のふたつの階層から構成されていた。
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まあ、今で言うところの地方公務員とか警備員といったところでしょうか。王朝国家の中で徐々に力を貯えて行きます。朝廷も中央政府軍を持っていたようですが、早々に敗れてしまいます。他に僧兵が軍事力を持っていたのですが、大きく歴史を動かすことはなかったようです。

侍には権威はなく、雇用者である貴族の権威に依存していたようです。最も権威があるのが天皇家ですから、天皇家から出た平氏や源氏が大きな勢力を持つことになるのは当然だと思えます。


2009.5.25 人間の眼のF値

人間の眼の明るさはF1.0みたいな話を聞いたことがあります。光学的には、つまり瞳孔を絞りと考え網膜をフィルムと考えた場合の口径比は、F3.4くらいのようです。水晶体から網膜までの距離(眼軸)は約25mm瞳孔の直径は8mm - 1mmですから、単純に割り算をするとF3.1からF25くらいということになります。多分網膜の性能と脳の画像処理能力が優れているのではないかと思います。こんな単純な計算で良いのか分かりませんが、水晶体は1枚なわけですから、単レンズとしては驚異的な明るさと言えると思います。そういえば、夜行性の動物は大きな眼を持っています。ふくろうなどは、きっとF2.0くらいの眼を持っているかもしれません。広い宇宙の中には、もしかしたら、水晶体を8枚くらい持つ宇宙人が存在するかもしれません。

地球にはもっとすごいやつらがいます。トンボで6000個から10000個。カブトムシで13000個から22000個。一体F値はどれくらいなのでしょう?


2009.5.24 Emil Busch Glaukar 80mm F2

Emil Busch社はGlaukarというレンズ名をいろいろなレンズに使っているようでして、なんだかさっぱり分かりません。興味を引くのはGlaukar 80mm F2なのですが、Exaktaマウントライカスクリューマウントのがあるようです。Wikipediaのエキザクタマウントレンズの一覧にも記載されています。スペックと外観から察するところ、BiotarやXenonやSuper-Sixなどの類のようですが、はっきり分かりません。

他に、シネ用の焦点距離の短いレンズもあるようです。たとえば、日々念事にBusch-Glaukar-Anastigmat F:2.8 F=2cmが出ています。なかなか良く写るようです。


2009.5.23 COOKE OPIC 4 1/4 INCH

COOKE ANASTIGMAT LENS No183063 4 1/4 INCH SERIES O f/2
Made by TAYLOR-HOBSON England Patent No157040


3年ほど前から探していたレンズがやっと見つかりました。まずまずのコンディションです。


NIKON Fマウントに改造してありました。真鍮の筒が目立ちます。


M57ヘリコイド(オス)、M57チューブ(メス・メス)、レンズ(M57オス)できれいに改造してあります。ところで、M57がいつも使っているブロニカとミノルタMDの中間リングと同じである、ということに初めて気がつきました。なぜブロニカとミノルタの中間リングが同じ規格なのか不思議だったのですが、これらは皆M57規格スクリューだったようです。Astro Gauss Tachar 2/100mmを見てみると、やはりM57でした。


よく使い込まれています。


第2群がはずれないのですが、他は簡単に分解できるので、全8面の清掃は簡単にできます。


文字の間隔がばらばらなのが面白いですね。新入りの職人さんが親方の起こられながら刻印していたのかもしれません。


せっかくきれいにニコンFマウントに改造してあるのですが、私がEOS 5Dで使うのには、ふたつ問題があります。
(1) 無限遠が出ない。
(2) ニコンマウントの口径が小さいため、フルサイズだとケラレる。
この改造にはかなりお金がかかっていると思いますので、他のレンズに流用したいと思います。


M57ですので、ブロニカの中間リングがほぼそのまま使えて、特に改造する必要はありません。フードは普通の58mmのものが使えます。


ブロニカのヘリコイドに取り付けけて完了。偶然ではありますが、これで無限遠がちゃんと合っています。まったく手間のかからないレンズです。


2009.5.22 鎌倉幕府研究ノート(13) 武士団の成立

武士の起源、成長、そして源頼朝による武家政権の樹立までの歴史を調べているのですが、さっぱり要領を得ません。2冊本を読んでいるのですが、書き方が違います。どちらの本も文章の歯切れが悪くなりますので、読んでいていらいらします。でも、歴史書を読んで良く分からないところを、徐々に理解していくのが醍醐味なわけでありますから、一番おいしいところなのです。”日本史の基礎知識”(有斐閣ブックス)から引用します。

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武士とはほぼ10世紀前後ころに地方から興った武技戦闘の専門家であり、武士団とは主従制度によって構成されたかれら軍事専門家の集団である。
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”武士団の成立”という章の小見出しにこのように書いてあるのですが、なんか自信なさそうな文章ですね。まじめな歴史書なのですが、”ほぼ10世紀前後ころ”という所で吹き出してしまいます。これはいったい何年から何年までの間を指すのか分かりません。だいたい10世紀というだけでも100年の幅があるのに、さらにその上に、”ほぼ”、”前後”、”ころ”と三重に幅を持たせるのは常識的な日本語ではありません。筆者が頭をかきむしって苦しんでいる様子を察して欲しいという意味だと理解しました。

もう少し読み進むと、次のように書いてあります。
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院政期以降、武士という身分は社会的に成立しているが、この身分の成立は武士の国家的体制化や国衛を中心とする組織化と結びついていたのではあるまいか。最近になって、こうした諸点がむしろ重要な問題として提起され、若干の注目すべき研究が発表されているが、実はまだ十分な体系を備えるにはいたっていないというのが現状である。このような状況の中で、限られた紙面で「武士団の成立」について概観することは大変むずかしい。”
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このように正直に書いて頂くと勇気づけられます。私が武士団の成立について、学校で習った覚えがないのですが、別に勉強をさぼったからではなかったようです。


2009.5.21 鎌倉幕府研究ノート(12) 国司

王朝国家体制下では、国司は中央政府に対して一定額の納税を請け負っていました。国内においては、田地一反あたりの年貢を額を決める権限を持っていました。この権限を利用して、合法的に農民から搾取し、財をなすことができました。しかし国司は、任期が終わると、都へ帰らなければなりません。次によい国に転勤させてもらえるよう、中央政府の人事担当者、すなわち摂関家にごまをすらなければなりません。”概説日本史”(有斐閣選書)から引用します。

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そのころ、国司は、中央政府への進納物は滞らせても摂関家への献上物だけは怠ることがない、と非難されていたが、藤原道長が私宅の土御門邸や法成寺を造営したとき、諸国の国司に工事が割り当てられた。
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なかなかうまい支配体制ですね。この体制だと、国司に時々転勤命令を出すだけで官僚の土着化を防ぎ、中央の権威を保つことができます。徳川家康なんかも、これを参考にして参勤交代をさせたのかもしれません。日本はヨーロッパや中国より国土が狭かったので、中央集権が維持しやすかったのだと思います。

ただまあ、国司ばかりが儲かるというのは、他の人から集中攻撃を受けるのは明らかでして、そんなに長く続くとは思えません。


2009.5.20 ディスクスワップ? (3)

パソコン(Windows Vista Home Premium)が時々ディスクにアクセスしっぱなしになって、30秒ほど何もできなくなる件、やっと原因が分かりました。ノートパソコンを閉じたとき、”休止状態”になるように設定すると、この現象が起こるようです。休止状態に入る時と復帰するときに激しくディスクアクセスするのは当然だと思いますが、それ以外の何でもない時でも時々激しくディスクアクセスするようになっているようです。

ノートパソコンを閉じたとき、”スリープ”するように設定すると、この問題は出なくなりました。ただし、スリープ状態でも少し電力を消費しているようでして、バッテリーの減りは激しいです。それと、何度もスリープに入ったりスリープから復帰したりすると、IMEが応答しなくなりますので、時々リブートしてやらなければなりません。

問題が完全に解決したわけではありませんが、これだけ分かれば十分です。大事な仕事の前には、”休止状態”に入らないように設定してリブートしてやればよいのです。”休止状態”や”スリープ”の機能は、ハードウェアとOSの境目にあり、なかなか難しい所なんでしょうね、きっと。今まで濡れ衣を着せられそうになったソフトの皆様、大変失礼致しました。


2009.5.19 鎌倉幕府研究ノート(11) 名

”概説日本史”(有斐閣選書)から引用します。

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王朝国家体制のもうひとつの特質は、田地面積に対して賦課されるものを主とする収取体制になり、国司が国内で「名(みょう)」単位の支配を行うようになったことである。
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朝廷 ---> 摂政・関白 ---> 国司 ---> 名 ---> 農民 という階層的支配が確立されたようです。


