EOS10D日記その30

---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2009.3.38 Canon DPPの謎

私はCanon DPP(Digital Photo Professional)が大嫌いで、どうしても必要な時以外は使いません。特にDPP 2.0はWindows Vista Home Premiumにインストールする時問題が発生しました。インストールをやり直しても、クイックチェックツールなどのツールを動かそうとするとクラッシュしてしまいました。新藤さんのHPを見ていたらDPPの設定の話が出ていたので、試しにDPP 3.5.2をインストールしたところ、ちゃんとインストールできるではありませんか。ひょっとしたら私のDPP嫌いは過去のものとなるかもしれません。これは期待が持てるぞと思いながらサムネイルを開くとヒストグラムの表示が何か変です。


たとえば、この2枚の写真。上の写真はEOS 5Dの標準のピクチャースタイルである”スタンダード”で、絞り優先AEで露出補正なしで撮影したものです。こんな小さなサムネイルを見ても、赤が色飽和して、黄色が変になっているのが分かります。つまり標準のピクチャースタイルではAEで黄色い車を撮影してはいけないということです。しかしながら、ヒストグラムはハイライトにかなり余裕があるように見えます。これがDPPの謎です。まあ、黄色い車が色飽和していても実害はないのですが、我々黄色人種の顔はこの黄色いクレーン車の色に結構似ているのです。私の経験では人の顔でも赤が色飽和しやすい傾向にあります。これは大問題。キヤノンのデジカメを使いだしてから、このことに気付くまでに約一年かかりました。まあ、分かってしまえば対策は簡単です。単純にコントラストを下げれば良いのです。下の写真ではコントラストを最低の"-4"まで下げています。これで赤の色飽和は解消されます。もちろん人の顔色もうんと良くなります。めでたしめでたし。


これが黄色い車をAEで撮ると色飽和する”スタンダード”のピクチャースタイル。他のピクチャースタイルであれば黄色いクレーン車がちゃんと撮れるかというと、残念ながら撮れません。”ポートレート”も、”風景”も、“ニュートラル”も、”忠実設定”も、すべて同じコントラスト”0”が設定されています。もちろん、コントラストを下げる設定をすればOKです。黄色い車も人の顔もちゃんと撮れます。キヤノンの出荷時の設定はおかしいと5年間ほど思っていたのですが、ちょっと前に日誌にも書きましたが、最近やっと理由が分かりました。標準のピクチャースタイルとは、購入後写真を撮るためのものではなく、カメラ屋さんの店内で買ってもらうための設定なのです。顔色良く写るようにコントラストを低く設定すると、お店で試写したお客さんは、”キヤノンはきれいに写らないわねぇ”と言って、ニコンのデジカメを買ってしまうのです。つまりデモモードあるいは販売モードに設定されているわけですから、購入後、すみやかに撮影モードに変える、すなわちコントラストを下げる設定を行う必要があるわけです。これが分かるのに何と5年もかかったわけです。


これが、私がいつも使っているパラメータです。コントラストを最低の"-4"にすると、色が出なくなるので、少し色の濃さを上げています。多分、キヤノンの技術者はこれに近いパラメータを設定して試作機を販売部門に見せたところ、”あんた、これじゃ売れないよ”と言われて、泣く泣く”売れるけど撮影には使えない”パラメータに変えたのではないかと思います。もちろん、実際聞いたわけではないので、あくまでも私の憶測ですが、こう考えればキヤノンが嫌いではなくなります。


ところで、DPPの謎ですが、やっと解けました。ツールパレットを開くと、サムネイルとは別のRGBのヒストグラムが表示されるのですが、こちらでは赤が飽和していると正しく表示されます。緑は飽和していません。そうです、サムネイルでは緑のヒストグラムだけが表示されていたのです。私はてっきりRGBの合計のヒストグラムだと思い込んでいたのですが、緑だけだったのです。つまり、サムネイルのヒストグラムに頼ってはいけないということです。これで、すっきりしました。カメラで再生するとRGB別々にヒストグラムがでるのだから、パソコン上でもきっとそうなっているはずだ、という思い込みが招いた誤解だったようです。


下の写真はコントラストを下げていますので、AEで撮影しても赤は飽和しておらず、従って、黄色い車も、人の顔もきれいに写ります。


2009.3.37 ROSS XPRES 1.9/50mm(M8)と75mm(5D)の比較

中将姫光学さんのROSS XPRES 1.9/50mm + Leica M8と、私のROSS XPRES 1.9/75mm + Canon EOS 5Dを比較する企画がやっと実現しました。横浜のイタリヤ山で、2台のカメラを同じISO=160, F=1.9(開放), 1/8000sに設定して、せーの、でシャッターを押します。そしてカメラの液晶を覗き込んでみると、あれま、明らかに違います。下の写真は比較する企画と同じものですが、リンク切れを防ぐためコピーしてあります。


--- M8+50mm F1.9 1/8000s --- M8+50mm F1.9 1/4000s --- 5D+75mm F1.9 1/8000s ---

--- M8+50mm F1.9 1/8000s --- M8+50mm F1.9 1/4000s --- 5D+75mm F1.9 1/8000s ---

ISO感度、絞り、シャッター速度が同じなのになぜ明るさが違うのか、さっぱり分かりません。とりあえず、M8のシャッタースピードを一段遅くして1/4000sにすると、だいたい同じ明るさに写ります。現場ではカメラの液晶表示の違いかと思ったのですが、パソコンで見てもやっぱり一絞り違います。レンズが違うのか、カメラが違うのか、現像パラメータが違うのか、さっぱり分かりません。同時にシャッターを押しているので、天候は同じです。次回はM8にも5Dにも使えるレンズを一本準備した方がよさそうですね。

ホワイトバランスや現像パラメータは合わせていないので色はかなり違います。特にEOS 5Dの現像パラメータはコントラストを最低に設定してありますので、コントラストを高く設定したキヤノン標準のパラメータとは大きく異なります。

まあ、両レンズの全体的な雰囲気は良く似ており、同じ設計であることは間違いないと思います。


--- M8+50mm F1.9 1/2000s --- 5D+75mm F1.9 1/4000s ---

--- M8+50mm F1.9 1/2000s --- 5D+75mm F1.9 1/4000s ---

ぼけのテストです。後ろの建物のボケがかなり違います。50mmと75mmの違いは案外大きいようです。色は全然違いますが、これは現像パラメータで合わせられる範囲だと思います。多分コントラストを合わせれば、似た雰囲気になると思います。EOS 5Dは色飽和を恐れて、コントラストを最低に設定しています。これをキヤノンの標準の”風景”とかに設定すれば、それだけでM8に近くなると思います。同じレンズを使って2台のカメラを両方RAWで撮影し、パソコンでパラメータを変えてみればすぐ分かることだと思います。本当の色がどんな色だったかは全く覚えていません。一番覚えにくい色の花を選んでしまったのかもしれません。


2009.3.36 F値の計算

昨日に日誌を書いてから、やっぱりWikipediaに書いてあるF値の式、N = f/Dの方が正しいのではないかと思い、手元にある他の本を調べてみました。

”写真レンズの基礎と発展” (小倉敏布著、朝日ソノラマ)から引用
Fナンバー=焦点距離/有効口径= f/D

”写真レンズの科学” (吉田正太郎著、地人書館)から引用
”入射瞳の直径のことを有効径といいます。また、有効径と焦点距離の比は口径比といって、写真レンズ(でできる像)の明るさを示す大切な数字です。口径比は1:3とか1:4というように書くのが正式です。この3とか4という数字のことをF数といいます。(中略)JIS規格では、F数は公称値との差を5%まで認めています。”

"OPTICS" Nineth Edition, Arthur Cox から引用
But for normal everyday photography the only useful measure of the light going through the lens, of the brightness of the image it produces, is the ratio of the focal length of the lens to its diameter, its f/number.

