EOS10D日記その 50 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2014.8.19 PENTAX67-NEXアダプタ製作

PENTAX 67 MACRO 1:4 100mmをSonyのNEXで使いたいという要望があり、アダプタを製作。


フランジバックはPENTAX 67が85mmでSony Eマウントが18mm。なので67mmのアダプタを作ればよいのですいが、作りやすさの観点からオーバーインフの66mmで製作しました。マクロレンズのヘリコイドは大きく伸びるので、1mmくらいオーバーインフでも実用上の問題はありません。


接着強度確保のため、内面が革張り。


部品としてはL39-NEXアダプタのNEX側部品、ニコンHS-7フードを切断して長さを合わせたもの、PENTAX 67中間リングです。これらを接着材でつなげれば完成。大きなレンズですが、割と軽いので使いやすいと思います。


NEX5Nに取り付けたところ。でかい。6x7cmフィルムの大きさが56x69mm=3864mm2。NEXのセンサーの大きさが23.5x15.6mm=366.6mm2。面積で10.5倍違うわけですから、こんなもんかと思います。


2014.8.18 PENTAX 67 MACRO 1:4 100mm

知り合いのメーカーで予備のPENTAX 67 MACRO 1:4 100mmを新品のまま廃棄するというので頂戴しました。

箱付きの新品。


4群6枚の構成。工業用で使うには解像度が足りなくなったのだそうです。


定価178,500円。販売終了時の実売価格は72,000程度。既に販売終了しています。


このレンズが工業用に使用される理由:
(1) イメージサークルが大きくラインセンサーに対応できる
(2) マニュアル絞り可能。絞りっぱなしにできる
(3) 民生品なので安価
(4) PENTAX 67マウント金具の入手が容易


最大倍率は1/1.9倍ですが、LIFE-SIZE CONVERTER 67を取り付けると1.12倍まで接写できます。


フードをはずして、LIFE-SIZE CONVERTER 67をねじ込みます。


自作のPENTAX67-EOSアダプタに取り付けたところ。


EOS 5D Mark IIでレンズ単体で撮影。


LIFE-SIZE CONVERTER 67を使用。500円玉の直径は26.5mm。


2014.8.11TAYLOR LEICESTER WAR

7i x 4i W.A.R E.F. 4.08 IN No. 1165 TAYLOR LEICESTER

Vade MecumにはTaylor, Taylor and Hobson, Ltd., Leicester, Englandの項目には次のように記載されています。

Wide Angle Rectilinear (WAR) with Waterhouse and disk stops. It covers 75-80° and was made in 1/4, 1/2,
1/1 plate, 10x8 and 10x12in sizes. Three examples seen were No3,65x a 4.02in for 1/2plate, No1,615x with
an iris for 5.3in focus on 1/1plate, and an early one with disk stops.

広角レクチリニア(WAR)、ウォーターハウス絞りまたはディスク絞り付き。75-80度をカバー。1/4, 1/2, 1/1プレート、10x8, 10x12インチをカバー。たとえばNo3,65x 4.02in は 1/2plate (キャビネ)、No1,615x 5.3in は1/1plateをカバー。初期のものにはディスク絞りが付く。



正式な社名はTaylor, Taylor and Hobson, Ltd.,なのですが、通常はTTHと省略されます。この場合TAYLORと省略されていますが、これははじめて見ました。


ディスク絞りにはF16からF256の穴があります。


2群4枚のラピッドレクチリニア型。


フランジ金具がないので、52mmのフィルター枠の内側を削って内径を合わせて接着。


M52ヘリコイドに装着したところ。


2014.8.10 SQUIRE & Co

Carte "D" Cisite Len SQUIRE & Co., Markets King Williams London Bridge 7570

Vade Mecumから引用
Squire, London
This was noted on a substantial 3in (dia?) Portrait lens at No55,74x on sale S.H. in London 1999. It probably
was the vendors name in the 1880's or some such time. (But Channing and Dunn list Squire as an early lens
and camera maker, and a lens maker at that, being active from about 1855 and noted up to 1868. It is
possible that a sight of the above lens would show it to be a good deal older than the note suggests.)

http://www.earlyphotography.co.uk/site/companies4.html#squire を見ると次のように書かれています。
Company Name: Henry Squire & Co. 1855 - 1868
Company Address: 52 King William St., London 1856 - 1868, 41 Ludgate Hill, London 1856
輸入業者、小売、製造、写真関係以外の商品も扱った。カメラは仕入れていたが、 1864年のLPODによるとシェパードレンズの製造を行っていた。1867年倒産手続き開始。