2009.5.18 鎌倉幕府研究ノート(10) 王朝国家

律令国家支配では班田制であり、土地は朝廷のものであり、公のものでした。班田制が崩壊して、荘園と呼ばれる土地私有が始まると、荘園の武装集団である武士が成長し、鎌倉幕府に至ったと思っていました。しかし、この説は古いようです。律令国家と鎌倉幕府の間に、王朝国家があったそうです。”概説日本史”(有斐閣選書)から引用します。

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王朝国家という考え方が出てくる1950年代前半まで、古代から中世への移行は次のように説明されていた。律令国家支配は荘園という私的大土地所有がしだいに増加したために崩壊し、都では藤原氏が権勢をほしいままにするいっぽう、地方政治は荒廃し、その荒廃の中から武士が発生して、やがて政権をたてて荘園制に立脚した鎌倉幕府の時代になったのだ、と。
 しかし、律令国家にみられた初期荘園は衰退するか、あるいは行方が明らかでないのであって、中世の荘園は11−12世紀ごろ形成されたものである。こうしてみると、律令国家支配が荘園によって崩壊したということはできないことがわかる。
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ヨーロッパの歴史に少し慣れたところで、日本史を読み出して感じるのは、天皇家が一貫して権威を持ち続けたことです。藤原氏の摂関政治になっても、鎌倉幕府になっても、あくまでも権威は天皇にあります。ヨーロッパの場合、ローマ法王が権威を持ち、その下に皇帝がいて、さらにその下に地方領主である王がいると考えられます。日本では天皇が権威を持ち、その下に役職として摂政や関白があり、この役職に公家が就いたり、武士がついたりするように見えます。

もうひとつ感じるのは、国家という言葉の意味です。ヨーロッパでは国家、あるいは近代国家という言葉は、ごく最近の社会体制を表わします。たとえば、ドイツという国家がいつできたかというのは非常に微妙ですが、たとえば、1871年のヴェルヘルム1世の戴冠と考えることができます。1871年といえは明治4年です。それまではドイツというのは地方あるいは民族の名前で、支配していたのはハプスブルグ家のオーストリアとか、ホーエンツォエルン家のプロシアとか、ヴィッテルスバッハ家のバイエルンとかだったようです。ところが、日本では、大和朝廷という国家と、現代の日本という国家はほとんど同じものとして扱うことができます。

話がそれてしまいましたが、王朝国家に戻ります。
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王朝国家体制の特質の一つは、中央政府が国司に任国内の支配をまかせ、一定額の中央進納物を請け負わせたことである。
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つまり、直接支配から、地方自治に移行したということですね。別の言い方をすれば、朝廷は最初農民全員を直接雇用していたがなかなかうまく管理できないので、国司に下請け会社を作らせて仕事を丸投げした。


2009.5.17 鎌倉幕府研究ノート(9) 平安京

平安京の建設について、”日本史の基礎知識”(有斐閣ブックス)には次のように記載されています。

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平安京の地は鴨川・高野川・桂川などが流入する低湿地なので、上賀茂jから下賀茂へ水路を開削して鴨川を高野川に合流させ、さらに合流点から真南に水路を通じた。この改修された鴨川の西側に、東西1508丈(約4.5キロ)、南北1753丈(約5.2キロ)の新都が造成された。中央北部に大内裏が定められ、その南面中央から南へ朱雀大路が貫通して、左右両京を分かち、南北に九条、東西に左右各四条を置くプランは、従前の平城京と同様に唐の都城制に基づくものであった。
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こりゃ大変な工事ですね。鴨川は人口の河川だったのですね。妙にまっすぐだなので不思議でした。河川を改修しただけでは低湿地に建物は建てられませんので、宅地造成にも膨大な労力がかかったと思われます。これらの工事には莫大な国家予算が投入されました。桓武天皇は蝦夷征討にも予算をつぎ込んでいましたので、国家財政の窮乏を招いたようです。今でいうと、国土交通省と防衛省に莫大な予算を投入して、財政赤字が急増したといったところでしょう。桓武天皇は死の前年(805年)、批判を浴びて平安京の造成を中止します。しかし、京都はその後着実に発展し、華麗な王朝貴族文化の舞台となります。


2009.5.16 鎌倉幕府研究ノート(8) 長岡京

平城京から遷都した理由はいくつかあるようです。Wikipediaの平城京の項目を見ますと、

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平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった。都には小さな川は流れているが、人口10 万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、 水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。
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律令国家の首都は予想以上に繁栄し、生活インフラが追い付かなくなったということでしょう。その他にも、
● 奈良時代末期における寺院勢力の巨大化と政治介入の弊害を断ち切るため
● 桓武天皇が天武天皇系の力を削ぐため旧都を廃止したかったため

ということで、水陸の便の良い長岡京への遷都が決まりました。しかし、長岡京遷都事業を推進した藤原氏の中納言種継が、大友氏を中心とする諸氏族により暗殺され、遷都事業の推進が困難になります。この暗殺事件に関連して皇太子早良親王が廃位された後、淡路国に流される途中で憤激のあまり死にました。この後天皇家の人々が相次いで亡くなり、早良親王の祟りであるとされました。この他、長岡の地が水害を被りやすかったという説も有力だそうです。そこで、桓武天皇は長岡京をあきらめ平安京へ移ることにしたようなのですが、平安京の地は当時は低湿地で、かなり大規模な土木工事が必要だったようです。

ここまできて、やっと関西の中心地が奈良から京都へ、そして最後に大阪へ移った理由が明らかになってきました。
1. 水害が起こりにくく(従って水運の便は悪いが)、簡単な土木技術で都市建設が可能な奈良がまず選ばれた。
2. 土木技術の発達に伴い、大規模な土木工事が必要になる低湿地(水運の便は少し良い)である京都に遷都した。
3. さらに土木技術が発達すると、大和川の付け替えや、河内湖の干拓など、超大規模土木工事を行い、大阪が発展した。


2009.5.15 鎌倉幕府研究ノート(7) 土地問題

話を班田収授法に戻します。口分田を戸籍の増減に合わせて平等に再配分するというのは、なかなか大変なことだったと思われます。税負担は重かったですし、干ばつや洪水で飢饉になったでしょうし、豊作続きだと人口が増えて支給すべき田畑が不足します。”概説日本史”(有斐閣選書)から引用します。

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八世紀前半から人口増加に伴い口分田として班給できる耕地に不足するようになってきた。ために、722年には良田100万町歩開墾が企てられたし、翌年には三世一身法を発布した。これは、新しく用水施設を設けて開墾したものには三世の間、既設用水を利して開墾した場合には本人限りの墾田の用益をみとめるというものである。
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一生懸命開墾した者は金持ちになるわけでして、土地私有、自由経済への転換が始まったようです。この20年後には墾田永代私有令が発布され、貴族・寺社などの墾田が盛んになり、律令国家の土地公民制が次第に崩れていくことになります。


2009.5.14 鎌倉幕府研究ノート(6) 干ばつ

最近でこそ日本では”干ばつ”があまり問題にならなくなりましたが、しばらく前までは深刻な問題でした。琵琶湖の東に広がり、近江米の産地として知られる湖東平野でも、戦後になってもしばらくの間は、まだ水不足に悩まされていたようです。”王朝の湖水”から引用させて頂きます。

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こうした川の下流では、水は地下に浸み込みやすく、表流水の利用は困難を極める。
この地方では、昔から伏流水を集める独特な灌漑法が工夫されている。また、湖面近くの低湿地では、内湖からクリーク状に水を引き、それを龍骨車(または踏車)と呼ばれる水車で田に上げていた。いずれにせよ、琵琶湖という日本一の水瓶を目の前にしながら、貧水地帯であり、淀川下流の平野と極端な対照をなしている。
150haという広いエリアを琵琶湖からポンプ(蒸気機関)で揚水したのは明治38年(1905)、奇しくも南郷洗堰が竣工した年である。いや、奇しくもというより、むしろ洗堰の完成に合わせたのであろう。琵琶湖の水位が低下することは目に見えていた。
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下流の京都・大阪地域との調整が難航したのか、蒸気機関により揚水がすんなりと進んだわけではなかったようです。