”写真レンズの歴史” (ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用
”F値と開口数との関係式は次の通りである。 N = 1/(2N.A.) = 1/(2sinU')”

ということは、キングズレーク以外は全部Wikipediaと同じということのようです。JIS規格もどうやらこちらの計算のようです。5%ずれていてもOKというのは面白いですね。F2.0のレンズをF1.9と名乗ってもOKですし、F1.0のレンズをF0.95と名乗ってもOKのようです。

まあ、冷静に考えてみれば、焦点距離は後方主点からフィルム面までの距離なのに対し、有効口径は昔の標準レンズの場合はほぼ前玉の直径(現在のレンズの有効口径がどの位置にあるのか分かりません)であり、後方主点におけるレンズの直径ではありません。全然違う場所の比率を取るわけですから、実際には角度ではありません。理論的にはキングズレーク氏の式なのだと思いますが、実際のレンズにはそのまま適用できないのだと思われます。ですので、昨日の日誌は次のように訂正します。

”F値のい計算式は理論的にはN = 1/(2N.A.) = 1/(2sinU')であるが、実際のレンズでは直接sinU'に相当する部分が存在しないため、N = f/Φ, f:焦点距離、Φ:有効口径、と計算されているようです。多分JIS規格でもこのように決まっているのだと思います。”

ここで、一年ほど前に書いた日誌を見ると、自分の書いた絵が何だか変なので、書き直します。こちらの方が分かりやすいと思います。

sinはやはりこの位置で書いた方が分かりやすいですね。この図から明らかなように、F値を大きくするとレンズがフィルムに近づいてきます。変な形のレンズですが、吉田正太郎氏の本に出てくるF0.625やF0.54の非球面レンズはこれによく似た形をしています。球面レンズだと後玉がすぐにフィルムを突き抜けてしまうので、この形の非球面レンズしか考えられないようです。図の赤い線がフィルムとくっついたところがF=0.5で、それより明るくすることはできません。レンズの端を通過する光は、フィルム面にほぼ平行に当たることになります。フィルムが平面の場合、浅い角度で入った光は反射されてしまい、ほとんど露光に寄与しないと思われます。

一応、私としては、これですっきりしました。


2009.3.35 乱立する絞り指標

WikipediaのF-numberの項目を見ると、1899年の絞り値表が出ています。7種類のばらばらな数字が並んでいます。これじゃ困りますね。Planarの絞りがミリ表示なのは正しい選択だと思います。


ところでF値の式は、英語版のWikipediaには、f/# = N = f/D, D is the diameter of the entrance pupil, 日本語版のWikipediaには、 fn = f/Φ, f:焦点距離、Φ:有効口径、と書いてあります。何となく N = 1/(2tanU')のような感じがするのでいやらしいですね。私はずっと勘違いしていました。tanU'をどんどん大きくするとNがどんどんゼロに近づいてしまうので、明らかにおかしいですね。最近気づいた私が言うのもなんですが、普通に N = 1/(2sinU')と書いてもらった方が勘違いしなくていいと思います。


2009.3.34 大昔のレンズの評価に関する考察(絞り)

昨日、”絞りなども、レンズとは考えない”と書きましたが、これは不適切でした。レンズ設計上、絞りの位置はレンズ一要素と考えなければならないそうです。私の場合絞り開放で評価する場合が多いので、絞り機構のないレンズや、絞りの壊れたレンズでも問題ないので、一般には絞りが非常に重要だということを忘れていました。

さて、絞りはどのような歴史で発達したのか、ちょっと調べてみました。

---------- 1850年頃以前 ---------------------------------
ダゲレオタイプ時代は銀板の感度が低く、絞りは不要だった。1851年に湿式コロジオン法が発明されると、乳剤の感度が当たり、絞る必要がでてきた。

---------- 1860年頃 - 1895年頃 ---------------------------
金属板に穴をあけただけの簡単な絞りがジョン・ウォーターハウスにより紹介される。

現在ウォーターハウス絞りと呼ばれるもの。誰でも簡単に作れます。たとえば、http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body20.htm#070818


これの応用として、一枚の円盤に大きさの違う穴をいくつか開けて、この円盤を回転させて絞りを変える方式なども使われた。
1858年にC.C. ハリスンが新型の虹彩式の絞りの特許を取ったが、しばらくはあまり使われなかった。

---------- 1895年頃以降 -------------------------------
私の持っているこの頃のレンズを見ると、
1893 Zeiss Anastigmat Series I 4.5/183mm --- ウォーターハウス絞り
1899 Zeiss Planar Ia 3.6/110mm --- 光彩絞り、ミリ表記
1901 Goerz Dagor 120mm --- 光彩絞り、F値表記
1903 Zeiss Unar Ib 4.7/145mm --- 光彩絞り、ミリ表記
1908 Zeiss Tessar IIb 6.3/148mm --- 光彩絞り、F値表記

1900年のちょっと前には光彩絞りが一般的になったようです。ただ明るさの表記方法はまだ定まっていなかったようで、今と同じF値(√20系列、√2系列)、パウル・ルドルフの提唱した10,000/N2系列や10,000/4N2系列、コダックで使われたユニフォームスケール(U.S.)絞りなど、いろいろあったようです。このような状況ではツアイスが絞りをミリ表記していたのは、まあ妥当だったのではないかと思います。多分カメラの側面に換算表が貼りつけてあったのだと思います。またペンキでF値を手書きしたレンズも時々見かけます。

テッサーの時代になるとF値表記の光彩絞りで落ち着いたようです。

参考文献: 写真レンズの歴史、ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ


2009.3.33 大昔のレンズの評価に関する考察

大昔のレンズをデジタルカメラ用に改造して評価するのは大変楽しい作業です。レンズの中心部分の性能だけを見るのであれば、たぶん最も公平な方法だと思います。昨日、レンズの内面にフェルトを貼りながら思ったのですが、いったい何を”レンズ”と言うかは、人によってかなり違うのではないでしょうか。たとえば、

(1) カメラ屋さんの棚に箱に入って並んでいるレンズのこと。日本国民の99.99999%がこれに該当すると思います。
(2) レンズヘッドだけをレンズと考える。ヘリコイドやカメラマウントは自分で取り換えるのでレンズとは考えない。
(3) ガラスの部分だけをレンズと考える。ガラス以外のすべて、たとえば筒状の金物や絞りなども、レンズとは考えない。

私は(3)に該当すると言いたいところですが、そうすると別の問題が出てきます。たとえば、HERMAGIS CINEMA 2.9/100mmの場合には、ガラスの部分は別の会社から仕入れた可能性があるのです。HERMAGIS社では仕入れたガラスを、別の金物屋から仕入れた筒に入れて販売していたかもしれません。あるいは、HERMAGIS社は完成品のレンズを仕入れて販売していただけかもしれません。そうだとすると、HERMAGIS社のレンズの良し悪しを論ずる場合、(1)または(2)の立場しか取れないのです。もし内面にフェルトを貼って改善してしまった場合、もはやそれはHERMAGIS社のレンズの評価ではないかもしれません。HERMAGIS社はガラス部分をA社から仕入れて、B社で製作した筒に入れて組立て、C社の装置で出荷検査をしたのち、D社という代理店を通して、E国およびF国においてG年からH年にかけて約I本販売した。J国においては代理店であるK社の都合で別ブランドがつけられたが、わずかL本しか販売されなかった。などという情報があれば美しいのですが、HERMAGIS社のことも、このレンズのこともさっぱり分かりません。


