EOS10D日記その40 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2010.8.27 Carl Zeiss 1925/26

538,998番から635,458番までの49,148本。前年とほぼ同じ。内訳は次の通り。

Triotar F6.3 568 本
Triotar F3-3.5 616本

Tessar F2.7 1,442本
Tessar F3.5 1.886本
Tessar F4.5 35,779本
Tessar F6.3 6,138本
Tele-Tessar 279本

Protar F18 617 本
Protarlinse F12.5 618 本

Apo-Planar 9 本
Apo-Tessar 319 本

1926年4月 アサヒカメラ創刊。
1926年9月 ドイツが国際連盟に加入し、常任理事国となる。


2010.8.25 シャープLC-46DX2でDVDがうまく再生できない

地デジ対応で数ヶ月前にシャープのアクオスLC-46DX2を買いました。13年前に買ったDVDレコーダーが故障したので、ブルーレイ・レコーダ付きの機種にしました。ちょうどLEDのテレビに替わる直前だったので、相当安かったのです。配線なしで録画もDVD/ブルーレイ再生もできるのですっきりして良かったと喜んでおりました。ところが、使うにつれて問題発覚。やはり、テレビとレコーダーは別の方が良かったかなぁと最近は思ってます。まあ、ブルーレイなしのテレビと値段は変わらなかったので、それほど大きな問題ではないような気もします。

問題1: レンタルDVDの再生が時々止まる。映画の後半になると画像の動きが頻繁に止まり不愉快。時々画面が真っ暗になる。どうやらドライブのDVD読み出し能力不足のよう。13年前のDVDレコーダーで問題なく見られていたDVDが最新のドライブで見られないのはショック。

問題2: ブルーレイ・ドライブのリモコンに対する反応が遅い。10秒以上反応がないことも。プロセッサの処理能力不足が疑われる。このドライブはせっかちな人向きではありません。

問題3: Copy Onceのコンテンツを外部入力から録画できない。たとえば、ケーブルテレビのチューナーから出力したBSの画像。ケーブルテレビ会社に聞くとCopy Onceはブルーレイに録画できるはずとのこと。シャープに聞くとCopy Onceはハードディスクには録画できるが、ブルーレイには録画できないとのこと。結局ケーブルテレビのチューナーをハードディスク付きに替えるか、BSアンテナを立てるかしか対策はないようです。

うちの当たりは電波が弱いのでケーブルテレブを入れていますが、地デジとBSのアンテナを立てている人で、なおかつDVDは見ずブルーレイ専門という人には、全く問題ありません。Webを調べてもこのような問題が報告されていない所を見ると、うちだけの問題かもしれません。


2010.7.31 Carl Zeiss 1924/25

538,998番から586,335番までの47,338本。前年より73%増加。2年前よりは少ないですgあ、急速に出荷量が回復しています。レンテンマルクの発行やドーズ案成立などで、ドイツの政情が改善したのだと思います。やはり国家が危機を脱するには、政府の毅然とした態度と国際的支援しかないようですね。内訳は次の通り。

Icar/Triotar F6.3 1,348 本
Triotar F3-3.5 862本

Tessar F2.7 3,068本
Tessar F3.5 1.706本 Kinamo
Tessar F4.5 32,958本 Heidoskop, Richard, Citoskop, Bebe, Compur, Ihagee,
Tessar F6.3 4,586本 Ernemann
Tele-Tessar 299本

Protar F18 522 本
Protarlinse F12.5 1,087 本

Apo-Planar 17 本
Apo-Tessar 390 本

Sucher Triplet F4.5/6.5cm Heidoskop
Sucher Triplet F4.2/7.5cm Rolleiflex

前年に登場したBiotarが出ていませんが、F1.8/50mm, 40mm, 20mm などは映画用に少量作られていると思われます。Tessar F2.7は15mmから165mmまであって、いろいろな使い方をされたようです。

広角レンズについては、新しい型のレンズが出ていない関係で、依然Protar F18が出荷されています。長寿レンズですね。


2010.7.29 Carl Zeiss 1923/24

511,685番から538,997番までの27,313本。前年より半減。内訳は次の通り。

Biotar F1.8 7本

Icar/Triotar F6.3 345 本
Triotar F3-3.5 202本

Tessar F2.7 60本
Tessar F3.5 1.557本
Tessar F4.5 20,409本
Tessar F6.3 1,557本
Tele-Tessar 265本