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「逆水灌漑」というこの地域独特の言葉が定着するのは、昭和4年に始まった県営童子川沿岸農業水利事業からであろう(国による50%補助の適用を滋賀県で初めて受けた事業)。これは、童子川河口近くで琵琶湖の水を揚水し、川を逆流させて遠く上流536haの水田を潤すという奇抜な灌漑方式であった。
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先日草津の父に聞いたところ、昔は龍骨車(または踏車)が実際に使われていたとのこと。ただ、労力の割には、わずかな水しか揚げることができなかったそうです。琵琶湖の水を動力ポンプでくみ上げる草津用水(草津逆水)が始まったのは、私が生まれた翌年の昭和34年のことだったようです。もっと早かったと思っていたのですが、案外遅かったのですね。それまでは、溜池を利用したり、局地的に地下水をポンプで汲み上げて使ったりしていたようです。私が子供のころは、既に溜池は必要なくなっていましたが、まだ多く残っていました。そして川は公害という全く別の問題に直面することになります。

参考資料:”農業水利の歴史的変遷”(琵琶湖河川事務所)、”草津用水”(水土里ネット)


2009.5.13 鎌倉幕府研究ノート(5) 河内湖

王朝の湖水”の続きです。水運の便が良い大阪ではなく、なぜ不便な内陸の奈良や京都に都が建設されたのかがやっと分かりました。大阪はまだ海の底か、河内湖という沼の中だったようなのです。

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それもそのはず、古墳時代まで大阪平野は下図のようになっており、現在の大阪市街は、上町台地を除いてほとんど海か沼であった。沼は河内湖と呼ばれた。今の河内平野の大半を占める。
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水上交通が発達すれば、別に沼でもよいではないか、というわけにはいきません。頻繁に洪水に襲われるようでは、首都の適地とは言えません。

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むろん、それ以前にも洪水は頻繁に繰り返されていた。623年(推古帝)以来、明治元年まで、少なくとも記録に残る淀川洪水は239回。ほぼ5年に1回の割で起こっている。古代から近年に至るこの地域の宿願は、常に洪水対策、つまり治水にあった。
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この根本的解決は、明治の淀川改良工事、及び昭和の琵琶湖総合開発まで待たなければならなかったようです。今でこそコンクリートの堤防は自然破壊だとか、ダム建設は税金の無駄遣いだとか言われており、私もそうだと思っています。しかしながら、中世はもちろんのこと、戦後になってもしばらくの間は、深刻な水害と干ばつに悩まされており、多くの犠牲者を出していたという歴史があることも忘れてはならないと思います。


2009.5.12 鎌倉幕府研究ノート(4) 橋

王朝の湖水”を読んでいたら、宇治橋と瀬田唐橋のことが書いてありました。 宇治橋がなければ、陸路では奈良から京都に行けません。同様に、瀬田唐橋がなければ、東国から京都に入ることができません。 昔は頻繁に洪水に襲われ、木造の橋はそのたびに流されたと思います。そうすると、年貢を陸路で奈良の都に運ぶことができなくなってしまします。 船で運べばいいじゃないか、と思っていたのですが、船を頼むには費用がかかりますし、常に転覆の危険性があります。 Wikipediaの瀬田の唐橋を見ていたら、次のように書いてありました。江戸時代になっても、波の静かな琵琶湖であっても、やはり転覆を恐れたようです。

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武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

という連歌師の宗長の歌から急がば回れのことわざがうまれたと紹介している。東から京都へ向かうには、瀬田まで南下して唐橋を渡るより、 矢橋(やばせ)の港から船に乗って大津へと琵琶湖を横断する方が速いとされていたが、この航路は突風に遭う危険があった。 このため、楽で速い方法より遠回りでも確実な方法をとった方がよいというこのことわざが生まれている。
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”急がば回れ”は瀬田の唐橋のことだったのですね。船に慣れない武士は怖かったんでしょうね。まあ、陸では強い武士も、海で漁師や百姓に襲われれば、ひとたまりもありません。実際には、矢橋から大津くらいなら、当時の小舟でも特に危険はなかったと思います。うちの実家は矢橋のすぐ近くにありまして、昭和30年ごろまでは、父は船の櫓をこいで大津に行っていたそうです。


2009.5.11 鎌倉幕府研究ノート(3) 畿内

歴史書にはよく畿内という言葉が登場します。現在の近畿2府4県かと思っていたのですが、もっと狭い範囲だったようです。”王朝の湖水”を見ると、

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近畿、あるいは畿内という。
畿とは「都からわずかしか離れていない領地」という意であり、田と幾(ちかい)という字からなる会意(兼形声)文字である。畿内は、京都を中心とする山 城、大和、河内、和泉、摂津の5か国。つまり、古くは王朝の田畑が及ぶところを意味した。飛鳥京、難波[なにわ]京、近江京、平城京、長岡京、平安京と、 いにしえの王朝はいずれもこの淀川流域の地に都を構えている。その都の田畑を潤した水は、すべて淀川となって集まり、難波津[なにわづ](淀川河口)にて 大阪湾へと注ぐ。
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どうやら我が故郷である近江の国は畿内には入らなかったようです。同じく”王朝の湖水”から引用。

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ところで、この琵琶湖周辺の湖国・近江は、畿内五カ国からは外れる。王朝の田畑が及ばなかったわけでもなかろうが、農耕の条件として決して恵まれた地ではなかった。まず湖西地方は、比良山地や野坂山地の山塊が張り出して平地が少ない。湖東は、一大平野をなしているものの雨が少なく、川も短く急峻である。また、後背地の山々は花崗岩でできているため土砂の流出が激しく、川は天井川を形成する。目前に、巨大な水瓶[みずがめ]を有しながら、この平野は水の利用が難しく、地下水、小さな溜め池、伏流水を集める集水渠[しゅうすいきょ]といった小規模かつ複雑な灌漑方式を組み合わせて渇水を凌[しの]いでいた。世に名高い近江商人も、農村の貧しさが生み出したものと言っても過言ではなかろう。
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2009.5.10 鎌倉幕府研究ノート(2) 班田農民の負担

鎌倉幕府研究の参考資料としては、”日本史の基礎知識”(有斐閣ブックス)と、”概略日本史”(有斐閣選書)を参考にしています。

農民に有利に見える班田制でありますが、当然ながら厳しい納税義務を負っていたようです。”租”は収穫高の約3%を納めたのですが、米を最寄りの地方政府まで運ぶのは大変だったようです。”庸”と”調”は中央政府の財源だったため、地方からでも納税者の責任で奈良まで送らなければならなかったそうです。陸上交通が不便な当時は困難を極めたそうです。特に奈良は水運に恵まれないので大変です。都にたどりつけたとしても、帰り道があまりにも遠い。この他に労役や兵役があったそうで、農村の労働力を奪いましたので、生活は大変苦しかったようです。

また、当時の農業技術では、満足に米が収穫できる年は、それほど多くなかったのではないかと思います。それでも、徐々に荒れ地を開墾して農地を増やすことにより、少しづつ人口が増えて行ったようです。


2009.5.9 鎌倉幕府研究ノート(1) 班田制

鎌倉幕府関係の本を読みだしたところ、日本史の知識が皆無であることに気づきました。これはいけないということで、かなり基本的なところから勉強したいと思います。これは私のノートです。

律令国家における人民支配においては、土地は公有とされ、班田収授法に基づき、良民男女および賤民男女に対して一定の面積の口分田を支給していました。西暦690年から800年の頃には、6年に一度戸籍を作っており、これに従って土地を支給していたようです。一旦土地が支給されると、死ぬまで使うことができ、死んだら国に返すような制度でした。口分田の売買は許されなかったので、今で言うところの共産主義ですね。

奈良時代の間ずっと6年に一度戸籍が作られていいたというのは、驚異的ですね。702年の戸籍の記載に、筑前国で男一段240歩、豊後国では一段118歩の班田が支給されたという記録があるようですので、都に近い近畿地方だけではなく、九州でもきっちりやっていたようです。この政策が全国的にちゃんと行われていたとすると、土地をめぐって血みどろの争いをしなくて良いわけですから、農民は大いにありがたいわけでして、朝廷の権威が全国津々浦々まで浸透したと考えられます。

班田収授法は、中国の均田法を手本にした平等な制度ではありますが、ちょっと理想的すぎて、とても長続きするとは思えません。これが崩れる過程が、遠く鎌倉幕府の成立につながって行くような気がします。


2009.5.8 つまみ種12個入り

MACRO-SWITAR 1.8/50mmを他の50mmクラスのレンズ比較しようと思い、とりあえず机の上に並べてみました。

NIKKOR-SC 1.2/55mm, RIKENON 1.4/55mm, CANON EF 1.8/50mm II, MACRO-SWITAR 1.8/50mm
Planar 1.8/50mm, F.ZUIKO 1.8/50mm, TAKUMAR 1.8/55mm, FUJINON 1.8/55mm
Flexon 2/50mm, Biotar 2/58mm, SEPTON 2/50mm, Primoplan 1.9/58mm