2009.3.32 HERMAGIS CINEMA 2.9/100mm改善

HERMAGIS CINEMAをカメラに取り付けてみると、かなりハレっぽいです。こういう場合、レンズを蛍光灯に向けてみると原因が分かる場合があります。

最初レンズのコバからの反射かと思ったのですが、どうやらそうではないようです。単に筒の中に平面が2か所あり、そこが悪いようです。


光る部分にフェルトを貼ると、かなり改善されます。このフェルトは100円ショップで買った手芸用のものですので光学用ではありませんが、十分役に立ちます。100円でレンズ100本以上処理できます。フェルトを筒状に貼ると反射しますので、蛇腹のようにデコボコに貼るのが理想的です。ただ、口径が細くなってしまうのも困るので、私は5mm幅ほどに細く切って、渦巻き状に貼っています。最大の難点は埃が出ることですが、まあ見なかったことにしましょう。このような簡単な処理でも、かなり大きな改善ができます。

レンズによってはフードやヘリコイドやマウント金具の内面がハレっぽい原因の場合があります。特に深いフードが危ないです。ぜひ一度レンズを蛍光灯に向けて見ることをお勧めします。


2009.3.31 EOS 10D シャッター故障

お借りしたExaktaマウントのAngenieux S21とP1をマウントアダプタ経由でEOS 5Dで使おうとすると、ミラーと衝突してしまうので、ミラーの小さなEOS 10Dを使っていたのですが、ついに故障しました。2003年7月14日に購入した初代10Dは初期不良のため、わずか9日後の7月23日に販売店でこのカメラと交換してもらいました。その時につけた5年保障が切れた半年後に、ついに故障しました。2006年1月22日にEOS 5Dを買うまでの約2年半の間フル稼働し、多分5万枚くらいは撮影していると思います。その後の3年ほどは5Dが壊れた時にしか使わなくなったのですが、最近Angenieux S21とP1のテストに使い、これが終了した時点で故障しました。よく働いてくれたと思います。


Err 99が出たままどうしてみ消えないので、”撮像素子の清掃”モードにしてみると、


シャッターの羽が斜めに残っています。


完全にシャッターの故障です。修理するより中古の20Dを買った方が安そうですね。当面必要ないので、このままそっと置いておきます。


2009.3.30 HERMAGIS CINEMA 2.9/100mm

HERMAGIS PARIS No 150059 OBJECTIF CINEMA F=100M/M 1:2.9


HERMAGIS(エルマジー)のプロジェクタ用レンズです。


うちにある映写機用のスーパーシックス 1.9/75mmと同じ外観です。きっと同じ機種の映写機で使われたのでしょう。100mmなのでF値は少し暗いと思われますが、F値の刻印はありません。


プロジェクタ用ですので、絞りはありません。典型的なペッツバール型のレンズです。


ペッツバール型についてはASRTO ROSHER-KINO-PORTZRAITで学習したので、もう間違いません。


前玉のコバが黄色く塗ってあります。理由は不明。レンズのコバに鉛筆で何か書いてあります。右から二つ目はレンズではなく真鍮の輪っかです。レンズの間隔を開けるのに使われています。


HERMAGIS


PARIS


F 100 - 29
どうやらF2.9のようです。


一見すると前玉が三枚貼り合わせのように見えましたが、上方の黄色い溝は貼り合わせとは関係ないようです。なぜ前群だけ黄色いのかは不明。


焦点距離は少し違いますが、Super-Sixと同じ太さなので、改造方法も同じ。とても簡単です。


まったく同じ太さです。いったいどのように写るのか楽しみです。


2009.3.29 フーリエ変換

“今日から使えるフーリエ変換”(三谷政昭著、講談社サイエンティフィク)という本は、なかなかとっつきにくいフーリエ変換を分かりやすく解説した本です。その中に”フーリエ亭のお得だね情報3 フーリエ変換の起源”というコラムがあって、フーリエさんがソムリエとしてやさしく解説をしてくれます。そこにこんな記述がありましたので引用させて頂きます。

--------------
私が1807年にフーリエ変換を考案したのは、熱伝導を表わす偏微分方程式を解くという目的のためでした。ある金属の一点に温度を与えた時、その温度の移り変わりは、あたかも無数の波の重ね合わせのようにふるまうのです。当時は産業革命華やかなりしころ、熱伝導を理論的に研究するのは、熱機関の設計などに大いに役立ったものでした。
--------------

ジョゼフ・フーリエ(1768-1830)は、最初に蒸気機関車を走らせたリチャード・トレビシック(1771−1833)と同じ世代ですね。ジョージ・スティーブンソン(1781−1848)はフーリエより13才年下ですので、フーリエの理論を使って蒸気機関の設計をしたのかもしれません。


2009.3.28 写真用フィルムの歴史

コダック社の”コダック映画用フィルムの変遷”は参考になるのですが、フィルムの感度は出ていません。レンズの開発は、ガラス、金属加工技術、シャッター、カメラ、フィルム感度などに大きな影響を受けていたと思われます。ガラス、シャッター、カメラについては写真関係の本で詳しい情報が得られるのですが、金属加工とフィルム感度のことが良く分かりません。この日誌でも何度か書いたのですが、レンズを入れる金属の筒は精度が良くて、軽くて、安くて、調整および分解清掃ができること(今のレンズとは違います)が求められるため、昔はなかなか大変だったと思うのです。太くて薄い真鍮の筒にスクリューを切るのは、なかなか難しい職人技なのだろうなぁと思います。特に大口径レンズでは。旋盤の歴史とか金属材料の歴史とかの勉強が必要ですね。ちなみに、蒸気機関の開発において、シリンダーの内面を精度よく切削できる水力旋盤の開発が大きく貢献したそうです。

フィルムに関しては”コダック映画用フィルムの変遷”に登場するフィルムの感度を調べようと思ったのですが、これがさっぱり分かりません。乾板の時代は、カメラを三脚に据えてスローシャッターを切ることが多かったでしょうから、乾板の感度とレンズの明るさに直接的な関係はなかったと思います。ロールフィルムができて、映画の撮影が始まると、暗くても必ず毎秒24コマ撮影しなければならないわけですがら、どうしても1/60秒くらいのシャッターが切れる明るいレンズが必要になります。手元のEOS 5Dの露出計でISO 50で1/60秒のシャッターを切るのに必要は絞りを測ってみますと、

*** ISO=50 1/60sの切れる条件 ***
雨の日の日中の薄暗い屋外 F4.5
家庭用の蛍光灯(32W+30W)の室内 F2.0

と出ます。もしフィルム感度が1/4の12.5だったとすると、2絞り開ければ良いわけですから、薄暗い雨の日の日中でF2.3くらいが必要になります。室内ではひたすら明るい照明を当てるしかないですね。Speed Panchroが出た1931年頃のフィルム感度はこの程度ではなかったかと推測するのですが、どうもはっきりしません。


2009.3.27 Biotessarの生産本数

Biotessarがその後どうなったか気になって調べてみました。1926年に30本ほど記載がありますが、1927年はわずかに1本、1928年が2本、1929年から1930年の間にだけ量産されたようです。