Protar F9 25 本
Protar F18 370 本
Amatar F6.8 963 本
Protarlinse F12.5 1,031 本

Apo-Planar 10 本
Apo-Tessar 354 本

Magnar F10 8本

1923年
10月 ドイツでマルク暴落に対して暫定通貨であるレンテンマルクの発行を決定
11月 アドルフ・ヒトラーミュンヘン一揆

1924年
4月 イタリア総選挙でファシスト党が勝利
5月 米国排日条項を含む移民法が成立。
8月 ドイツ賠償問題に関するドーズ案成立

ドイツは危機的状況にあったようですので、ツアイスの減産もやむを得ないと思われます。そんな中でも、Biotar F1.87本(1924年4月。20本との説も)、Tessar F2.7 60本の出荷が開始されており、設計部隊は一応機能していたと思われます。


2010.7.24 Carl Zeiss 1922/23

448,805番から511,684番までの61,880本。前年より一万本上増加。内訳は次の通り。

Icar/Triotar 21,92 本

Tessar F3.5 4.956本 (ほとんどが40mmでKino, Kinamoに出荷)
Tessar F4.5 46,391本(Heidoscop, Richard, Argus, Citoskopが出荷先として記載されています)
Tessar F6.3 6,048本
Tele-Tessar 503本

Protar F9 13 本
Protar F18 311 本
Amatar F6.8 131 本
Protarlinse F12.5 1,006 本

Apo-Planar 4 本
Apo-Tessar 200 本

Magnar F10 5 本

Tessar F4.5の生産に集中しているようです。この年はこんな出来事がありました。
1922年(大正11年)11月 トルコ革命 オスマン帝国滅亡
1922年(大正11年)11月 イギリス放送会社がラジオ放送を開始
1922年(大正11年)12月 ソビエト連邦成立
1923年(大正12年)1月 フランスベルギードイツの賠償不払いを口実にルール地方を占領
1923年(大正12年)9月 関東大震災発生

ドイツの賠償金不払いが重大な問題となっていたようです。ツアイスは新レンズの開発より、高く売れるTessar F4.5の生産に集中せざるを得なかったのかもしれません。


2010.7.19 Carl Zeiss 1921/22

395,365-448,804番までの54,440本。前年より一万本上増加。内訳は次の通り。

Icar/Triotar 2,808 本

Tessar F3.5 2,638 本
Tessar F4.5 38,737 本
Tessar F6.3 7,059 本
Tele-Tessar 452本

Protar F9 4 本
Protar F18 352 本
Amatar F6.8 188 本
Protarlinse F12.5 1,881 本

Apo-Planar 4 本
Apo-Tessar 185 本

Magnar F10 17 本

小型カメラの発展により、ツアイスに大口の注文がが入るようになるます。Tessar F4.5/75mmは1921年12月に1,000本、1922年3月にも1,000本、同年4月に2,000本、6月1,000本出荷されています。Tessarはツアイスのカメラメーカー育成の成果です。いよいよ大衆がカメラを使うようになります。(ただし、当時はほとんどがアメリカ人かも?) イエナのガラスの販路は、数個単位の特注品から、数千本単位の標準品へ広がりました。。


2010.7.16 Carl Zeiss 1920/21

351,435-395,364番までの43,930本。前年とほとんど変わらい出荷本数。内訳は次の通り。

Icar/Triotar 1,874 本

Tessar F3.5 2,443 本
Tessar F4.5 29,258 本
Tessar F6.3 7,718 本
Tele-Tessar 179本

Protar F9 26 本
Protar F18 247 本
Amatar F6.8 186 本
Protarlinse F12.5 1,711 本

Apo-Planar 1 本
Apo-Tessar 148 本

Magnar F10 15 本

テッサー全盛期が続いています。エルネマンではベルテレがエルノスターF2の開発を進めており、テーラーホブソンではリーがオピックF2の設計に成功しました。しばらくすると「第一次大口径開発競争」と呼べるような事態が起こるのですが、まだその兆候は見られません。


2010.7.12 飛鳥(19) 遷都と易

以前、易で自宅を占おうとしていたのですが、それよりもっと重要なことに気付きました。近江京、藤原京、平城京、長岡京、平安京などの日本の首都は、きっと易経に従って建設されたに違いありません。易で占えば、遷都の理由が明らかになるかもしれません。自宅は資金の関係や、駅へのアクセスや、建築規制によって自由に建てる場所を選べませんが、古代の天皇は自由に首都の場所を選べたはずです。天皇は易経に従って首都の場所を決定したに違いありません。あるいは、適当に自分の好きなところに首都を建設した後で、易経を都合よく使って反対者を黙らせたのかもしれません。