優秀なレンズばかりですが、MACRO-SWITAR以外は安いものばかりです。多少へこんでいたり、多少曇っていたりしますが、写りには関係ないはずです。これだけのレンズがEOS 5Dという一台のカメラで使えるのは、ありがたいことです。同一条件で比較できます。最大の問題は、レンズをどうやって持ち運んで、どうやって迅速に交換するかということです。バッグからまだ写していないレンズを探し出して、前後のキャップをはずして撮影し、またバッグにしまうなどということは、現実的ではありません。まあ、レンズの数を減らせばよいのですが、めったに使うことのない50mmレンズ達ですので、何とか12本全部比較したいものです。


ということで、一時間ほどかけて、このような速射ケースを段ボールで作りました。左上から順番に使っていけば、迷うことなく全部のレンズがテストできます。さて、この箱にぴったりの何かしゃれた名前を考えて、マジックでフタの書かなければ。


”つまみ種 12個入”。 既に箱に書いてありました。偶然ですが、ぴったりの名前だったので、そのままにしておきましょう。


2009.5.7 東シナ海

鎌倉幕府成立以前の歴史を調べようと思い、”概略日本史”(有斐閣選書)を読みだしました。まず驚くのは(小学校で習ったはずですか)、紀元前一世紀から中国大陸との交流があったことです。このころ既に東シナ海を渡れる船が存在したということですね。中国ではこの少し前に鉄器が作られていますので、鉄器によって丈夫な木造船の建造が可能になったということかもしれません。

当時の東シナ海を渡る航海は専門家(たとえば海賊)が行えば案外安全なものだったのかもしれません。当時の中国から見て知ることができる日本人とは、中国に来れる人、すなわち海賊、すなわち倭人であったと思われます。そこで、倭人の海賊になったつもりで、あらためて東シナ海周辺の地図を見てみました。

朝鮮半島から島伝いに、対馬、壱岐、九州、奄美王島、琉球、台湾を経て福建省に至る航海を計画します。このとき、最も長い航海をしなければならないのは、那覇から宮古島に至る航路で、約200キロ。壱岐・対馬間、あるいは対馬・釜山間の距離は100キロほどですので、遠いとは言えません。

福岡を拠点として、鉄器の交易を計画します。奈良や京都に船を出すより、釜山に行く方が近いようです。関東に船を出すのと、ソウルや平壌に船を出すのは、それほど変わらないようです。特に台風の時期には、波の荒い太平洋沿岸より、黄海沿岸の方が安全そうです。

道路、鉄道、橋などの陸上交通が発達した現在では分かりにくいのですが、紀元前に九州から近畿地方に陸路で向かうことは不可能だったと思われます。上海あたりから東を見た場合、北東に見えるのは朝鮮半島、済州島、五島列島、九州の島々、南東に見えるのは琉球であります。本州は九州の影に隠れて見えなかったかもしれません。


2009.5.6 鎌倉幕府ってどうしてできたの?

あまりにも鎌倉幕府のことを知らないので、”鎌倉幕府ってどうしてできたの?”を読んでみたら、なかなか面白かったです。封建時代の始まりだったわけですね。ヨーロッパの封建制度は形式上、各国の王がローマ皇帝に忠誠を誓う代わりに、ローマ皇帝が各国の王に領土を封じる、というような感じだったと思います。日本では天皇が封建政治を行わず領土を独占しようとしたが、農業の発達に伴って、これが時代に合わなくなったため、源頼朝が天皇に代わって封建政治を始めた、ということかもしれません。そう考えると、天皇はローマ皇帝というよりは、ローマ法王に近かったのかもしれません。”封建”という言葉で習った中世の政治制度は、農業の発達に伴う土地所有問題解決の仕組みだったようです。

農業が未発達の段階では、この山はうちの部族の縄張りだ、みたいな、おおざっぱなことでよかったのだと思います。

農業が発達すると土地所有権が生死を決するため、武力紛争が起こり、それを調停する封建制度が必要になったようです。この時点では、戦う地主(武士や騎士)と、農民が主な階層であり、国家という概念は庶民の生活上は重要ではなかったようです。

産業革命が起こると、農業を行うための土地よりも、工業を行うための、天然資源、生産技術、流通、市場、人的資源などが重要になり、封建政治は時代に合わなくなります。産業革命に対応するために、近代国家という概念が生まれたのだと思います。

しかし、封建制度と言っても、ヨーロッパ、中国、日本では相当に異なった制度だったようです。ちょっと調べてみたいと思います。


2009.5.5 鎌倉幕府の場所(2)

Wikipediaの「鎌倉時代」の項目を見ると、鎌倉幕府は頼朝の私的な機関として設立され、公的な機関ではなかったそうです。なので、自宅で執務をしていたようです。頼朝の自宅のことを、大蔵(大倉)幕府と呼び、今の清泉小学校のあたりにあったそうです。自宅なわけですから、事情で何度か引っ越しをしているようです。壊しても罰のあたらない自宅は壊され、罰のあたる神社仏閣は保存された、ということかもしれません。頼朝は、どうやら鎌倉を京都のような大都市にするつもりはなかったようです。まあ、鎌倉は敵の侵入を防ぐのには適していても、大都市を作るには狭すぎます。

幕府防衛のためだけに数十万人の武士を幕府周辺で養うのは非効率だと考えたのかもしれません。地方の武士は頼朝に忠誠を誓うことにより、土地所有を確実なものにし、普段は農業振興に励んだのでしょう。その代り、もし何か事が起こった時には、「いざ鎌倉」を合言葉に、頼朝の自宅に応援に駆けつけたのでしょう。鎌倉幕府の警備は手薄でも、「いざ鎌倉」に恐れをなして、誰も攻める気になれなかったのだと思います。


2009.5.4 鎌倉幕府の場所

碁盤の目のようにきれいに整備された平城京平安京の当時の地図はよく見かけますが、鎌倉幕府の建物が当時どこにあって、 道路がどのように走っていたかを示す地図を見たことがありません。簡単に見つかるだろうと思いネットで調べたのですが、 うまく見つかりません。大蔵幕府跡というのが見つかりましたが、 これがどこにあったのかははっきりしません。こちらを見ると、 「鎌倉幕府と一口に言っても、各時代(源氏〜北条氏)において、その場所は若干異なります。」と書いてあります。公家が中国を真似て作った都である平城京や平安京と、武士が作った城である鎌倉の違い、なのかもしれません。しかし、平安京より新しい時代の鎌倉幕府の様子が良く分からないのは、やはり気になります。


2009.5.3 MACRO-SWITAR 1.8/50

KERN-MACRO-SWITAR 1:1,8/50 AR No 733xxx Made in Switzerland for ALPA

静岡からMACRO-SWITARをお借りしました。ALPA用のレンズをEOSに改造してあります。電子接点付きなので、フォーカスエイドも使えます。


MACRO-SWITARというだけあって、ヘリコイドが長く伸びます。MACRO-SWITAR 50mmは大変人気のあるレンズですが、今まで一度も使ったことがなかたので、楽しみです。


2009.5.2 Ennalyt 1:1.9/50mm

ENNA Munchen Ennalyt 1:1.9/50mm 2058xxx

これも大阪でお借りしたゾッケルマウントのEnnalyt 1.9/50mmです。ゾッケルマウントは、M42マウントのヘリコイドとレンズヘッドを接続するための仕組みのことです。M42-EOSアダプタを使ってEOSで使うことができます。

下の方についているレバーが絞りです。ミラーが上がってピンが押されると絞りが閉じるのですが、次にミラーが下がっても絞りは開放されないようです。シャッターを押すたびにレバーを一旦開放まで戻して、再び希望する絞り値に設定する必要があるようです。半自動絞りですね。EOSで使う場合には普通絞りになりますが、一旦開放にしてしまうと絞りがロックされるので、レンズをはずしてピンを押さないと絞ることができません。まあ、私は絞り開放しか使わないので、全く問題にはなりません。


ゾッケルマウントを取り外したところ。まだ使っていませんが、いかにもよく写りそうな感じがします。


2009.5.1 PENTAC 2.9/5.5 inch

ずいぶん日誌を先行させておいたのですが、滋賀・京都・大阪方面に行っている間に日付に追いつかれてしまいました。5月の最初の日誌は大阪でお借りしたレンズの紹介です。

DALLMEYER PENTAC F/2.9 PATENT No 113xxx F=5 1/2"

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)ではPENTACについて次のように解説されています。

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1903年から第一次世界大戦が終わるまでこの形の設計は忘れられていた。1919年に、ダルメヤーが、ペンタック(Pentac)というダイナー型のレンズを発表した。ライオネル・B.ブース(Lionel B. Booth)の設計で、F2.9ときわめて明るく、像面は僅か内に曲がっているが、それ以外はすべて良好であった。
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オリジナルのヘリコイドにPENTAX 645のヘリコイド・チューブが追加されたダブル・ヘリコイドなので、接写に便利です。ハッセルマウント。


2009.4.30 Rietzschel Prolinearの作例

Rietzschel Prolinearの作例を探していたら、Large Format Photography ForumWide F***ing Open!というのがあって、その中で、

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Here's a shot done in a fairly dim bar late one night in Eastern Oregon. 'Last Call' Exposure: 1 sec. @ 1.9.
Camera: Speed Graphic
Lens: Rietzschel Pro Linear 135/1.9
Film: Kodak VC 160 rated @ 100 ASA.