Biotessar 2.8/5cm 200本
Biotessar 2.8/13.5cm 576本
Biotessar 2.8/16.5cm 601本

そして1931年に2.9/26cmが1本作られた後は、台帳には記載されていません。どうやら2年間で1400本ほどだけ作られたようです。このころツアイスではTessar F3.5とF4.5を大量に製造しています。Tessar F2.7やF2.8もぼちぼち量産に入っています。また、コダック社の”コダック映画用フィルムの変遷”を見ると、この頃フィルムがどんどん進歩しているようです。これらの情報を元にまたまた勝手な推測をさせて頂きます。

Tessar F4.5とF3.5の売り上げは好調。F2.8にはTessarを改良して対応する。フィルムの性能が上がっているので一般向けの蛇腹カメラにはこれで十分。解像度の高いレンズにふさわしい高精度のカメラを作れるメーカーの育成には失敗したので、BiotarとBiotessarは使えるカメラがない以上生産縮小または中止。今後はツアイスが高精度小型カメラの開発に直接乗り出す。このカメラ用にゾナー 5cm F1.5を開発する。高精度のカメラとゾナーがあれば市場の独占が可能だと思う。本日の会議は終了。解散。(ツアイスの営業部長のつもりで書きましたが、これはフィクションであり、事実とは関係ありません)


2009.3.26 Biotarの謎(3)

Biotarはすべて1927年以降に作られたが、試作品については量産品とは別系統のシリアルナンバーが与えられた、と考えることもできます。しかし、ツァイスの台帳にある会計年度毎(昔のZeissの年度は10月から9月まで)のレンズ毎の生産量の表に、1927以前にBiotarが生産されたと書かれているのです。記載されているのは一回だけで、1923/24年度 Biotar 1.8 1924年4月に20本生産。焦点距離の記載なし。このことから、1917年以前にBiotarは存在したと考えられます。こちらの記載を元に、勝手な推測(その2)をすると、

1920年にリーがOpic F2を出したがあまり売れなかったので良かったのだが、1923年にベルテレが出したErnostar F2がザロモンのせいで売れてしまったので、ちょっとまずいことになってしまった。Ernostarの方はアッベ博士が企業買収に動いているので放っておこう。4月までに急いでOpicに対抗できるF1.8クラスのレンズが欲しい。まあ、20本くらいの試作なら特許の問題もないだろうから、Opic改良型で行こう。レンズの名前はBiotar、顕微鏡や生物学の研究用光学機器でトップを走る最先端科学技術企業である我がツァイス社のイメージにぴったりではないか。1922年にルドルフ先輩の作ったKino Plasmat F1.5はZeissの企業イメージに合わないので無視しよう。それよりせっかくTessarという金看板があるのだから、Biotessarも作ることにしよう。(ツアイスの営業部長のつもりで書きましたが、これはフィクションであり、事実とは関係ありません)


2009.3.25 Biotarの謎(2)

このBiotarについて売主に細かいことを問い合わせてみたのですが、レンズの構造や元の用途などは分からないそうです。値段は聞かない方が身のためとのこと。もう一本売りに出ている1925年製造と思われるBiotar 1.8/7.5cmの方には値段がついているのですが、高いです。これにはヘリコイドが付いていて、ずいぶん長く伸びます。今でいうところのマクロレンズですね。Biotarとはその名の通り、生物学用のマクロレンズのことなのかもしれません。Biotar F1.8は1926年で製造が止まります。Biotar 1.4/5cmと1.4/4cmはその後も数本だけ作られます。一方、1926年からBiotessarの生産が始まります。Biotessarは2.7/18cm, 2.9/17cm, 2.2/5cm, 2.2/10cm, 2.9/8.5cm, 2.9/10cm, 2.9/14cm, 2.9/17cm, 2.9/20cm, 2.9/25cmなどが、1926-1927年の2年間で30数本だけ生産されます。その後もしばらくはほんの数本の生産で、1929年になってやっとBiotar 1.4/4cm 100本、Biotar 1.4/5cm 100本、Biotessar 2.8/13.5cm 225本など、ある程度のまとまったロットでの生産が始まります。

ここからは私の勝手な推測です。メルテが生物学研究用の明るいレンズの設計を頼まれたので、最初Biotarという名前でF1.8とかF1.4の明るいレンズを少しだけ試作した。あるとき、明るさはF2.8くらいで良いので焦点距離の長くてイメージサークルの大きいレンズの注文が来たので、当時人気のTessarを改良して、Biotessarという名前で少しだけ試作した。そうこうするうちに、Ernostar F1.8やらOpic F2.0やら明るいレンズが流行ってきたので、さすがに暗いTessarだけではいけないと営業から苦情が出た。そこで、生物学用だったBiotarをカメラ用に改良して製造することにした。他に良い名前が思いつかなかったので、そのままBiotarを商品名にした。

いかがでしょうか? 真実は分かりません。


2009.3.24 Biotarの謎

Nacht Exaktaに、Biotar 2/8cmが付いていたで気になっていました。Biotarはツアイスのメルテが1927年頃開発したと本には書いてあります。”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。

----------
リーに続いて、何人かの設計者がこの型の長所を認めた。1925年に、A.トロニエ(Tronnier)がシュナイダーのF2クセノン(Xenon)レンズを設計し、2年後、ツァイスのメルテがビオター(Biotar)のシリーズを設計した。この中には35mmカメラ用の50mmF2や16mmシネ用25mmF1.4が含まれている。
----------

ところが、シリアルナンバー的には1911年製造だと思われるBiotarが売りに出ているのです。メルテが開発する16年も前に既にBiotarは存在したのでしょうか? このレンズはツァイスの台帳にも記載されているのですが、製造年月日は空欄になっています。シリアルナンバー上では1926年以前の製造だと推測できるBiotarレンズが18本も記載されているのです。残念ながら詳細な製造年月日が記載されたレンズは一本もありません。謎は深まるばかりです。


2009.3.23 シフトレンズは必要か(3)

一昨日の日誌に”PanoramaToolsなどで修正する”などということを書きましたが、とても怪しいです。PanoramaToolsのパノラマ関係のツールは主に広角レンズや魚眼レンズの歪みを調整し、複数の写真を連結し、パノラマイメージに投影するツールです。この”歪みを調整”という点から使えるのではないかと思ったわけなのですが、一方でできるだけ焦点距離の長いレンズを使えと言っています。これは明らかに矛盾ではないかと思えてきました。それでは早速実験してみます。

まず、昨日と同じようにレンズを並べてSigma 8mm F4 Circular Fisheyeで撮影します。

被写体を大きく写すには接近する必要があります。レンズの先から約20cm。


まず、QTVRで使うEquirectangular投影。レンズの中心から上下に離れると太短くなります。真中のレンズはカメラから近く、左右のレンズはカメラから遠いので、中央のレンズだけずいぶん大きく見えます。


ちなみにCylindical投影ではこうなります。上下は無限に伸びて行きます。

3本のレンズの大きさを揃えるには、左右の2本を手前に置く必要があります。一直線に並べると、中央のレンズが大きく写ることは避けられません。

このように円周状にレンズを置いて、その円周の中心に魚眼レンズを持ってくると、3本が同じ大きさに写るはずです。


Equirectangular変換すると、3本の大きさは揃いましたが、縦方向が短くなってしまいます。これはこの投影方法の特長です。一般的な世界地図で北極に近いグリーンランドが横に伸びるのと同じことです。