製造年は分かりませんが、1855-1868の中をとって、1862年(文久二年)の製造としておきます。



あまり丁寧な刻印ではありませんが、たくさん字が書いてあります。販売代理店で刻印したものだと思います。


普通のペッツバール型レンズです。



62mmの金具を取り付けて、52mmに変換。


M52のヘリコイドに装着したところ。


2014.8.9 Bose QC15用リュックサック

ヘッドホンをリュックの中に入れておくとコードがからまり故障の原因になると思い、Bose QC15のケースをリュックの外側に縫いつけました。これでリュックの中のレンズの出し入れが楽になります。



このケースはあまり知られていないようで、評判はいまいち。安物の合皮のリュックサックをBoseブランドバッグに変身させる作戦は失敗に終わりました。実用的にはOKです。


2014.8.8 Bose QC-15 修理

BoseのノイズキャンセリングヘッドホンQC15も右チャネルの音声が出なくなったので修理。メーカー保証期間内。右のスピーカーの上から強く押すと音が出るので、接触不良だと思います。Boseではこの機種は修理できないため新品交換になりました、と修理伝票に書いてありました。

新品のQC15の音は素晴らしく、交換前の個体の音とはかなり違います。どうやら、このヘッドホンにはマイクロホンが4個内臓されているのですが、前の個体はそのバランスが変だったようです。新しい個体はよく調整されています。


2014.8.7 Verito 8 3/4 inch

WOLLENSAK VERITO f-4 DIFFUSED FOCUS 8 3/4 in No 12312


Vrritoは人気のあるソフトフォーカスレンズですが、作例を見る機会は少ないです。手頃な値段で買えるので、古典レンズ入門に適しています。これは焦点距離は220mmほどで、5x7 inch用です。35mmで使うには焦点距離が短いほうがいいのですが、短焦点のVeritoは数が少なく高価。一般的な7インチか8インチくらいが手頃です。


2群3枚


M52のヘリコイドに改造。210mmですのでこんなに長くなります。


2014.7.30 GASC & CHARCONNETバルサム

GASC & CHARCONNET GEO & BRYANT & Co 36661 SOLE AGENT BOSTON MASS

中将姫光学からGASC & CHARCONNETの前玉のバルサム貼りの依頼。

ボストンの代理店の刻印が入っています。


少し補修の跡が見られますが、きれいな真鍮です。


問題点は以下の通り。
1. 前玉バルサム剥離
2. 中玉欠損
3. 前玉を金属枠に固定するスクリューがなく、糊で固定してある。
4. 後玉を金属枠に固定するスクリューがなく、スペーサーに紙をかませて止めてあるだけ。


糊で固定してあるレンズを木槌でやさしく叩いて取り出し。この時点でバルサムは完全に分離しています。


無水アルコールで拭くと、古いバルサムはきれいに取れました。


アイロンをアルミホイルをかけて(バルサム糊がアイロンのスチームの穴に入るのを防ぐため)、その上にレンズを置いて、金属製のふたをして、150度まで加熱。


150度まで加熱した時点で両凸レンズの表面が変質。バルサム貼りは終わったのですが、ご覧の通り凸レンズの表面がざらざら。


良く見ると細かなひび割れ。このレンズは熱に弱かったようですが、なぜたった150度でひび割れたのかは不明です。150度が高温すぎた、ガラスが不安定な新種ガラスだった、ガラスが古くて劣化していた、アルミホイルまたはフタの金属とガラスが反応したなどの原因が考えられますが、原因不明。ひび割れた原因を御存じの方は、ぜひ教えてください。


2014.7.23 Derogy

No 22169 Derogy Fabt Brevete Paris & Londres
(Derogy パリとロンドンで特許取得済み)