Robb Scharetg
www.scharetgpictures.com
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と書いてありました。スピグラで使っておられるようです。右上のVisionのところのメニューからサンプル画像が見られます。どれも素晴らしい出来栄えの写真でした。残念ながら'Last Call' がどの写真か分からなないのですが、暗いバーでスピグラを使うためには、F1.9のこのレンズが役に立つだろうなぁと思います。


2009.4.29 Dallmeyer Serial Number list

Dallmeyerのシリアルナンバー表が掲載されていたサイトが閉鎖されてしまったため、別のサイトを探したところ、
http://members.ozemail.com.au/~msafier/photos/dall_ross.html
にありました。

このサイトhttp://www.antiquecameras.net/ はなかなか面白そうです。


2009.4.28 昔のレンズの番手

昨日に日誌で、昔は大きな写真を焼こうとすると、大きな乾板が必要で、それには焦点距離が長く、イメージサークルの大きなレンズ、つまり番手の大きなレンズが必要と書きました。”レンズの番手”は、ただ番手が大きくなれば焦点距離もイメージサークルも大きくなるというだけで、他に決まりはないと思っていました。なぜならば、レンズのカタログに番手と乾板サイズの対応表が必ずついているからです。しかしながら、もし番手の付け方に決まり、あるいは法則があると恥ずかしいので、念のため確認してみました。寺崎さんの”小西本店 六櫻社 鏡玉と暗箱”を見て下の表を作ってみました。

やっぱりバラバラで特に法則はないようですね。ただし、いくつかのグループがあるようです。

普通のレンズグループ
Goerz Celor, Goerz Dagor, Zeiss Series IV, Zeiss Planar Iaなどをグループを普通のレンズと名づけました。各シリーズあたりの焦点距離の品揃えが8種類ほどで、手札が0番か1番、四ツ切が6番か7番というパターンです。プラナーは11番から17番になっていますが、これは一桁の番手を均整式で使っているためです。

ツアイス標準グループ
Zeiss IIa, IIb, III, IIIa類などはカビネが4番か5番です。比較的小型カメラ向きのレンズ構成なのかもしれません。

人像用レンズ
ペッツバール型のポートレートレンズは画角が狭いため、番手の割りに焦点距離が長くなる傾向があります。

広角レンズ
Zeiss V類 F18は広角レンズなので、短い焦点距離で大きな乾板を写せます。乾板サイズに対する番手の対応は標準レンズグループとほとんど同じです。これらのレンズ使う限りにおいては、カビネなら2番、六ツ切なら6番と覚えておけば、包括角や焦点距離は気にしなくても良いと言えます。この方法の難点は、連続した番手が最初から使用されているため、メーカーが後で中間の焦点距離のレンズを追加発売する時に、番手が付けづらいことです。Tessar IIbではA5番 18cmなどの妙な番手が付けられています。


2009.4.27 アリゾナ大学のレンズ拝見(4)

今度はアリゾナ大学のDagorを見てみましょう。刻印は次の通り。

GOERZ DAGOR F:6.8 SERIES III No 6 FOCUS 12 IN No 314239

GOERZ DAGOR F:6.8 SERIES III
Series IIIとはすなわちDagor F6.8のことです。GoerzにはDaouble Anastigmatがいっぱいありましたので、最初Series IIIと呼んでいたのですが、1904年にDAGORと呼び名が変わってからも、SeriesIIIという名前を併記したのだと思います。良い機会ですので、Goerz のシリーズ名をまとめてみると、次のようになります。国立国会図書館近代デジタルライブラリーの”写真機械材料目録”(東京:浅沼商会,明40.9)を参考にしました。この資料は該当ページに直接リンクが張れるところが優れています。(普通に見ると、あまり見やすくありませんが)

Series C Extra Rapid Lynkeioscope F5 - 5.5 (2群4枚)
Series D Rapid Lynkeioscope (2群4枚)
Series E Rapid Wide-angle Lynkeioscope (2群4枚)
Series F Wide-angle Lynkeioscope F15 (2群4枚)
Series IB Celor F4.5 - 5.5 (4群4枚)
Series IC Celor F6.3 (4群4枚)
Series ID Syntor F6.8 (4群4枚)
Series IIA Satz Anastigmat F5.5 (2群10枚)
Series III Dagor F6.3 (2群6枚)
Series IV Dagor F11
Series V Alethar F11 (4群8枚)
Series X Hypergon F22
Series ?? Pantar F6.3 (2群8枚)

No 6 FOCUS 12 IN
No 6は焦点距離12インチ(30cm)で、六切り乾板に対応しています。六切りは8x10と同じことですね。”小西本店 六櫻社 鏡玉と暗箱”のDagorの項目を見るのが分かりやすいです。昔は(ライカ以前は)良い引き伸ばし機がなかったので、密着プリントですから、大きな写真を撮影するには長焦点の、すなわち番手の大きなレンズが必要だったのだと思います。

No 314239
シリアルナンバー表を見ると、1913年頃のものだと思われます。第一次世界大戦開戦の前年であります。


2009.4.26 アリゾナ大学のレンズ拝見(3)

アリゾナ大学にCooke Series IVが出ていますので、これも見てみましょう。刻印は次の通り。

TAYLOR TAYLOR & HONSON LTD Leicester & London No 94748
COOKE ANASTIGMAT LENS 16inch Series IV f/5.6

TAYLOR TAYLOR & HONSON LTD
LTDと書いてあるので、株式会社化されたようです。

Leicester & London
ENGLANDとも書いていないし、特許番号も書いていないので、イギリス国内用かもしれませんね。あるいはCookeのレンズは既に有名なので、そんなことを書く必要がなくなったのかもしれません。

No 94748
シリアルナンバー表から1922年頃のものだと推測できます。ベルサイユ条約が1919年ですから第一次世界大戦の直後に作られたと言えます。

COOKE ANASTIGMAT LENS 16inch Series IV f/5.6
Series IVにはF5.6とF8があったようですが、これはF5.6。レンズの前面に刻印されているので、かなり近代的な印象を受けます。

イギリスは第一次世界大戦に勝利したものの、植民地支配は怪しくなってきており、大英帝国は本格的に滅亡への道を歩みだしています。 1919年4月に北インドのアムリトサルで起こった 「アムリトサル虐殺」はインド人の心を刺激し、大英帝国からの完全独立をめざす運動のきっかけとなります。イギリスが第一次世界大戦に勝てたのは、インドのおかげ、と考えられるので、インド人の怒りは当然です。”大英帝国滅亡史”(中西輝政著、PHP文庫)から引用します。

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第一次大戦でのイギリスの出征軍人は390万を数えたが、これに対してインドは150万を動員し、そのうちじつに110万のインド人兵士を海外の戦場に送りだした。しかもこれらは、すべてインドの自前の出費(つまりイギリス植民地政府へのインド人からの徴税収入)によって負担されたのである。インドのこの犠牲なくして、大戦でのイギリスの勝利はありえなかった。
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2009.4.25 アリゾナ大学のレンズ拝見(2)

アリゾナ大学にもうひとつCooke Series IIIが出ていますので、こちらも見てみましょう。刻印は次の通り。

TAYLOR TAYLOR & HONSON Leicester & London ENG. No 2012
COOKE KENS H.D. Taylor's Patents Series III
4 3/4 x 6 1/2 EQ. FOCUS 7.35IN
SOLD BY MAXLEVY PHILADELPHIA PA
U.S.A. PATENTS
540122 MAY 28 1895
568052 SEPT 22 1896

TAYLOR TAYLOR & HONSON Leicester & London ENG. No 2012
社名は昨日のレンズと同じ。ENG.と書いてあるので輸出用とだと思います。まあ、ロンドンがイギリスにあると知らない人はいないでしょけど。No 2012は昨日のより古いですね。シリアルナンバー表から多分1897年か1898年頃の製造だと思われます。