Rectlinear投影をすると超広角レンズと同じことになりますので、事態はさらに悪化します。これで横方向140度。14mmレンズの横方向の画角が104度くらいですから、普通のレンズの世界ではありません。要するに、広角レンズで被写体に近づいて撮影したが最後、どのようなソフトで処理しようが、平面写真(つまりCubic VRを除く)の歪みからは逃れられないということのようです。

さて、では200mmの望遠レンズで撮影するとどうなるかというと、

全然OKです。何の処理も要りませんし、ストロボ直射でも陰は目立ちません。カメラからの距離は約4m。机の上のレンズを撮影するには50mmマクロ+ストロボ天井バウンスが最高だとばかり思い込んでいました。歪みの面からは、70-200mm+ストロボ直射もなかなか良いかもしれません。ということで、パノラマ写真技術のクラシックレンズへの応用は、見事失敗に終わったのでした。


2009.3.22 シフトレンズは必要か(2)

昨日、Photoshopで自由変形すると実物より太めに見えたり細めに見えたりするので悩ましいと書いたのですが、これは予想以上に悩みます。まあレンズなら太く写っても細く写ってもそれほど問題はないのですが。


まず、上をつぼめると細くなりすぎるし、


下を広げると太くなりすぎるし、左右に相当の余白が必要だし。


今思いついたのですが、上を少しつぼめて、下を同じ分だけ広げるのが平和かもしれません。これなら悩まなくてもすみます。そもそも3本真横に並べて俯瞰するというカメラアングルに問題があるのだと思います。


2009.3.21 シフトレンズは必要か?

ついこの前までCanon TS-E 24mm F3.5Lを持っていたのですが、2年ほど使わなかったため、XPRES 1.9/3inに化けてしまいました。なくなってしまうとシフトレンズが欲しい場合があります。例えば、こんな場合。


上から見下ろすように撮影すると、両端のレンズは斜めになります。これをまっすぐに立てる方法としては、次のような考えられます。
1. カメラを水平に構えて、シフトレンズを使ってレンズをフォールして撮影する
2. カメラを水平に構えて、広角レンズで撮影し、下の方だけトリミングする
3. PhotoshopやPanoramaToolsなどで修正する
4. 一本づつ別撮りして合成する
5. 望遠レンズで遠くから撮影する

直感的には、1と2と3は解像度に余裕があれば全く同じ結果になると予想します。4が理想的なのですが、バックや影を自然に合成するにはテクニックが必要なので面倒臭い。5は狭い室内では現実的ではないと思います。さて、1と2と3について、私の直感が正しいかどうか簡単に検証してみましょう。

1.カメラを水平に構えて、シフトレンズを使ってレンズをフォールして撮影する

レンズはまっすぐに立つのですが、シフトするとどうしても歪みが発生します。右下のNikon-EOSアダプタが妙に斜めになっています。これはどうしても避けられないので、できるだけ長焦点のレンズと使って軽減するしかなさそうです。ちなみに使ったレンズはPentax 67の4/55mm+自作シフトアダプタ。TS-Eは11mmほどしかシフトできませんが、これは30mm以上シフトでき、タイリングで6x7cmを余裕でカバーします。ただし、非常に使いにくい。

シフトレンズをTTLの一眼レフで使う場合、原理的にアオルとTTL AEは使えません。アオル前に測光してマニュアルで絞りとシャッター速度を設定しなければなりません。TTLオートストロボも同様に使うことができません。ところが、私の持っているストロボは420EXなのでマニュアル設定ができず、ほとんど使えません。グリップオンのストロボとシフトレンズを使って撮影すとという考え方自体が間違っているのだと思います。ということで、とても不便です。


2. カメラを水平に構えて、広角レンズで撮影し、下の方だけトリミングする
Web掲載用の画像は、どうせ600x400pixelくらいの大きさなので、広角レンズで撮影してトリミングすればシフトレンズと同じ効果が出るから、それでいいじゃん、と思ったわけですが、そうは問屋が卸さない。

まず、28mmくらいの広角で小さく撮影するとこんな感じなのです。被写体を真中に入れるとカメラが見下ろす角度になるので、こうなります。


カメラを水平に構えるとレンズは下の方に写り、真っ直ぐになります。これはシフトレンズでフォールするのと全く同じ原理なのです。しかしながら、より広角レンズを使うことになるので、右下の歪みがさらに大きくなり、さらに不自然になります。さらに大問題を発見。この方法であればTTLオートストロボをバウンスで使っても大丈夫だろうと思ったのですが、残念ながらダメでした。テーブルや壁が白いので、露出がそちらに引っ張られてしまうのです。ストロボを+2補正(これが最大)しても肝心のレンズが全然暗いのです。テーブルや壁が黒であれば問題ないかもしれませんが、少なくともこの場所では使えないことが判明しました。カメラを上下さかさまに持って、ストロボをレンズに直射するという離れ業を、今思いつきましたが、影がきつくなるのはさけられないと思います。


3. PhotoshopやPanoramaToolsなどで修正する

Photoshopで単純に自由変形しただけですが、シフトしたのと区別がつきません。同じように歪みが出ます。実用的にはこれが一番よさそうです。ただし、修正時に縦横のアスペクトレシオをいじることは避けられないので、実物より太めに見えたり、細めに見えたり、悩ましいことも確かです。

ということで、要するにできるだけ焦点距離の長いレンズで歪みが目立たないように撮影するか、歪みが目立たないカメラアングルに変えるか、別撮り合成にするか、などの方法しかないことが確認できただけでして、やっぱりシフトは私には必要ないようです。


2009.3.20 スティーブンソン登場

ナポレオン戦争によって馬の値段が上がり、炭鉱から馬で石炭を運ぶのが高くつくようになりました。どんどん性能が上がる蒸気機関車の方が馬より安くなってきたため、蒸気機関車の需要が出たようです。ジョン・ブレンキンソップやウィリアム・ハードレーなどが蒸気機関車を続けます。そしていよいよジョージ・スティーブンソン(1781−1848)の登場です。”イギリス産業革命史の旅”(剣持一巳著、日本評論社)から引用させて頂きます。

------------------------
スティーブンソンは、後発の開発者の利点を最大限に生かした。ブレンキンソップの蒸気機関車の特徴であるボイラー内に設けた二基の垂直シリンダー方式を採用し、それを基本モデルにして自分の蒸気機関車の開発を行っている。スティーブンソンは、これまでの蒸気機関車にはない新しい改良を行い、さらに運転性能を高めている。まず、ピストンの動きを直接車輪に伝える方式にしたことである。これにより歯車を組み合わせる必要がなくなり、機構を簡素化し、騒音を低くしている。
------------------------

スティーブンソンはこの他にも機関車の前進・後退の切り替えを容易にしたり、ボイラーのj強度を増すために錬鉄を用いたり、鋳鉄レールの形状を工夫したり、レールの敷設方法を改良したりしました。これによりスティーブンソンの蒸気機関車は安定した運行が可能になり、一気に鉄道の時代に突入することになります。鉄道が儲かることが分かると、鉄道への投資が集まるようになり、ロスチャイルド家を筆頭に、”鉄道王”と呼ばれる人たちが出現します。


2009.3.19 高圧蒸気機関の開拓者

高圧蒸気を用いることによって、蒸気機関の高出力化と小型化が実現します。これにより蒸気機関車への道が開かれます。蒸気機関車はスティーブンソンが発明したと思っていたのですが、最初に蒸気機関車を走らせたのは、リチャード・トレビシック(1771−1833)だそうです。”イギリス産業革命史の旅”(剣持一巳著、日本評論社)から引用させて頂きます。