中将姫光学から改造依頼のあったDerogy。Derogyを改造するのはこれがはじめてです。ペッツバール型。計測したところF4.0 150mm程度。

Derogy後期の刻印がありました。王冠ユニークです。


フードに差し込み口があります。ウォーターハウス絞りは別にありますので、これはフィルター用の差し込み口かもしれません。


前玉が小さく、後玉が大きいです。


座金が失われているので、67mmのフードで適当に製作。67-52mmステップアップリング経由でM52ヘリコイドに接続。


フードのスリットが横を向いていますが、本来は上を向くのだと思います。


レンズの先端に正体不明の輪がついていました。良く見ると、これはたぶん金属キャップの外周部分です。先頭の円盤が脱落してしまったようです。


2014.7.22 SUPER-SIX 1.9/3" 再改造

6年前に改造したDallmeyer SUPER-SIX 1.9/3"は性能はすばらしいのですが、ブロニカのヘリコイドの中に入り込んでいるため見栄えが悪い。

バックフォーカスが短いのに太いため、内径の大きなヘリコイドに埋め込む必要があります。


そこで、M65のヘリコイドの内径を革で調整して、SUPER-SIXが押しこめるように再改造しました。


白い革は見た目を良くするためだけで、深い意味はありません。


真鍮の鏡筒が半分くらい外に出るので、一応古いレンズだと分かるようになりました。


EOS 5Dに取り付けるとこんな感じで、ユニークな形です。


2014.7.17 ユーザー車検 3

2010.7.5に最初のユーザー車検を受け、2012.7.13に二回目のユーザー車検を受け、今日が三回目のユーザー車検です。3年目の車検はディーラーに頼んだのですが、5年目、7年目、9年目の車検を自分で受けたことになります。前回から二年たって、ユーザー車検の方法はすっかり忘れてしまっていますが、とにかく自分で24カ月点検をして、自動車税の領収書と、認め印と、現金を持って陸運局に行けばいいことだけは覚えています。それに陸運局の人は皆親切なので、心配はいりません。

手順のおさらい:
1. 前日までにネットで予約
2. 自分で24カ月点検をして記録簿に記入。9年も経っているので、タイヤとバッテリーとエンジンオイルを交換。その他は異常なし。
3. 納税証明書と認め印を準備
4. ヘッドライトが4灯式の場合、ロービームのヘッドライトに紙を貼る。検査するのはハイビームの光軸だけ。私の車は外側の2灯に紙を貼る。
5. 車で陸運局に行く。
6. 自賠責に加入。神奈川運輸支局の場合、入って右側手前の建物。
7. 重量税と手数料の印紙、申請用紙を買う。神奈川運輸支局の場合、入って右側二番目の建物
8. 納税確認を行う。神奈川運輸支局の場合、入って右側奥の建物
9. 申請用紙に記入して左側の建物に提出し受付を行う
10. レーンに並んで検査を受ける。やり方を知りません、または忘れました、というと付き添いの人が親切に教えてくれる。
11. 検査が終わったら、左側の建物に戻り書類を提出する。
12. 数分で車検証とフロントガラスに貼るシールをもらえる。
13. 自分でシールを貼る。これで車検終了。

費用:
自賠責 27,840円
重量税 32,800円
検査手数料 1,800円
申請用紙代金 20円
合計: 62,460円


2014.7.12 Zunow 1.9/5cm for Miranda T

ZUNOW 1:1.9 f=5cm Zunow Opt. Japan No11407

1955年(昭和30年)オリオン精機がMiranda Tという一眼レフカメラを発売します。このカメラにはZUNOW 1:1.9 f=50mmレンズが付いていました。Miranda Tは1959年(昭和34年)頃まで製造されたようです。


このレンズの製造年は分かりませんが、たぶん1958年(昭和33年)だと思います。


オリジナルのヘリコイドは失われており、EXAKTAマウントに改造されていました。無限にピントが固定されていました


これはそのままM42のヘリコイドに突っ込めますので、改造は至って簡単です。


ヘリコイドと接続して無限から30cmくらいの近接撮影までできるようになりました。NEXはフランジバックが短いので助かります。EOSやNikon Fなどの一眼レフには改造できません。


2014.6.29 Dubroni Darlot 5 inch

Dubroni a Paris / Darlot Paris
(F3.5, 5 inch, 125mm) はっきりした製造年代は分かりませんが、湿板写真時代だと思います。一応1865年(慶応元年)製造だとしておきます。


以前中将姫光学さんから借りたDuboni's Patent London (100mm)が素晴らしいレンズだったので探していたところ、125mmが見つかりました。こちらはDubroni a Parisと書かれており、フランス国内向けだったとようです。構成は普通のペッツバール型。


金ニスがほとんど全部はがれており、かなり使いこまれた感じです。


前玉にDarlot Parisと書かれています。レンズエレメントはDarlotが製造したものです。従ってレンズの光学的な性能はDarlotと同じです。


拡大したところ。Pの文字が読みづらいですが、当時のフランス人はこんな感じで書いたようです。


中玉にも同様にDubroni Parisと書かれています。


紙箱付きです。Dubroni opt. Paris Objectif a Portraitと書かれています。




分解したところ。普通のペッツバールです。


太すぎて、いつも使うM52/M42のヘリコイドの穴に入りません。穴に入らないと無限遠いが出ません。幸いラックアンドピニオンギアが使えるので、これでピント合わせすることにしました。ですので、ただ筒を取り付けただけ。