COOKE KENS H.D. Taylor's Patents Series III 4 3/4 x 6 1/2 EQ. FOCUS 7.35IN
昨日のものと同じ書き方です。少し焦点距離が長いので、少し大きな乾板(4.75inch x 6.5inch すなわち 12cm x 16.5cm)で使えるようです。あれー、昨日のレンズには5x4inchesと書いたあったので、長辺が先に来る決まりかと思ったのですが、そうでもないようです。

SOLD BY MAXLEVY PHILADELPHIA PA
アメリカのフィラデルフィアのMAXLEVY社が輸入販売したようです。

U.S.A. PATENTS
540122 MAY 28 1895
568052 SEPT 22 1896
アメリカ輸出用なので、アメリカの特許番号が刻印されているのだと思います。当時のコダックのカメラを見ると、特許番号がびっしりと刻印されており、既に特許が重要な企業戦略だったことがうかがわれます。

1900年の時点では、南北戦争が終わってからわずか30年ほどしかたっていないにもかかわらず、アメリカ合衆国は既に強大な国家になっていたようです。”アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書”(ジェームズ・M・バーダマン著、村田薫編、ジャパンブック)から引用します。

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1900年には少数の強力なトラストが、銅、砂糖、ゴム、皮、農機具、電話といったアメリカの主要な産業を牛耳っていました。カーネギー、ロックフェラー、モーガンや、何人かの資本家たちは信じられないほどの金持ちになりました。
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2009.4.24 アリゾナ大学のレンズ拝見(1)

ネットでCooke Tripretを検索していたらアリゾナ大学のCollege of Optical Scienceが古いレンズをいくつか公開しているのを見つけました。刻印がはっきりと読み取れますので、ちょっと鑑定のまねごとをしてみたいと思います。

まず一個目は、Cooke Lens Series IIIを見てみましょう。写真から読み取れる刻印は次の通り。

TAYLOR TAYLOR & HOBSON Leicester & London No 4388
COOKE LENS H.D. Taylor's Patent Series III 5 x 4 inches Eq. Focus 6.1inches

この刻印の意味を少し調べてみました。

TAYLOR TAYLOR & HOBSON Leicester & London
Taylor Hobson社のWebに同社の歴史が出ています。それによりますと、1886年にWilliam TaylorとThoas Smithies Taylor兄弟がレンズ会社を始めたそうです。翌年、W.S.H Hobson氏が営業として参加し、TAYLOR TAYLOR & HOBSON という社名になったようです。Leicesterの場所を調べてみると、ロンドンの北200kmほどのところにありました。

COOKE LENS H.D. Taylor's Patent Series III
1893年にTaylor兄弟とは関係のないCooke社のH. Dennis Taylor氏がトリプレットを設計し、TAYLOR TAYLOR & HOBSON社に製造を依頼します。Series IIIはF6.5で少し暗いので、多分広角のものだと思われます。したがって1895年のH.D. Taylorのアメリカ特許568,052に相当すると思われます。

5 x 4 inches Eq. Focus 6.1inches
日本では4x5(しのご)と言いますが、イギリスでは5x4と言うそうです。焦点距離6.1inchで4x5カバーですから、特に広角というわけではなく、標準レンズですね。

No 4388
TAYLOR TAYLOR & HOBSON社のシリアルナンバー表はこれしか見たことがありません。これが正しいとすると、1899年か1900年の製造だと思われます。Series III F6.5は早い時期から製造されていたようです。


2009.4.23 Kino Plasmat 2/75mm

あのKino Plasmat 2/75mmが売れたようです。幸い知り合いが買ったようですので、そのうち貸してもらえるかもしれません。サンプル画像を見せてもらいましたが、Kino Plasmatらしくてなかなか良い写りです。そして、さらに、Kino Plasmat 2/42mmのサンプルもありました。早速、Kino Plasmat全焦点距離作例リンク集にリンクさせてもらいました。だいぶリンクが埋まってきました。


2009.4.22 魚偏の漢字

魚偏の漢字は多くが日本で作られたもののようです。なぜ中国から文字が輸入されなかったのか不思議だったのですが、やっと理由が分かりました。中国では魚を詳しく分類する習慣がないのだそうです。魚を細かく分類する日本人は、自分で漢字を作るしかなかったのだそうです。”日本語と中国語”(劉徳有著、講談社)から引用させて頂きます。漢字が機種依存文字で、うまく表示されないので、Web掲載の都合で2文字に分けさせて頂きましたが、原文では一文字です。

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日本の寿司屋に入ると、数十種類の魚偏の漢字が書かれているメニューをよく見かけるが、この中には中国人が見たこともない漢字がたくさん含まれている。'魚若'(わかさぎ)、'魚休'(ごり)、'魚冬'(このしろ)などがそうで、いずれも中国の辞書にはない日本製の漢字なのである。
 ここまで細かく魚を分類するのは日本人ならではであろう。
 前述したように中国人は沿海地方に住む人たちを含めて、魚の正式名称をあまり知らないし、とくに知りたいとも思っていない。したがって、魚の呼び名も、その魚が黒色をしていれば「黒魚」、顔の形が馬の顔に似ていれば「馬面魚」、グチ(いちもち)は黄色なので「黄魚」もしくは「黄花魚」といった具合に、もっぱら俗称で呼んでいるし、それで十分でもある。
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2009.4.21 1LDK

”日本語と中国語”(劉徳有著、講談社)から面白かったところを少し引用させて頂きます。

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アパートの間取りには2LDKと1LDKがあり、案内されたのは2LDKだった。管理人は親切に、「この部屋は『ニー・エル・ディー・ケー』といって、寝室に応接間がついています。」と教えてくれた。私は備え付けの説明書に1LDKと書いてあるのを見つけたので、「このイチ・エル・ディー・ケーは?」 と訊ねてみた。すると管理人はニッコリとして、「それは、イチ・エル・ディー・ケーではなく、ワン・エル・ディー・ケーです」 と私の質問を訂正してくれたものだ。同じ「LDK」でも「2,3,4」は「に、さん、よん」と読んで、「1」は「ワン」と読む。日本語は何と摩訶不思議な言葉か、と思うのはこんなときである。

ゴルフのスコアも、1アンダー=ワンアンダー・・・・・・テンアンダー、と数えて11からは、じゅういちアンダーと言うし、オーバーのほうもワンオーバーなのに二桁からは、じゅういちオーバーと言う。日本人は案外このことに気付いていないらしく、ある日本の友人が「外国人に指摘されてみればなんかヘンですね。おもわず吹き出してしまう」 と言っていた。
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2009.4.20 倶楽部

”日本語と中国語”(劉徳有著、講談社)を読んでいたら次のような記載がありましたので、引用します。この本は面白く、また読みやすいので、なかなかおすすめです。

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”いまなお、中国で生き残っている日本製音訳語といえば、倶楽部(クラブ)、混凝土(コンクリート)、淋巴(リンパ)あたりだろうか。ただし、「倶楽部」、「混凝土」の訳はたいへんな傑作で、いまも使われているのは当然に思える。「倶楽部」は字面を見ただけで、みんなが楽しく遊ぶところだとわかる仕組みになっているし、「混凝土」は、「混(こん)」 「凝り(こり)」 「土(と)」の三字を巧みに組み合わせてコンクリートの音に近づけ、セメント、砂、砂利、水の混合物を凝縮した強力な建築材料であることを見事に示しているからだ。もっとも、いまでは、この言葉を作った日本人の大半が「混凝土」をどう読むかわからないのが現状だろう。”
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2009.4.19 簿記 != bookkeeping ?