2010.7.11 Carl Zeiss 1919/20

310,415-351,434番までの41,020本。前年の約1.5倍の本数を出荷しています。内訳は次の通り。

Icar/Triotar 4,804 本

Tessar F3.5 1,460 本
Tessar F4.5 20,626 本
Tessar F6.3 11,009 本

Protar F9 77 本
Protar F18 276 本
Amatar F6.8 782 本
Protarlinse F12.5 1,693 本

Apo-Planar 4 本
Apo-Tessar 133 本

Magnar F10 24 本
Special Lens for Miltary 47 本

1919年10月 孫文らが中国国民党を創立
1920年1月 国際連盟成立 ヴェルサイユ条約批准
1920年3月 日本で株価が大暴落し、戦後恐慌が起こる。
1920年5月 東京の上野公園で日本最初のメーデー開催

世界各地で民衆の蜂起。共産党革命などが起こります。これは多分中産階級、すなわち現金を持った人、の数が激増したことを意味し、カメラやレンズが爆発的に売れる条件が整ったのだと思われます。それまでは先進国のわずかな写真館や一部の金持ちにしか売れなかったレンズが(従ってポートレートレンズが多い)、万国の労働者(とはいえほとんどがアメリカ人かも?)に売れるようになったわけですから、それはもう桁が違います。


2010.7.9 Carl Zeiss 1918/19

283,335-310,414番までの27,080本。第一次世界大戦前の水準に一気に戻っています。戦争で工場が破壊されなかったということだと思います。内訳は次の通り。

Icar/Triotar 4,164 本

Tessar F3.5 599 本
Tessar F4.5 13,256 本
Tessar F6.3 6,403 本

Protar F9 33 本
Protar F18 256 本
Amatar F6.8 819 本
Protarlinse F12.5 1,066 本

Apo-Planar 3 本
Apo-Tessar 64 本

Magnar F10 19 本
Special Lens for Miltary 268 本

Tessar F4.5はいきなり戦前より多くなっていますので、人気が高かったのだと思います。
1918年11月 ドイツのキール軍港で水兵が反乱を起こす。ドイツ革命が始まる。オーストリアが共和制に移行。ハンガリーが独立宣言・共和制に移行。
1919年1月 第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催。
1919年6月 ドイツが連合国ヴェルサイユ条約を締結。


2010.7.7 飛鳥(18) 藤原京

藤原京のことはほとんど知りません。ちょっとWebで調べてみたのですが、やはりよく分かりません。今度奈良に行ったら、畝傍山と耳成山と香具山に登ってみたいと思います。藤原家の始祖である藤原鎌足も、その出身地から藤原姓を賜ったようですが、これは藤原京が出来る前の話で混乱します。ちょっと”藤原”関係の年表を作ってみました。藤原を解明する手掛かりにかるかも。

614年(推古天皇22年) 奈良県橿原市藤原に中臣鎌足が生まれる
645年(皇極天皇5年、大化元年) 中大兄皇子、石川麻呂、中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺
659年(斉明天皇5年) 藤原不比等が藤原鎌足の次男として生まれる
669年(天智天皇8年)、中臣鎌足没。天智天皇より藤原姓を賜る
676年(天武5年) 藤原京着工?
690年(持統4年) 藤原京着工?

694年(持統8年) 飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都。持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都であった。
698年(文武天皇2年) 藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。
701年大宝元年) 藤原不比等らが大宝律令を完成
707年(慶雲4年) 平城京遷都に関する審議開始
708年(和銅元年) 元明天皇により平城京遷都の詔
710年(和銅3年) 藤原京から平城京へ遷都

711年(和銅4年) 藤原京の宮殿が火災?
712年(和銅5年) 古事記成立
720年養老4年) 藤原不比等

ひょっとして藤原京は藤原不比等が主役だったのかもしれませんね。天智天皇や天武天皇兄弟のような天皇親政は一時的なもので、実際の政務が蘇我氏から藤原氏に移る過程に藤原京があったような感じがします。