革の張り方がいいかげんですが、自家使用なので問題ありません。ギヤのノブがもともと右手で扱いように設計されていますが、一眼レフでは扱いにくいです。そこで、120度ほど回転して、左手で操作しやすく改造しています。


2014.6.19 真人

2014.5.31 名字の歴史学 臣籍降下 で「大和時代に成立した皇系氏族の姓は、圧倒的に「真人」が多い。今までは神性を具備していた天皇家の氏人だったのが、臣籍に降下して普通の人間になったということだろうか。」 という文章を引用しましたが、どうも気になってしかたがない。Wikipediaの天武天皇の項目を見ると次のように書いてあります。

「和風(国風)諡号天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である」

なので真人という姓は普通の人間という意味ではなく、天武天皇の子孫であることを意味するのではないかと思います。


2014.6.18 やまたのおろち 奴隷貿易船説

「古代大和朝廷」(宮崎市定著、筑摩叢書)には、古事記の寓話「やまたのおろち」は朝鮮からやってくる奴隷貿易船のことではないかとの仮説が出ています。朝鮮から津島を経由して出雲に到着した大型の貿易船には金属製品が満載されていた。日本側は主に生口(奴隷)で代金を支払ったが、奴隷としての価値は若い女性が最も高かった。

「やまたのおろち」の私の仮説は「氾濫する大和川」ですから全然違うのですが、言われてみればそのような気もするので引用します。

「毎年海上からやってきて、人身御供に乙女を要求する八俣大蛇とは長大な貿易船のことである。当時の日本人にはその偉観が、谿は八谷、峡は八尾を度る大蛇のように見えたのであろう。人身御供に指名された櫛名田姫の両親、足名椎、手名椎が八塩折の酒を醸し、八つの酒船に満たして、八俣大蛇に飲ませたとは、当時交易のおりに盛大な宴会が催されるのが慣例であることを物語る。大蛇が酒を飲み伏寝したのに乗じ、須佐之男命が十拳の剣を抜いて切り殺したとは、実際にしばしば行われた戦略であったことを示す。命がその大蛇の尾を割いて宝剣を獲たとは、大蛇に擬せられた大船に銅剣が積載されていたことの譬えであって、はなはだ意味深長ではないか。」


2014.6.8 UA853便飛ばず

6月5日(木) サンフランシスコ

11時頃 BARTという電車に乗ってサンフランシスコ市内のホテルから空港に移動。快適。
11時30分 サンフランシスコ空港到着。
12時頃 チェックインおよび手荷物検査終了しゲートへ。

13時01分 サンフランシスコ発成田行きUA853便は機体整備のため、13時45分発に変更とのメール受け取り。ゲートで待機。
13時22分 14時発に変更
14時10分 15時15分発に変更
15時頃 機体整備終了。搭乗開始
15時03分 15時30分発に変更
15時30分頃 一旦滑走路に出るが、再整備のため再ゲートに戻る。
16時頃 飛行機を降りて待合室で待ちたい人は、降りても良いとのアナウンス。ただし、手荷物を全部持って降りること。
16時14分 16時30分発に変更
16時39分 17時05分発に変更
16時40分 17時30分発に変更
17時38分 18時05分発に変更

18時10分 18時30分発に変更。再搭乗しようとゲートに向かうと、飛行機から全員降りてくる。しかたがないので、みんなの後ろについて行く。ゲートの外のUAのチェックインカウンターで、明日以降の便に振り替えるらしい。

18時43分 チェックインカウンターの長い列に並んでいると、UA853便はキャンセルされたとのメールが来る。

19時30分頃 偶然会った知り合いのKさんが旅行会社と電話で交渉して、明日の成田直行便に振り替えられたとのこと。

19時40分頃 チケットを購入したHISに電話で振り替え依頼。HISは何もできないのでUAの現地係員と交渉してくれとのこと。

20時頃 隣に並んでいたMさんがUAの日本窓口の電話番号を「地球の歩き方」という本の中で発見し、電話で振り替えを依頼。明日の朝6時発のシカゴ経由成田行きに振り替えとの回答。これはあまりにも遠回り。粘ってハワイ経由羽田22時15分着のUA300/UA9723便を獲得。

20時10分頃 Mさんから電話番号を教えてもらい、UAの日本窓口に電話。明後日の便しか振り替えられないとのこと。Mさんが明日のハワイ経由に振り替えられたので、同様に振り替えてほしいと依頼。少し待たされたあと、ハワイ経由のUA300/UA9723便に振り替えられることを確認。