Webで調べると、”簿記”はbookkeepingの音訳ではない、とする説もあるようです。他に、”画廊”はgalleryの音訳ではない、という話も出ています。これはなかなか面白そうなテーマなので、機会があれば研究してみたいと思います。


2009.4.18 簿記=bookkeeping

中国語では外来語に対して、発音の良く似た漢字をあてて”音訳”をします。たとえば、可口可楽(Kekoukele,コカコーラ)が有名な成功事例です。現代日本では発音をそのままカタカナで表記しますので、”音訳”の例はあまり思いつきません。電話とか憲法とか、明治時代に意訳された言葉が多く、これらは外来語というよりは日本で作られた言葉、すなわち日本語だと言えます。”簿記”も日本語だと思っていたのですが、何とこれはbookkeepingの音訳らしいのです。注意して探せば他にも”音訳”された言葉が見つかるかもしれません。


2009.4.17 英単語: 怒る、激怒する(2)

怒る、激怒する関連の英単語の追加です。

wrath (激怒、復讐)
pent-up fury (うっぷん)


2009.4.16 英単語: 暴動、反乱(2)

暴動、反乱のような意味の英単語の追加です。Bookshelfの和英辞典では全部の単語が出てこない(というか、和英辞典で同義語をたくさん出す意味がない)ので、検索が難しいので見つけたら書き留めておきますが、とても覚えきれません。しかし、TOEICや英検などの試験には、これらの英単語が時々出るようです。

insurgence 反乱
insurrection 暴動、反乱


2009.4.15 Microsoft IMEはやっぱりダメ

頻繁に激しいディスクアクセスが起こり他のアプリケーションがしばらく応答しなくなる件、Microsoft Office IME 2007が原因ではないかと思い、元のMicrosoft IMEに戻してみたのですが、やっぱりMicrosoft IMEは全く使えません。MS Word 2007でしばらく日本語入力をすると、Microsoft IMEからの応答がなくなり、MS Word 2007が固まってしまうので、強制終了するしかなく、打ち込んだデータが失われます。なので、Microsoft Office IME 2007を使うしかなく、原因追究は無理だと判明しました。Microsoft IMEのユーザー辞書が破損しているのかと思い消去しましたが、関係ないようです。


2009.4.14 Cooke Triplet Series情報(用途別)

Taylor-Hobson Cooke Lenses Catalog 1930's20ページを見ると、用途別のシリーズ表が出ているではありませんか。最初からこれを見ればよかったのですね。でもこのカタログにはすでにSeries I f/3.1は出ていませんので、短命に終わったようですね。Series O(Opic)とSeries X(Speedic)に置き換えられてしまったのかもしれません。Series I f/3.1を探したいと思います。情報がありましたら、是非教えて下さい。


2009.4.13 Cooke Triplet Series情報(2)

Camera EccentricTaylor-Hobson Cooke Lenses Catalog 1920'sTaylor-Hobson Cooke Lenses Catalog 1930's を見ると、さらに詳しい情報が出ていました。Series Iはf/3.1の高速レンズだったようです。これは初めて知りました。もう一度まとめなおしてみました。

Series I f/3.1 for motion pictures 1+5/8 - 5in(40-127mm)
Series I f/3.1 for extra rapid artistic Portrature 8.25-12.5in
Series II f/4.5 Aviar 3.75-13.5in
Series II f/4.5 1897-1930 for Rapid Group Work 10.5-18in
Series IIA f/3.5 1909-1929 for extra rapid work 3.5-7.5in
Series IIA f/3.5 1909-1929 PORTRIC with diffusing device 9.5-15in
Series IIB f/4.5 1926-???? PORTRELLIC with diffusing device 10.5-18in
Series IIC f/4.5 1930-???? PORTRELLIC home portrait type 10.5-15in
Series IID f/4.5 1930-1956
Series IID f/3.5 1935-???? Portric
Series IIE f/4.5 1935-???? Portrellic
Series III f/6.5 for General Photography 3.5-8.5in
Series IV f/5.6 and f/8 for Commercial Photography 5-18in
Series IV f/5.6 and f/8 PORTRONIC with diffusing device 13-18in
Series V, f/8 1899-1925 process lens 11-25in
Series VB, f/8, f/10, f/16 process lens 9-48in
Series VI f/5.6 ??-1921-??
Series VIA f/5.6 1934-????
Series VIIA f/6.5 1909-1923 Primoplane, Wide Angle, 3-8in
Series VIIB f/6.5 1924-1956 ANGLIC 2.5-8.75in
Series VIII f/5.6 TELIC 8.5-20in
Series VIIIb f/3.5 ELTIC 8-10.5in
Series IX, f/10, f/12, f/16, Apochromatic process lens 13-48in
Series X f/2.5 Speedic 5.25-9.25in
Series XV f/6.8 Triple Convertible 1940s, designed in 1931
Series O f/2 Opic 1+3/8 - 5.5in
Telephoto f/5.8 8.5-20in
Projection Lens f/1.8 - f/2.5 5-7in

一応シリーズ1から10まで全部あったようです。几帳面ですね。Series I, II, IIAに2種類あるのですが、たぶん長焦点のものはソフトフォーカス調整機能付きのポートレートレンズだと思います。それと、f/1.8のプロジェクションレンズが気になりますねぇ。


2009.4.12 Cooke Triplet Series情報

Cook TripletのSeriesについてWebで調べたところ、http://www.f32.netCooke Lensesという項目があり、 少し情報を得ることができました。残念ながらシリアルナンバーまでは分からないのですが、かなり前進しました。

Cooke Series II f/4.5 1897-1930 "Cooke Portrait Lens Ser II.", focal=13", 10.5", 15", 18"
Cooke Series IIA f/3.5 1909-1929 focal=9.5", 10.5", 12.5", 15"
Cooke Series IIB f/4.5 1926-???? focal=10.5", 12.5", 15"
Cooke Series IIC, f/4.5 1930-???? focal=10.5", 12.75", 15"
Cooke Series IID, f/4.5 1930-1956 focal=10.5", 12.75", 15", 18", 20"
Portric Series IID f/3.5 1935-???? focal=10.5", 12.5", 15"
Portrellic Series IIE f/4.5 1935-???? focal=10.5", 12.75", 15", 18"
Cooke Series V, f/8 1899-1925 focal=9", 11", 12", 16", 18", 25"
Cooke Series VA, f/10, f/16 early 1920s, focal=25"-48"
Cooke Series VB, f/8, f/10, f/16 1924 -1952 focal=9"-36"
Cooke Series VI f/5.6 ??-1921-?? focal=13", 16", 18"
Portronic Series VIA f/5.6 1934-???? focal=13”, 15.5", 18",
Primoplane Series VIIA, f/6.5 1909-1923
Cooke Series VIIB, f/6.5 1924-1956, focal=2.5", 3.25", 4.25", 5.25", 8"
Cooke Series IX, f/10, f/12, f/16, Apochromatic process lens, 1924-1952, focal=12"-48"
Cooke Series XV Triple Convertible f/6.8 1940s, designed in 1931focal=12.25"-26.5"

シリーズ番号と製造年代はあまり関連していないようです。初期のものがf/4.5で後期のものがf/3.5だと聞いていたのですが、別にそういうわけでもないようです。Series II以前のトリプレットにはSiries名はついていないようですので、もし見つかれば貴重だと思われます。製造番号が5桁のトリプレットは要注意ですね。うちにあるSeries IIAとVは割と古いようです。このWebは大判レンズがテーマのようですので、焦点距離の短いレンズは記載されていませんが、ほとんどがポートレートレンズかプロセスレンズですので、一般に焦点距離が長いようです。


2009.4.11 広角の歪みが目立たない配置


このようにレンズを配置すると斜め上から撮影しても広角の歪みが目立たないように思います。ただ、ピントが合わせにくい、高さの違いが分かりにくい、左上と右下の余白が無駄、などの欠点があります。やっぱり、多少ゆがんでいても、分かりやすい方がいいですね、記録写真の場合には。


2009.4.10 Cooke Series IIA 3.5/6.25inch 再改造

ずーとSeries 11(十一)Aだと思っていたのですが、良く見るとAeries II(二)Aのようです。良く考えると、このレンズの製造番号は10万番台なわけですから、うちにある26万番台のSeries Vより前であることは明らかです。Series IIとVの間にSeries X(Speedic)とO(Opic)が作られていますが、これらはトリプレットではないので別系統だと考えなければいけません。

このレンズは大変よくできておりまして、後年作られた他のトリプレットよりシャープです。すぐ使えるようにブロニカのヘリコイド対応の改造をしました。Cookeの古いトリプレットを集めるというのは良い趣味のような気がします。地味ではありますが。


2009.4.9 ロチェスターの光学関連の会社の歴史

ニューヨーク州ロチェスターは、コダック、ボシュロム、ウォーレンサックなど、アメリカの大手光学機器メーカーが集まっていることで知られています。別件で調べ物をしていたら、当事者とも言えるルドルフ・キングズレーク氏がいた、A History of The Rochester, NY Camera and Lens Companies という資料が見つかりました。中将姫光学さんのブログの記事に出ていたので、気になってちょっと読んでみました。なかなか面白いです。キングズレーク氏の英語は非常に読みやすいです。翻訳して掲載するほどでもないので、興味のある方は自分で読んでみてください。


2009.4.8 ICA Periskop Alpha 再改造

ICA Periskop Alphaはその名の通りペリスコープ、すなわちメニスカスの単レンズ2枚で構成される簡単なレンズです。1:11と刻印されていますが、F6.3くらいまで絞りを開けることができます。F11以下では非常にソフトです。本来これは規格外の使い方なのですが、美しいソフト効果が得られます。桜の撮影に使えないかなぁと思い、再改造してみました。