2010.7.6 Carl Zeiss 1917/18

269,960 - 283,334番までの13,307本を出荷。内訳は次の通り

Icar/Triotar F6.3 1,955本
Tessar F3.5 175本
Tessar F4.5 5,648本
Tessar F6.3 2,679本

Protar F9 29本
Protar F18 253本
Doppel-Amatar F6.8 487本
Protarlinse F12.5 699本

Apo-Planar 5本
Apo-Tessar 52本
Magnar F10 21本

Special Objektive for Military 1,225本

1917年11月ロシア十月革命。1918年7月富山で米騒動。第一次大戦の影響は日本にも及び、大戦景気で米価が高騰。さらに日本政府がシベリア出兵を宣言したことにより、米価は暴騰します。

ツアイスのレンズの出荷本数は前年とほとんど変わらず。軍用の特殊レンズが1,225本出荷されたとの記録があります。


2010.7.5 ユーザー車検

15年くらい前から一度受けてみようと思いながら、諸々の事情で受けられなかったユーザー車検を受けました。初めてのことなので少し緊張しましたが、何とか無事に終わりました。初めは不安でしたが、終わってしまえば、至って簡単なので、要点をまとめておきます。「ユーザー車検」で検索すると丁寧に解説したサイトがたくさんあります。例えば神奈川運輸支局 

1. 初めてユーザー車検を選択する基準
1.1 割と新しい車でどこも壊れていない。どこも直さなくても車検が通りそう。
1.2 今後しばらく買い替える予定がない。
1.3 役所での手続きが好き。(私は主にこれに該当します)
1.4 どうしても車検費用を節約したい。(車検代行屋に頼むと一万円くらい。予備検屋を使ってユーザー車検をすると三千円くらい。その差は約七千円。七千円のために半日会社を休んだ方が得か考える必要があります。

2. 準備するもの
2.0 車
2.1 車検証
2.2 自賠責証明書(予備検屋でも入れる。新旧2枚必要)
2.3 納税証明書(5月に払った自動車税の証明書)
2.4 点検整備記録簿(自分で24ヶ月点検をします。書式はこちらなど) 不明のところは空欄でよい。予備検で聞いてもよい)
2.5 認印。鉛筆。ボールペン。書類を止める板のようなもの。100円ショップでも買えます。A4の板(あるいは下敷き)にクリップで止めてもOK)
(以下の書類は神奈川運輸支局の敷地内の別棟にある神奈川県自動車会議所で購入します。1セット20円。安い。十分現地で書けます)
2.6 継続検査申請書(OCRのところ、すなわちナンバーと車体番号、は鉛筆で記入。住所氏名はボールペンで記入。捺印)
2.7 自動車重量税納付書(日付、ナンバー、氏名、住所。重量税の金額は重量税を払う時に聞けば、向こうで書いてくれます。
2.8 自動車検査票(ナンバー、エンジン型、車体番号、住所、氏名、走行距離は書かなくてもOK)

3. 検査手順

3.1 前日までに国交省の自動車検査インターネット予約システムで予約します。神奈川運輸支局の場合、翌日の午後の予約なら、前日でOKです。朝一番に予約した方が良いと書いてらう場合が多いですが、今の時期でしたら、午後でも問題なさそうです。急に行けなくなった場合キャンセルをお忘れなく。

3.2 自分で24ヶ月点検をします。書式はこちらなどからダウンロードするのが手軽。分からないところは予備検屋で聞きましょう。実際問題、最近の車は自分ではほとんどいじれないので、ボンネットを開けて、冷却水、ウォッシャー液、ブレーキオイルの量を確認するくらいしかできません。オイルゲージは存在しないので、ハンドルに付いているメニューボタンで確認。

3.3 当日、予備検屋に行きます。私はヨビケンにお願いしました。予約不要。ユーザー車検だからといって嫌がられることはありませんでした。昼前に行ったら空いていて、即予備検査開始。ライト類、ブレーキ類、、排気ガス、下回りチェック(頼まないとやってくれません)などがセットで三千円。ただしスピードメータの検査はできません。最近の車はスピードメーターが狂うことはないので特に問題ないとのこと。所要時間約10分。

3.4 二灯式のヘッドライトの場合、予備検屋がロービームを新聞紙とテープで覆ってくれます。車検で検査するのはハイビームのみ。検査後取るのを忘れないように。私はロービームとハイビームの位置が逆だと思っていました。自分の車のヘッドライトを見ることは普段ないですからね。それに、フォグランプの点灯の方法が初めて分かりました。今まで一度も使ったことありません。そういえば、納車のときに営業の人から聞いたような気もします。