-----------------------
トレビックの蒸気機関車は、ロンドンでの走行が最初ではない。彼の故郷であるコーンウォールのカムボーンで1801年12月24日に道路を走る蒸気機関車を完成させ、さっそく丘の上まで数人を乗せて走ることに成功したのである。(しかし、12月28日の晩、数人の仲間とともにホテルで祝杯をあげているとき、蒸気車のボイラーの熱からガレージが火災となり、蒸気車もろとも燃えてしまった)
-----------------------

トレビックは1804年には10トンの鉄のインゴットと70人の乗客を乗せて、9.5マイルの距離を4時間5分かかって走行することに成功しています。しかし当時はまだ蒸気機関車は見せ物や賭けの対象でしかなく、実用上の意義を認められていなかったそうです。この程度なら馬にひかせた方が安上がりだったのだと思われます。


2009.3.18 高圧蒸気機関

”イギリス産業革命史の旅”(剣持一巳著、日本評論社)から引用させて頂きます。
----------------------
それまでのワットの蒸気機関は、シリンダー内に送り込まれる蒸気は高圧蒸気でなく、大気圧、もしくはやや高い圧力の蒸気を用いていた。ワットが高圧蒸気の利点を知らなかったわけではない。当時まだ鋼鉄の生産は行われておらず、蒸気機関の材料は、ほとんどが鋳鉄か錬鉄であり、いずれももろい軟鉄であった。そのためボイラーやシリンダーが高圧に充分たえることができなかったのである。
----------------------

ワットの蒸気機関は、蒸気機関車のように高圧蒸気を使うものだと思っていたのですが、そうではなかったようです。ニューコメンの大気圧機関の改良型と言った方が良いかもしれません。この時代は科学技術が全体的に発展する時代に入っているようでして、大勢の人が関与しています。基礎技術を発明した人よりも、その技術を広く一般に知らしめた人、あるいは大衆の役に立つようにした人の名前が後世に残っているようです。


2009.3.17 ニューコメンの大気圧機関 (2)

ニューコメンの大気圧機関は聞きなれない言葉なので、少し解説します。トリチェリ(1608-1647)が真空の実験を1643年に発表したのを受けて、イギリスのボイル伯爵などが真空の応用研究を行います。そして、トマス・ニューコメンが1712年にはじめて真空に働く大気圧を利用した動力機関を炭鉱に据え付けます。この機関の動作原理を”イギリス産業革命史の旅”(剣持一巳著、日本評論社)から引用させて頂きます。

----------------------
大気圧機関とよんだのは、文字通り蒸気圧ではなく大気圧で作動するからである。いまからみれば原理は簡単に見える。ボイラーで生じた蒸気圧をシリンダーに送り込み、ピストンを押し上げる。ピストンの上昇過程では蒸気圧によるが、次のピストンの下降過程ではシリンダー内に冷却水を噴射して、内部の蒸気を水に凝縮し、そこに生じる真空のためにピストンが大気圧により下降する。シリンダー内の凝縮水はシリンダー下部の排水弁をひらき、外部に排出される。
----------------------

ストーブの上のやかんから出る蒸気を見てワットが蒸気機関を発明した、というような挿絵が小学校の理科の教材にあったような気がしますが、ニュートンのリンゴの話と同じような類のものだったのですね。どうやって万有引力を発見したのかと何度も同じ質問されるのに嫌気がさしたニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て思いついたと言ったそうです。ワットも同じ質問に嫌気がさして、やかんの湯気を見て蒸気機関を作ったのさ、と言ったのかもしれません。この回答なら即座に噂が広まり、同じ質問から逃れることができますね。


2009.3.16 ニューコメンの大気圧機関

蒸気機関を最初に実用化をしたのがジェームズ・ワット(1736-1819)かと思っていたのですが、そうではないようです。どちらかというと、既に実用化されていたニューコメンの大気圧機関を改良したという感じです。”イギリス産業革命史の旅”(剣持一巳著、日本評論社)から引用させて頂きます。

----------------------
ワットは1757年にグラスゴー大学の自然哲学教室にあるニューコメンの大気圧機関の模型の修理をジョン・アンダーソン博士から依頼される。これがワットの蒸気機関の研究の端緒となる。この修理には1763年までかかるが、この間、ワットは実験をくりかえして蒸気の性格を知るようになる。1765年にシリンダーとは別のサイクルを考案し、1769年に「火力機関における燃料と蒸気の消費を節約する方法」という名称の基本特許をとる。ワットの発明のポイントは、従来のニューコメン機関ではシリンダー内の蒸気を直接冷却していたところを別の容器に導くことで、容易に蒸気を水に凝縮することができるというところにあった。
----------------------

ニューコメンの大気圧機関は1715年の末には既に実用化され、炭鉱の地下水の排水を行っていたようです。1726年にはロンドンの公共水道の水をテムズ川から揚水するのに使われ、チェコスロバキアの鉱山やフランスの炭鉱でも使われていたそうです。ワットが蒸気機関の実用化に成功するのが1776年ですから、それまで60年以上の間、ニューコメンの大気圧機関が主に揚水に使われていたそうです。ワットの方が有名になったのは、それまで上下運動だけで用途が限られていたものを、パートナーのボールトンの助言に従い回転機関にして、繊維工場や製粉工場など従来は水車を使っていた多くの工場を蒸気機関に置き換えたというにあるようです。それに燃費の良さ、つまり石炭消費量の少なさもあります。炭鉱では石炭は売るほどあるのですが、他の場所では当時既に高価になっていた石炭を買わねばならなかったからです。


2009.3.15 的と地

中国語で、”〜の”というのは”〜ダ”と言うのですが、漢字が”的”と”地”とふたつあって、初心者には使い分けが難しいです。発音は同じ”ダ”ですので、会話上は問題ありません。”中国語学習ハンドブック”(相原茂編著、大修館書店)には次のように書いてありました。

----------------------------
参考 二つの"de" ---”的”と”地”
定語のあとには”的”、状語には”地”。これが今までの原則でしたが、新しい教学語法体系提要では、この二つの書き分けをしなくてもよいと言っています。「”的”と”地”は分けず、ともに”的”を使う。かつて区別なしに使っていたが混乱はなかった。むしろ現行の書き分けるやり方の方が教学上困難をもたらしている。確かに”的”か”地”か迷う場合があるのは事実で、そういう現場の教師からの意見にもとづき、書き分けをしないよう提案する。しかし、現在の新聞、雑誌、出版物はほとんど書き分けを行っている(中には区別がきちんとしていないものも結構あるが)。従って、ここでは”的”と”地”を一体化するというのは強制的な定めというのではない。分写したい人はそうすればよい。但し、正しく分写するようにつとめること。」 
さて、われわれは外国人として中国語を学ぶのですから、定語か状語か、そのつど意識して書き分ける方がよいでしょう。本書は二つの"de"を書き分けています。
----------------------------


2009.3.14 古典レンズ準備完了


最近再改造した4本の古典レンズに加えて、1893製造のZeiss Anastigmat I類を加えて比較のための準備完了とします。左から、

Carl Zeiss Jena No 4475 Anastigmat Series I 1:4,5 F-183mm (1893)
Carl Zeiss Jena No 36606 Planar Serie Ia 1:3,6 F=110mm (1899)
Carl Zeiss Jena No 63822 Unar Series Ib 1:4,7 F=145mm (1903)
C.P. GOERZ BERLIN No.42564 DOPPEL ANASTIGMAT F=120m/m (1901)
Carl Zeiss Jena Nr 103898 Tessar Series IIb 1:6,3 F=148mm (1908)