1920年(大正9年頃)の製造だと思います。ICAは1909年にZeissのカメラ部門であるパルモスなど4社が合併して発足し、1926年にErnamenn, Goerz, Contessa-Nettelと合併してZeiss IKONになります。ですから、IKA社の後期の普及用レンズと言えます。1920年(大正9年)をいうのはベルサイユ条約が批准された年ですので、これからドイツが巨額の賠償金を支払うため、レンズおよびカメラの輸出に力を入れざるをえなかったのだと思います。この頃の世界史とドイツ写真工業史を細かく結び付けられれば面白いなぁと思うのですが、なかなか難しいですね。

今日では先に光学系を設計して、後で専用の筒を作って入れるのですが、当時は市販されている標準的なシャッター(つまり安い)に合わせてレンズを作っていたのだと思われます。少なくとも普及型のカメラでは。この標準的なPRONTOシャッターには直径22mmくらいの絞りがついており、レンズの焦点距離によってF値表示板を貼りつけます。135mmのレンズだとF6.3に相当します。このレンズはF11ですので、F11から始まる専用のF値表示板を貼り付けて、F11以上絞りを開けられないようにストッパーを取り付けるのが普通だと思いますが、そんなことをすると経費がかかってしまうので、何もしなかったようです。ただ前玉の枠に1:11と書いただけです。

F11より絞りを開けるとソフトな描写になります。これはベス単のフードはずしと全く同じことです。当時はレンズが単純な構造だったのでこのようなことができたのですが、現代の複雑なレンズでは無理ですね。でも、カタログスペックではF4.0のシャープなレンズだが、一本ネジを抜くとF2.0のソフトレンズになる、なんてレンズが一本ぐらい存在してもいいような気もします。


2009.4.7 K.P. GOERZ PLANAR再改造

この冗談みたいな名前のK.P. GOERZ PLANARは、初心者の頃、大変な掘り出し物だと思って買ったものです。1918年(大正7年)頃に、2群3枚の安物のレンズにでたらめな刻印をしたものと思われます。なぜこのような刻印にしたかは分かりませんが、多分C.P. GOERZよりK.P. GOERZの方がドイツっぽいよねとか、TESSARだとバレバレなのであまり有名でないPLANARにしようよ、とかの理由だと思います。この時期はプラナーはほとんど忘れられている時期で、ツアイスからはわずかな本数しか出荷されていないはずです。

だいたい、プラナーのような全長が長いレンズは薄っぺらい折りたたみ式のカメラには入れることができません。もし入ったとしても、カメラの精度が低いので、プラナーの性能を生かすことは難しいでしょう。この刻印をした人は、たぶんプラナーが戦後に大ブランドになることなど想像できなかったのではないかと思います。


2009.4.6 Elmar 4.5/10.5cm再改造

長らくお蔵入りしていたナゲールのエルマーを再改造してみました。1932年(昭和7年)ごろのレンズなのですが、別にこれといった特徴はなく、平凡なのテッサー型のレンズです。

古いレンズを買いはじめたばかりの頃、ライツのエルマーでシリアルナンバー表にのっていないくらい古いものなので、きっと貴重なレンズに違いないと勘違いしていました。無理して高いのを買ったのですが、後で相場を知ってがっかりしたのでした。まあ授業料ですね。幸いにもこの後他あまり高い授業料を払うことはなかったので、元は取れているのかもしれません。あまり他に作例を見る機会もないレンズですので、少しは使おうと思います。


2009.4.5 Microsoft IME

Windows Vista Home PremiumのMicrosoft IMEがしばしば応答しなくなり、アプリケーションを強制終了するしかないという現象が以前出ていました。当然データは失われますので、私のパソコンでは日本語入力不可となりました。これでは困るので、やむをえず、Microsoft Office IME 2007を使ってました。しかし、Microsoft Office IME 2007はとても使いにくいです。時々パソコンがビジーになり、数十秒間一切の入力を受け付けなくなる現象が出ているのですが(バスが占有されている感じです)、原因が分からないので、Microsoft Office IME 2007を疑ってみることにしました。ということで、またMicrosoft IMEに戻しました。うまくいくといいのですが。


2009.4.4 英単語: 暴動、反乱

英語には暴動、反乱のような意味の単語がいっぱいあるような気がして調べてみました。日本語では、暴動、反乱、革命、一揆、反逆、騒動、蜂起のような言葉です。

riot(暴動、一揆)
uprising(反乱、暴動、蜂起)
disturbance(騒ぎ、騒動)
rebellion(不成功に終わった謀反)
rebel(反乱を起こす)
revolution(成功した革命または思想・社会の変革)
revolt(権力者・政府などに対する比較的小規模な反乱、暴動)
treason(反逆罪)
traitor(反逆者)
treachery(背信行為、反逆)
rise in arms(武装蜂起する)

あれ、そんなに多くないですね。活用系をひとつとみなせば、日本語と同じくらいの数です。大英帝国では植民地において常に暴動や反乱に悩まされたので、この種の単語が多くなった、という仮説を立てたかったのですが、無理のようです。


2009.4.3 英単語: 怒る、激怒する

英語の辞書を引くと、怒る、あるいは激怒にあたる単語がたくさんあることに驚きます。日本語では、怒(オコ)る、怒(イカ)る、激怒、憤慨、憤怒、憤激、憤る、腹を立てる、立腹するといった言葉に相当します。あれ、日本語には少ない言葉だと思っていたのですが、結構たくさんありますね。Microsoft Bookshelf Basicで調べて書き出してみますと、

get angry(腹を立てる)
get offended(腹を立てる)
take offense(腹を立てる)
lose one's temper(腹を立てる)
get mad(腹を立てる)
rage(激怒、猛威)
enrage(激怒させる)
fury(憤激、狂暴)
infuriate(激怒させる)
furor(激怒、興奮)
provoke(刺激して怒らせる)
indignation(憤り、憤慨)
resent(腹を立てる)
brow one's top(こらえ切れずに怒りを爆発させる)

そうか、”〜させる”という単語が別にあるので多く見えるだけかもしれません。


2009.4.2 旅の数学者

江戸時代には”旅の数学者”が数学の普及に貢献したそうです。大阪に大島喜侍という商人がいました。最初は商売にj必要な実用数学を学んでいたのですが、そのうちに数学が好きになってしまいました。”江戸庶民の数学”(佐藤健一著、東洋書店)から引用させて頂きます。

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大島が、これら超一流の数学者に支払った授業料は高額であったろうと推測できる。数学にばかり熱中し、ほとんど商売に目を向けなかったらしく、店はつぶれてしまった。正徳のころ(1711-1716)には、妻子を失い、自分には財産が何もなくなってしまった。大島は、何もなくなった自分に気付くと、身軽になった気がした。多くの数学者から得た数学だけが、自分に残された財産になった。彼はこれを財産として意識していたことは確かである。それは、自分が有名な数学者に教えを受けたという誇りを常に持っていたことからも明らかであろう。数学だけが財産になった大島は、数学を教えて歩く旅に出た。
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2009.4.1 遺題による数学の発達

吉田光由は江戸時代初期の数学者で、寛永四年(1627年)に「塵劫記」という数学書を刊行しました。この本は大変な人気になるのですが、その理由は分かりやすく書かれた算盤教本の部分にあったそうです。「塵劫記」の海賊版が多数でまわったので、吉田はたびたび改版を重ね、色刷りにまでして本物の「吉田の塵劫記」をアピールしたようです。塵劫記を使って算法を教える人も多数出現し、一般に普及していきます。

吉田のライバルである今村知商が寛永18年(1641年)に「堅亥録」という数学書を発刊すると、これにショックを受けた吉田が「塵劫記」を全面的に見直し、「新編塵劫記」を刊行します。「新編塵劫記」の特徴は、巻末に12題の回答のない問題(遺題)を掲載し、世間の数学者に、解けるもんなら解いてみろと挑発したことです。これは他の数学者にとっては大変なことです。力量が知れてしまうからで。遺題に対する解答を発表する人は、なかなか現れませんでした。12年後の1653年になってやっと、榎並和澄が「参両録」の中で解答を発表します。榎並は吉田の遺題の真意がつかめないまま、吉田のまねをして「参両録」に8題の遺題を載せます。これをきっかけにして、次々に遺題を解き、新たな遺題を載せることが流行します。このお話は”江戸庶民の数学”(佐藤健一著、東洋書店)からの受け売りです。同書から引用させて頂きます。

「このように遺題継承の風習は、わが国の数学を発達させるもとになったし、すでに解かれている遺題も練習問題として利用されていた。」


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