3.5 予備検屋で自賠責に入ります。すぐに終わります。22,470円。どこで入っても同じ値段だそうです。

3.5 神奈川県自動車会議所を用紙3枚セットを買います。20円也。書類をその場で書きます。OCRのところは鉛筆書きですが、他はボールペンで。継続検査申請書に二カ所捺印を忘れずに。

3.6 神奈川県自動車会議所で重量税の印紙(5,000円/0.5トン(車両重量あたり)/年 ですから、車重が1530Kの場合5,000円 x 4 x 2年 = 40,000円也)を購入。車検証を見せれば自動車重量税納付書に正しい金額を記入して、印紙を貼ってくれました。ついでに、検査手数料の印紙(3ナンバーだと1,800円)も購入。こちらは自動車検査票に貼ってくれます。

3.7 神奈川県自動車会議所で納税確認をします。納税証明書と車検証を見せると、内容を確認後、車検証にハンコを押してくれます。納税証明書は返してくれません。これで書類が全て整いました。

3.8 予約した時間に神奈川運輸支局の7番窓口(受付、ユーザー車検)に書類を提出して受付をします。神奈川運輸支局の場合、13時から14時15分の予約をした場合、13時から14時15分に受付すればOKです。13時より前に行かなければいけないわけではありません。

3.9 見学コースに行って、じっくり他の人の検査の様子を見ます。手前の7番レーン(自動検査)の横に見学コースがありますので、ここで行われていることをよく見て覚えます。

3.10 車に乗って検査の列に並びます。どのレーンに並んでもよいようでしたので、先ほど見学した7番レーン(自動検査)に並びます。列に並んでいる間に、他の人がやっていることをよく観察します。

3.11 係員の人がやってきますので、自動車検査票を一番上にして書類を全部渡します。慣れた人は係員の簡単な合図で検査を受けていますが、初めての人は戸惑いますので、分からなかったら係員に聞きましょう。先ほどじっくり観察したことをマネしましょう。
○ 右ウインカー
○ 左ウインカー
○ ウインドウ・ウオッシャー液を出しながらワイパーを動かす
○ クラクションを鳴らす
○ ギヤをバックに入れて後退灯の確認
○ ハザードランプの点灯
○ フォグランプ点灯
○ ボンネットを開ける
○ 車体番号のチェック(どこの車体番号を読んでいるのか分かりませんでしたが、とにかくOKでした)

3.12 ゆっくり前に進む。サイドスリップ・テスト(どうやって測っているのかは不明)。多分ここで次の行程のためにホイールベースを測っているのだと思います。ここでは、ただゆっくりと次の停止線まで進むだけです。簡単。

3.13 ブレーキテスト、スピードメータテスト。いよいよクライマックスです。先ほど測定されたホイールベースに合わせて自動的に調整されたローラーの上に4輪を乗せて停止します。順番はちょっと違うかもしれませんが、次のような項目を実施。
○ スピードメーターテスト。時速40kmまで加速し、速度が安定したところでパッシングをします。私は速度が安定しないのにパッシングをしてしまったので、不合格の表示。再度スピードメーターテスト。さっき不合格だった理由がわからなかったので、再度不合格。
○ ヘッドライトテスト。ハイビーム点灯。右左とも合格。ロービームの方は検査対象外なので紙で覆う必要がある。
○ ブレーキテスト。ローラーがゆっくり回るので、思い切りブレークを踏む。合格。
○ サイドブレーキテスト。同様に思い切りサイドブレーキを引く。合格。
○ ここで、スピーカーから係員の声が。「スピードメータテストやりなおします。40kmで安定してからパッシングして下さい」 やっと理由が分かりました。ゆっくり時速40kmまで加速して、安定してからパッシングすれば良いようです。見事合格。自動テストと言っても、係員がパッシングの様子を見て判定しているようです。明らかに初心者だと分かったので、指導して頂いたのでしょう。まあ、1800円払って検査を受けているわけですから、それくらいのサービスはしてもらってもいいでしょう。実はローラーの上で40kmまで加速するのは、不安でした。何かの拍子に車が暴走するのではないかという一抹の不安。スピードテストを二回失敗して、決して暴走しないことが分かったので、三回目は余裕です。当たり前ですが、車はハンドルを切らなければまっすぐ進みます。
○ 車を前に進めて、排気ガスのテスト。棒をマフラーに突っ込むと、自動的に検査開始。合格。
○ ここで自動車検査票を機械に入れて自動刻印
○ 車を前に進めて、下回りの検査。地下にいる検査員の方がやってくれます。電光掲示板に『エンジン停止」、「ブレーキを踏む」、「サイドブレーキを引く」、「ハンドルから手を離す」など指示が出ますので、停止したまま指示に従います。車が地震の用に揺れますが、これは振動試験です。
○ ここで再び自動車検査票を機械に入れて自動刻印
○ 近くのブースにいる検査官に書類を見せて総合判定。全部OKなので、問題なくハンコを押してくれました。これでめでたく検査完了。
○ 神奈川運輸支局の6番窓口(継続検査、検査標章の交付)に全書類を提出します。すぐに、名前を呼ばれて、新しい車検証と、フロントガラスに貼るステッカーがもらえます。
○ フロントガラスのステッカーをはがして、新しいのに貼り替えます。手ではがすのは難しいと書いてある本もありますが、私は爪で簡単にはがすことができました。
○ 車検証と自賠責は常時車に積んでおきます。嬉しくて家に飾ったりしないように。