本来は大きなフィルムを使って評価すべきだとは思いますが、それはあまりに大変なので他の方におまかせするとして、私はいつものようにEOS 5Dでレンズの中心部分だけの評価をしたいと思います。100年以上前、日本でいうと明治26年から明治41年にかけての写真レンズの大変革期の様子をデジタルカメラでタイムトラベルしてみたいと思います。


2009.3.13 Tessar 6.3/148mm 再改造 (2)


Tessarの外観が気に入らないので、革張りにしてみました。かなり段差がありますが、柔らかい革を引っ張りながら貼れば問題ありません。注意点としては革を切る時に、実際の大きさより長手方向を短く、幅方法を2倍くらい広く切ることです。引っ張ると長手方向に伸びますが、その代わりに幅が細くなります。幅に余裕を残して貼った後で、余分な革を切り取ります。これは見た目を良くするだけでなく、瞬間接着剤の補強にもなります。


2009.3.12 Tessar 6.3/148mm 再改造

プラナー、ウナー、ダゴールとくれば、やはりBテッサーを出さないわけにはいきません。テッサーは1902年(明治35年)の特許だそうです。 この辺の事情は寺崎さんの”小西本店 六櫻社 鏡玉と暗箱”の"Tessar"の項目に詳しく出ています。残念ながら私は最初期のテッサーSeries IIBを持っていません。特許から6年後の1908年(明治41年)のTessarならあるのですが、既にSeries IIBという刻印はなく、テッサーの名前は相当知れ渡っていたようです。1908-1909年度のTessarの出荷はざっと数えただけでも既に5000本にのぼっており、ツアイスの主力レンズになっています。ツアイスの台帳を紐解いてみると、最も古いTessarの出荷記録は次のようになっています。

1902年に出荷されたと思われるもの。本数は記載されていません。一本づつのサンプル出荷なのかもしれません。
56663 Tessar 10/470mm
57661 Tessar 4.5/16.5cm
59974 Tessar 6.3/112mm
59985 Tessar 4.5/62mm

1903年になるとTessar IIB F6.3の量産が始まるようで、F4.5やF10のTessarは出荷されなくなります。しかし、サンプルの出荷も続いていたようす。
64519 Tessae 2.7/1.5cm
といのが1903年に出荷されています。きっと小型映画用のサンプルだったのでしょう。

このことから、1902年にF6.3, 後にF4.5やF3.5, 1930年にF2.8というのは、量産出荷の話のようでして、試作品としては、1903年の時点で既にF2.7からF10まであったと考えられます。作ろうと思えば何でも作れるが、まあ売れ筋はF6.3くらいとちゃうか、とルドルフ博士は考えたのかもしれません。ツアイスの余裕が感じられます。


Dagorの改造と同じです。


太さがあまりにも違うので、一旦M39に変換後、ブロニカのチューブに入れています。


あまり美しくありませんが、素早く比較写真を撮影することはできると思います。


2009.3.11 DAGOR 120mm 再改造

明治33年のプラナーと明治36年のウナーの再改造が済んだので、次は1901年(明治34年)製のGOERZ DOPPEL ANASTIGMATを改造してみました。GOERZの製造番号表はこちら。このレンズがDAGORと呼ばれるようになるのは、このレンズが製造された3年後の1904年のことだそうです。明るさのスペックは刻印されていませんが、絞り指標はF6から始まっています。実際にはもう少し暗いと思います。このレンズは3年ほど前に購入したのですが、ほとんど使っていませんでした。近いうちに再登場させたいと思います。


39mmスクリューをレンズに貼り付けて、ブロニカのチューブでこれを受けるようにすれば完成。


シンプルな外観にしてみました。


カメラに取り付けるとこうなります。


2009.3.10 Unar 4.7/145mm再再改造

1899年製のPlanarを再再再再改造してだいぶきれいになったので、1903年製造のUnarも再再改造を思い立ちました。Planarと同じヘリコイドを使えるようにして、公正な比較をしようという目的もあります。前回の再改造から2年以上経っていますので、改造技術が少し進歩しているはずなのですが。


がらくた箱の中をごそごそと探したら、ウナーのスクリューにぴったり合うチューブが見つかりました。どうやらウナーのスクリューは52mmフィルターと同じだったようです。これさえ見つかれば、後は簡単です。ブロニカのチューブと接着すれば完成。


このチューブはKenko 52mm ADAPTER TUBE DC-B4 For FUJIと書いてあります。単なる偶然ですが、誂えたみたいにぴったりです。


カメラに取り付けたところ。妙に近代的な外観になりました。金ニスのプラナーに対抗して、コンデジ銀色のウナーです。レンズ自体にもヘリコイドがついていますが、トラベルが13mmほどしかありません。ブロニカのヘリコイドが14mmほどありますので、ダブルヘリコイドにすると合計27mmほどになり、1m位まで寄れるようになりました。


2009.3.9 Planar 3,6/110mm再再再再改造

一年ほど前にPlanar 3,6/110mmをブロニカのヘリコイド用に改造した時には、これで最後だろうと思ったのですが、久しぶりに使ってみるといくつか気になる点があります。。
(1)瞬間接着剤で貼っただけなので、強度的に不安。
(2)ブロニカスクリューマウント部分が銀色のため、不要な反射がある。
(3)見た目が悪い。かぶせ式のフードだとせっかくの金ぴかレンズが見えないし、刻印が読めないのでPlanarだか何だか分からない。
(4)フードが浅くて効いていない。もっと深い方が良い。
これらの問題点を解消するため、再再再再改造することにしました。


取り付け金具を銀色のアルミから古い真鍮に変えて、6本のネジで固定しました。見た目も良くなり、強度的には万全です。


ブロニカのヘリコイドに取り付けたところ。


黒いスクリューマウントに交換したので、不要な反射はかなり抑えられました。


フードは39mmのチューブを使用。フードをぎりぎりまで深くしました。


最後に皮でキャップを作って完成。機能的には格段の進歩で、見た目も少し良くなりました。もうこれで最終改造だと思うのですが。。。


2009.3.8 Nacht-EXAKTA (3)

もう少しナハトイグザクタの検索を続けたところ、次のようなページが見つかりました。
http://www.exaktapages.com/html/EX_VP.html
http://www.dresdner-kameras.de/ihagee_exakta/standard-exakta/standard-exakta.html

昨日出てこなかったレンズは次の通り。

標準レンズ:
Meyer Primotar 3,5/7,5 cm
Steinheil Cassar 3.5/7.5cm
Schneider Xenar 2.9/7.5cm
Zeiss Biotar 2/8.5cm
Zeiss Tessar 3,5/7 cm
Zeiss Tessar 3,5/7,5 cm

広角レンズ:
Meyer Weitwinkel-Doppel-Anastigmat 6,8/5,6 cm
Zeiss Weitwinkel-Tessar  8/5,5 cm

望遠レンズ:
Ihagee-Anastigmat  4,5/10,5 cm
Meyer Tele-Megor 5,5/15 cm
Meyer Tele-Megor 5,5/18 cm
Meyer Tele-Megor 5,5/25 cm
Zeiss Tele-Tessar  6,3/12 cm
Zeiss Tele-Tessar  6,3/18 cm
Zeiss Tele-Tessar  6,3/25 cm