21時頃 やっとUAのカウンターでUA300/UA9723便のチケット受け取り。指定されたホテルの宿泊券と、お食事券7ドルX3枚を受け取り

21時10分頃 サンフランシスコ空港の国内線荷物受取口で荷物を返してもらう。国際線の荷物受取口は税関の中にあるので使えない。

21時20分頃 ホテルのバスに乗る。Mさんと私はシェラトンホテル。Kさんとは別のホテルだが、三人で一緒に食事するためシェラトンに向かう。

21時40分頃 ホテルに到着。明日の予定をキャンセル。

22時頃 夕食。そういえば、昼飯は食べていない。

23時頃 Kさんはタクシーで自分のホテルに帰る。就寝。


6月6日(金) サンフランシスコからホノルル経由で羽田へ

10時頃 ホテルからバスでサンフランシスコ空港へ。バスは15分おきに出ている。

12時50分 UA300便出発。隣の席のハワイ大学のS先生と着陸までずっと雑談。

15時10分 ホノルル空港到着。昼食。

17時30分 6番ゲートでチケット受け取り。荷物を預けていないのに、預けたことになっているので訂正してもらう。昨日キャンセルされた飛行機には荷物を預けたが、今日の便は羽田に遅く着くので荷物を全部機内に持ち込んだ。記録上は昨日預けたままになっていた。

18時30分 ホノルル出発。定刻。隣の席の製薬会社のTさんとずっと雑談。以前少年野球でグランドを使わせてもらっていた会社の人だったので、ローカルな話題には困らない。TさんもUA853便キャンセル組。Tさんはホノルルでの乗り継ぎは6時間だったとのこと。私は3時間だったので、UAの日本窓口に電話した効果が少しはあったらしい。


6月7日(土) 22時頃 羽田空港到着。知り合いのWさんに会う。金曜日の夕方までアメリカの事務所で仕事して、19時12分サンフランシスコ発のJL1便で帰ってきたとのこと。私は木曜日の朝にホテルを出ているので、結局丸二日損したということらしい。

ちなみにUA853便の機体は古いボーイング747。壊れると修理が大変のようでした。


2014.6.1 名字の歴史学 熊谷直実

「名字の歴史学」(奥富敬之著、角川選書)から引用。まだまだ面白い内容が続くのですが、きりがないので、あとがきから引用して終わりたいと思います。

源平合戦の頃、熊谷直実という武将がいた。超人的な強力で勇猛、一ノ谷合戦などで武名を挙げている。いわゆる鎌倉武士の代表的人物だった。その直実の正式な名乗りを分解すると、次のようになる。

熊谷(名字)郷司(職名)平(姓名)次郎(仮名)直実(実名)
(熊谷郷は地名、直は一族の通字)

これだけでも地名に由来した名字、出身を示す姓名、所領での役職名、兄弟での出生の順序を表す仮名、個人の実名とそのなかでの一族の通字などがわかる。
それぞれには、社会的な意味があり、歴史的な変遷があった。やや誇張していうと、名乗りを見ただけで、その人物の多くを知ることができる、ということかもしれない。


2014.5.31 名字の歴史学 臣籍降下

「名字の歴史学」(奥富敬之著、角川選書)から引用

天皇を一代目として、子、孫、曾孫と代を重ねても通常は天皇の氏人、つまり皇族として扱われ、親王、内親王、あるいは王、女王などの号を称することはできる。しかし数代のちになると、やはり天皇氏という氏族集団から出ていくことになる。天皇氏の氏人でなくなるので皇籍離脱ということになり、必然的に家臣の籍に下るわけだから、これを臣籍降下という。(中略)つまり皇族が皇籍離脱、臣籍降下をするとなると、それにともなう賜姓は「氏名+姓名」を受けるということになる。たんなる姓名だけでは、ことはすまない。

「古事記」「日本書紀」および「新撰姓氏録」によれば、大和時代に成立した皇系氏族の氏名としては、
息長・山道・坂田・八多・三国・守山・大原・香山・登美・蜷淵・三島・淡海・高階・春日・当麻・豊野・酒人・多治・為名・高額・文室
などが挙げられる。

そしてこれらの氏に与えられた姓は、圧倒的に「真人」が多い。今までは神性を具備していた天皇家の氏人だったのが、臣籍に降下して普通の人間になったということだろうか。


2014.5.30 名字の歴史学 名乗り

「名字の歴史学」(奥富敬之著、角川選書)から引用

日本書紀で氏上たちの名乗りを見ると、最初のうちは「氏名+実名+姓名」の順が多い。(中略)ところが同書巻十九の第二十九代欽明天皇の頃から次第に「氏名+姓名+実名」という順に変わっていく。(中略)

「氏名+実名+姓名」の例
紀(氏名)男麻呂(実名)宿禰(姓名)、 穂積(氏名)磐弓(実名)臣(姓名)

「氏名+姓名+実名」の例
大伴(氏名)連(姓名)狭手彦(実名)、 葛城(氏名)直(姓名)瑞子(実名)


2014.5.29 名字の歴史学 姓

「名字の歴史学」(奥富敬之著、角川選書)から引用

尊卑の序列を示す姓名
大和朝廷に連合あるいは臣従した際、その氏の身分の高下によって氏上に授けられた尊称で、それなりに尊卑の序列があった。つまりは、のちの爵位のようなものだった。
姓名は、真人・大臣・大連・臣・連・宿禰・君・造・公・直・首・史・忌寸・県主・村主など二十種類ほどあった。いずれにしても姓は天皇が与えるものだった。天皇が姓を与えることを「賜姓」といった。そして与えられた姓名を名乗るとということは、天皇を自分より上位の存在と認め、天皇に対する忠誠を誓うという意味があった。したがって、天皇とその一族には姓はない。


2014.5.28 名字の歴史学 氏

中国では皇帝から賜った姓を今でも使うので名字の数が少ない。日本でも天皇から賜った姓は少ないが、地名や職業をあらわす苗字を名乗る習慣があるので、名字の数が多い。というようなことを知ったかぶりをして誰かに言ったのですが、心配になって「名字の歴史学」(奥富敬之著、角川選書)を読んでみました。大変面白かったので、引用します。

氏名とは氏族の名称
日本最初の統一王朝である大和朝廷は、ひらたくいえば氏族連合政権だった。多くの氏族が天皇の下に寄り集まって、ひとつの政権を構成していたのである。(中略)氏族の数は、かなり多かった。六四五年の大化改新より以前で、100を超えていたらしい。(中略)そのなかには蘇我・葛城・巨勢・阿部・香山・当麻・平群・宇治・飛鳥・大和・桜井など、大和国の地名に由来したと思われる氏名が、大和朝廷だけに多い。
しかし、大和国内以外の地名に由来した氏名も少なくなく、国名に由来したものとしては、出雲・淡海・津島・尾張・筑紫・毛野・吉備・高志などがある。(中略)
氏族の職能を明示した氏名も多く見られる。たとえば中臣氏は、神と人間との間に立って祭祀を司っていた。忌部氏は身を潔めて神に奉仕した。物部氏の「モノノベ」の語源はモノノケ(物の化)であり、モノ(武器)を持ってモノノケなどを討つのが一族の職能だった。大伴氏は多くの兵を伴って朝廷の軍事を担当した。


2014.5.27 Lerebours - Vallantin - Colas

L. F. Colas eleve de Lereboursの持ち主の中将姫光学からレンズのコバに手書きがあると聞き、確認すると、ありました。


Vallantinとはっきり読めます。1840年から1856年までLEREBOURS親方の店の職長だった、あのVallantinです。このサインには見覚えがあります。Vallantinはレンズ作りの名人で、1856年にLerebours親方から独立して自分のレンズ工場を立ち上げました。Lerebours親方の弟子だったColasが独立してカメラを販売する時、先輩のVallantinからレンズを仕入れたのだと思われます。

このへんの事情を解説した資料はないので、Colas氏が独立する日のことを想像すると、次のようになると思います。

Lerebours親方:
従業員のみなさん、このたびColas君が独立して自分の店をはじめることになりました。
Colas君、おめでとう。長年うちの店で働いてくれてありがとう。これからは自分の店で頑張って。

Colas:
ありがとうございます。ひとつお願いがあります。私は一生懸命働いてきましたが、世間には無名です。無名の私にカメラが売れるか心配です。カメラとレンズに「ルルブール親方の弟子のコラス」と刻印することをお許しください。

Lerebours親方:
もちろん。のれん分けさせてもらいますよ。ただし、このまえ独立したVallantin君には気をつかうように。Vallantinが「ルルブールの職長バランタン」を名乗っているんだから、それより控え目に刻印するように。

Colas:
もちろんですとも。私は弟子で十分です。Vallantin先輩からレンズを仕入れなければ、うちはカメラを作れませんから。

Lerebours親方:
おお、神よ。Lerenours-Vallantin-Colasグループにご加護を。アーメン。


2014.5.26 L. F. Colas Lerebours

L. F. Colas eleve de Lerebours Paris No 1157

Vade Mecumには次のように記載されています。

L.F.Colas, France.
M. Lerebours の弟子のColas氏の1860-1870頃のレンズメーカー。。ポートレート用のペッツバールレンズにそのように刻印されている。製造番号580番は"Record Rapid RRS III"(ラピッドレクチリニア)。