これら2つの資料には、なぜかSuper-Sixが登場ないところが面白いですね。


2009.3.7 Nacht-EXAKTA (2)

Nacht Exaktaでググると、75 Jahre Exaktaというページが見つかりました。ドイツ語なので読めませんが、レンズに関しては良く分かります。どうやら3種類のシリーズがあったようで、それぞれレンズが違います。

Standard Exakta RMはライヒスマルクのこと
Ihagee Exaktar 3.5/7.5cm RM 120
Schneider Xenar 3.5/7.5cm RM 140
Schneider Xenar 2.8/7.5cm RM 175
Zeiss Tessar 2.8/7.5cm RM 190
Schneider Xenon 2/8cm RM 280
Zeiss Biotar 2/8cm RM 345
Xenon付きとBiotar付きの値段が高いですね。

Nacht-Exakta
Meyer Primoplan 1.9/8cm
Meyer Primoplan 1.9/7.5cm
Schneider Xenon 2/8cm
Zeiss Biotar 2/8cm
Dallmeyer Super-Six 1.9/3 inch
Primoplan付きとSuper-Six付きの値段が出ていないのが残念です。しかし、よく似たスペックの標準レンズをこんなにたくさん取りそろえた理由がよく分かりません。

Exakta-Junior
Ihagee Exaktar 3.5/7cm
Ihagee Exaktar 3.5/7.3cm
Ihagee Exaktar 3.5/7.5cm
Ihagee Exaktar 4.5/7.5cm
Steinheil Cassar 2.9/7.5cm
Boyer Topaz 3.5/7.5cm
こちらはますます細かいですね。7cmと7.3cmと7.5cmの違いとか、F3.5とF4.5の違いが熱心に論じられていたのかもしれませんね。


2009.3.6 Nacht-EXAKTA

シャドーさんに教えて頂いたのですが、70万番台のXenon 1:2/80はベスト判のナハトイグザクタについていたそうで、実際に売りに出ているものも教えて頂きました。Nacht-EXAKTAで調べると、ARCHIV ZEISS/EXAKTAナハト・レンズについてというページが見つかりました。Super-Six, Biotar, Primoplan, Xenonというのは魅力的なラインアップです。

kinoplasmatさんSuperSixも同じベスト判のナハトイグザクタについていたものだそうです。いつか4本のレンズを揃えて比較してみたいものですね。結構お金がかかりますのでそんなに簡単ではありませんが、1935年、すなわち昭和10年へのタイムトラベルですので、まあしかたないかもしれません。


2009.3.5 XENON製造番号 (2)

寫楽彩ジオグラフィックさんから、ごく初期のXenonのうち、 一眼レフで使えるものを探すなら、80mmF2が良さそうだと教えて頂きました。早速Googleで検索してみましたが、初期のレンズは一本も発見できませんでした。"Schneider Xenon 80mm"で検索すると、ALPA-Xenon 1:2/80が見つかります。”アルパブック”(豊田茂雄著、朝日ソノラマ)を見ると、 このレンズは1955年に、52本だけ出荷された希少なレンズということです。これは高そうですね。他にはRETINA LONGER XENON 80mm F4が見つかります。70万番台のXenon 1:2/80を探すという命題は、なかなか面白そうです。こんなことを書くと値上がりしてしまうとお叱りを受けそうですが、何しろ全く情報がないので困ってしまいました。


2009.3.4 XENON製造番号

初期のXENONが見つからないと書いたところ、寫楽彩ジオグラフィックさんが気を利かせて調べて頂きました。ありがとうございました。掲示板から転記します。

----------
黄色い電話帳ツアイスと同じく青い電話帳シュナイダーの本を見てみると1932年〜しかデータが無いようです。あくまで憶測ですがシュナイダー社に32年以前のデータが残ってないかもしれませんね。
ちなみにこの資料で初めてXenonが出てくるのはNagel Pupilleの4,5cmF2 Nr509515ですね100本 1932年その後1934年迄にこのレンズが1000本近く作られており
F1.5が出てくるのが1935年20mm 25mm 50mm F2は35mm 45mm 80mm  Nr700000代(1935年)数本程度しか作っていません。
F2(F1.9) 50mm が結構数が出てくるのがNr800000代でそのまえは数本程度です。1936年頃 といっても年間に全ての種類を含めて100本も作っていません。
この頃の主要レンズは圧倒的にクセナーですね。

クセノンは、本格的生産(数と種類)は、1940年代以降になってきますね。
ですから100000代〜200000代のクセノン見つけるのは結構大変かもしれません
情報迄

----------

700,000番台(1935年)のXENON 2/80mmがもし見つかれば、欲しいなぁと思いました。


2009.3.3 Trioplan 2.8/8cm再改造

お借りしているMakro Plasmat 2.7/10.5cmは非常に良く写るのですが、なかなか比較すべきレンズを選ぶのが難しいです。スペックから考えると、Planar 2.8/100mmやBiometar 2.8/80mmなどを思いつくのですが、Makro Plasmatが1930年代であるのに対して、これらのレンズは1950年代ですので、時代が20年ほど違います。手持ちのレンズの中から戦前のもので明るさがF2.8くらいのものを探すと、Mayer Trioplan 2.8/7.5cm(多分1940年くらい)と、Carl Zeiss Tessar 2.8/8cm(1936年)が見つかりました。Makro Plasmatに比べると焦点距離が短いですし、レンズの枚数が少ないので、どう考えてもMakro Plasmatの圧勝に終わりそうです。でも、戦前の高級6枚玉、高級4枚玉、普及用3枚玉の違いを確認するのはなかなか面白いかもしれません。

Tessarは既にEOSマウントに改造してありますので、Trioplanの再改造を行いました。


とても簡単に分解できます。前玉のスクリューが固くて取れなかったので、金槌で軽くたたくと緩んでくれました。


ブロニカの中間リングとその中に入れる適当な筒(この場合は39mmのフード)を準備します。ブロニカの中間リングに比べて、レンズがとても細いので太さの調整をしているだけです。


レンズにガムテープを巻いて筒に固定するための太さ調整。レンズとヘリコイドは絞りリング経由で接続します。レンズがヘリコイドの中にすっぽりと入る形になりますので、レンズ本体を固定してしまうと、絞り輪を回すことができません。絞り輪経由で接続しておけば、レンズを回して絞りを変えることができます。


きつめにガムテープをまいて、筒の中にギュッと押し込みます。うまく太さを調整すれば、ただ押し込むだけでも十分な強度が得られます。レンズが小さいと楽ですね。


さらにこれをブロニカの中間リングに入れます。2重の筒なので、無限遠調整は至って簡単です。


無限遠調整後、ビスを3本打って固定すれば完成。


ヘリコイドの中にすっぽりと入る形になります。既に深いフードの中ですが、さらにフードを延長したいときには、ブロニカの中間リングを継ぎ足します。


最後に革のキャップを作ってアッいう間に作業終了。工作としては、手回しのドリルで1.5mmの穴を3個開けただけでした。


2009.3.2 欲しいレンズ50 ネオキノF1.6

”カメラマンのための写真レンズの科学”(吉田正太郎著、地人書館)の112ページにエミール・ブッシュ社のネオキノF1.6が出ています。これは1928年に発表された典型的なペッツバール型の人像鏡玉ですが、F1.6というのは大いに興味を引かれます。なおこのレンズは、この本以外では見たことも聞いたこともありません。


---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---