このレンズは1157番ですから580番にラピッドレクチリニアより新しいと思われます。たぶん1870年頃のレンズ。



典型的なペッツバールレンズ。


ブロニカの中間リングに52-58mmステップアップリングを接着。座金はBOUTRAISと同じ直径です。


EOSに装着したところ。


2014.5.25 A. BOUTRAIS Paris 3510

A. BOUTRAIS OPN Paris 3510 (5.5 inch)

D'Agostini氏の"PHOTOGRAPHIC LENSES of the 1800's in FRANCE"という本にA. BOUTRAIS社がその他の小さなダゲレオタイプ用のレンズメーカーとして一行だけ紹介されていますが、その他に情報は見つかりません。ダゲレオタイプおよび湿板写真の時代(1840-1870)、パリには小さなレンズ工場が相当数(50社くらい)あったようです。


No 3510 A. BOUTRAIS OPN Quai des Grands Augustins 39, Paris


典型的なペッツバールレンズです。


ブロニカの中間リングを接着し、さらに52-58mmステップアップリングを接着。


EOSに取り付けたところ。


2014.5.24 ABRAHAM LIVERPOOL 4214

ABRAHAM & Co LIVERPOOL 4214

中将姫光学から改造依頼のABRAHAM。ABRAHAMはVade Mecumにも記載されていません。http://www.midley.co.uk/sourcetexts/liverpool_dag1839_wood.htm から引用します。

(1839年8月19日にフランス学士院でダゲレオタイプが発表されると、10月には早速イギリスのリバプールでも展示会が開催された。)1839年10月の第四週、リバプールの新聞三紙にダゲレオタイプのデモンストレーションに関する小さな広告が掲載された。三紙は同じ週の異なる曜日に発行。23日(水)にはLiverpool Courier紙、25日(金)にはLiverpool Mercury紙、26日(土)にはLiverpool Chronicle紙。

### ダゲレオタイプ展示会 ###
ダゲール氏監修の元で製造されたダゲレオタイプ機材により見たものがそのまま絵になる。Quai de la Megisserieを撮影した作品と、興味深い製作方法を展示。毎日11時から4時まで58, CASTLE-STREET(飛脚屋の隣)にて開催。入場料1シリング。
ダゲレオタイプの注文は展示会で受け付け。または、20, Lord-streetのA. ABRAHAM社でも注文可能。

この記事から、A. ABRAHAM社がリバプールの光学機器商であり、ダゲレオタイプ発表に2が月後に展示会と機材の受注を行っていたことが分かります。

へたくそな刻印です。フランスかオーストリアから輸入したレンズに(イギリス国内で調達した可能性もあります)、丁稚さんが刻印したのだと思います。社名が読みづらいので親方から怒られたかも。明治時代には日本でも浅沼商会と六櫻社が輸入品に刻印をして販売していました。


典型的なペッツバールレンズです。絞り機構が全くないので、1840年代または1850年代初頭のものだと思われます。


座金は後で作られたものだと思います。これに52mm-67mmステップアップリングを接着。


EOSに取り付けたところ。


2014.5.18 JAMIN DARLOT 24921

ANCNE MON JAMIN DARLOT, SR OPTN BTE S.G.D.G 14, r. Chapon, Paris 24,921
Vis a Portrait, Vis a Paysage

中将姫光学から借用したJamon DarlotのCone Centralisateurと呼ばれるタイプのレンズ。後玉を取り付ける金属部分が円錐形をしているのが特徴です。Canonのズームレンズと比較して計測したところ、135mm F4.5程度。このレンズとしては焦点距離が短いです。サイズも小さく、デジカメで使いやすいです。


高級感あふれる外観。フードは失われています。


シリアル・ナンバーから1864年(文久三年)頃に製造されたものだと思います。


前後のレンズ4枚を使えば人物用ペッツバールレンズ。前玉だけをひっくり返して使えば風景用。レンズが高価だった時代ですから、人物・風景兼用というのはセールスポイントでした。


一般的なペッツバールレンズです。後玉を大きくすることによってイメージサークルを広げているのだと思います。


フードが無いと使いにくいので、真鍮のキャップを改造して、フードを製作しました。


後玉が見えるように改造するよう依頼がありましたので、レンズ後部に52mmのスクリューを接着。


52mm-62mmのステップアップリングがぴったり合います。


改造完了。


2014.5.16 Rofs 再改造

A. Ross Rofs London 6008 (1859年頃製造)はPentax 67マウントに改造してあったのですが、大きいし、接写がきかないので、M52-M42ヘリコイド用に再改造しました。実際には、Pentax 67 - M52アダプタを製作し、Pentax 67マウントのレンズがM52-M42ヘリコイドで使えるようにしました。


左側が製作したPENTAX 67 - M52アダプタ。


アダプタを接続したところ。


Pentax 67中間リングにNH-24フードを接着。革できっちりとスペーサを作って、きつくねじ込んで接着していますので、十分な強度があります。さらに、52mm-62mmステップアップリングを使って52mmに変換しました。ステップアップリングの内面反射を防止するため、植毛紙が貼ってあります。筒の中で一番細いところの反射が、写真に悪影響を及ぼします。ここをきっちり処理すると、コントラストが高くなります。


カメラに装着したところ。M52-M42ヘリコイドはPentax 67ヘリコイドに比べてトラベルが長いので接写ができます。


2014.5.15 メラミン・スポンジ

風呂場の洗面器などの湯垢を取るのに苦労していたのですが、なにげなくスーパーで買ったメラミン・スポンジを使うと恐ろしいほど良く落ちました。水をつけてさっと擦るだけです。メラミン樹脂は強力な研磨剤のようです。

ただし、スーパーで売っているメラミン・スポンジはそれなりに高価(石鹸くらいの大きさで250円くらい)です。使うたびに激しく消耗するので三回くらいしか使えません。

しかし百円均一ショップでは大きな袋に3個くらい入ったのが百円で売られています。形が不揃いのものなら、スーパーで売っているのの10倍くらいの大きさの物が百円でした。百均恐るべし。


4014.4.22 Voigtlander Wien再再改造

一年半ほど前に再改造を行って使い勝手が良くなったVoigtlander Wienのペッツバールレンズですが、ヘリコイドに直接接着するという素人っぽい改造だったので、ヘリコイド脱着式に再々改造しました。


レンズのネジを眺めていると、だいたい58mmなので、試しに52mm-58mmのステップアップリングにねじ込んでみると、ぴったりと合います。この状態で52mmのヘリコイドに入ります。結果的には改造は不要で、52mmヘリコイドと52mm-58mmのステップアップリングを購入すれば使える、と言えます。フォクトレンダー氏が163年後の現代にタイムトラベルしてきたら、いまだに58mmスクリューを使っているのかと、驚くかもしれません。




ついでに、自作のレンズフードの取り付け方法を変更。以前は銀色の金具を使用していたのですが、結構違和感がありました。これを撤去し、真鍮のフードが直接装着できるようにしました。


2014.4.21LEREBOURS et SECRETAN

No 9692 LEREBOURS et SECRETAN a Paris
1855-1858年にパリのルルブール社で製造されたペッツバール型レンズ。シリアルナンバーから、たぶん1856年(安政三年)頃だと思います。

刻印が読めるようにコントラストの高い写真を掲載しています。実際は下の写真のような色です。


典型的なペッツバール型レンズ。


フランジ金具に52-67mmステップアップリングを接着して改造完了。


金属製のキャップが付属していますが、スカスカでうまく止まらないので、革製のキャップを製作。後で気づいてキャップの内側に植毛紙を貼ったら、ぴったり止まるようになりました。


2014.4.20 C. Français

No 1638 C. Français Paris
çのHTMLのコードはç

中将姫光学さんから改造依頼のあったC. Françaisのレンズ。1872年(明治五年)にパリで製造。

(Corrado D'Agostini氏の本から引用)
Jean Pierre Emil Francais(1830-1890)は1865年頃から光学機器の製造を始めた。フランス式の組み合わせレクチリニアレンズ、ペッツバール型レンズ、ラピッドレクチリニアF8、エクストラ・ラピッドF7、ユニバーサル・ラピッドF7、広角レンズ、などがある。


この向きだと人物用のペッツバールレンズ。フランジ金具をひっくりかえして上方に取り付けて、前群の貼り合わせレンズだけを使用すると風景用レンズになります。そのため。フードにフランジ金具を取り付けるスクリューが切られています。


最初は後群レンズが逆向きに取り付けられていたためソフトでしたが、正しい向きに取り付けるとシャープになります。シャープな人物用、ソフトな人物用、風景用の三種の使い方ができたようです。


第二群のメニスカスレンズの鉛筆書き。1872は製造年だと思われます。


R138とも書いてあるのですが、意味不明。


このレンズにはピント合わせ機能が全くありません。木製暗箱の時代にはレンズにピント合わせ機能が付いていたのですが、蛇腹が一般化すると、レンズ側のピント合わせ機能は不要になりました。


ニコンのフードにフランジ金具を接着して、改造完了。


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