以上、終わってみると実に簡単ですし、思ったより合理的。検査料金1800円は妥当。この検査が通らない車両が道路を走るのは危険です。窓口や係員の人も親切ですし、車検場にいるプロの方の邪魔になることもないので、また次もやりたいものです。車検は高いので大嫌いだったのですが、好きになってしまいました。車検はなかなか楽しめるレジャーであることが判明しました。しかし、これは多分最初だけで、次からは緊張もしないかわりに楽しくもない、と思います。

4. かかった経費をまとめます。車は3ナンバーで車重は1530Kg。

20円 申請用紙(神奈川県自動車会議所)
3,000円 民間予備検査(ヨビケン)(自信がある人は受けなくてもいいです)
22,470円 自賠責(ヨビケン)どこで入っても同じ金額
40,000円 重量税印紙(神奈川県自動車会議所、1,530Kgの場合、1,500Kg以下なら30,000円)
1,800円 検査手数料印紙、3ナンバーの場合(神奈川県自動車会議所)
500円 昼食代(神奈川運輸支局の前のそば屋の大盛りそば) 車検に来た人で賑わっていました。他に近くにコンビニあり。)
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67,790円 合計金額(車検合計所要時間約一時間、昼食時間を除く)


2010.7.4 レンズのコーティング

「ミノルタかく戦えり」(神尾健三著、朝日ソノラマ)から引用。

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1941年の11月、日米開戦の直前に日本のドイツ技術調査団が帰国したが、その時、海軍の松尾という大佐は『ドイツではレンズの表面に膜をかぶせて、光をよく通す処理が実施されている」と報告した。(『日本の光学工業史』1955年刊)。調査団はツァイスにも行ったが、そのレンズのコーティングの装置や実施現場の見学は拒否された。ツァイスでは1935年にレンズ・コーティングの技術が完成し、第二次大戦の初期には”T”というマークが付いたゾナーF1.5が発売されていた。ツァイスは同時に特許も取得したが軍事的に極秘とされた。同盟国の日本調査団にも見学を許さなかったのである。
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レンズのコーティングがレンズの透過率を増すことは、イギリスのクック社のデニス・テーラーが1892年に確認しているそうです。それにもかかわらずドイツのツァイスが先行したということは、ドイツの真空蒸着技術が進んでいたということだと思われます。

1943年になると、やっと日本でも潜水艦の潜望鏡にコーティングが行えるようになります。終戦近くになると、海軍は光学兵器を作っている会社すべてにコーティングをやらせることにし、講習会を行いました。また、理研のサイクロトロンの研究に対し、アメリカのローレンス博士から高真空を得るための拡散ポンプの設計図が日米開戦直前に提供されます。サイクロトロンは終戦直前にビームを出せるようになりますが、終戦にともない廃棄されます。そして、これらの真空技術が後に日本のレンズ開発の基礎となったそうです。


2010.7.3 ハンザキヤノンのニッコール

「ミノルタかく戦えり」(神尾健三著、朝日ソノラマ)にハンザキヤノンに使われたニッコール・レンズの解説がありましたので、少し引用します。

1921(大正10)年、日本光学はドイツからハインリッヒ・アハトなど8名の技術者を招きます。この少し前に日本光学に砂山角野氏が入社します。砂山氏は中学を卒業後上京し、検定で物理学校、東大理学部に入学し卒業したという努力家です。ドイツの光学技術(主に望遠鏡)を学んだ砂山氏は1932(昭和7)年にテッサー型のレンズ”アニター”をなんとか設計します。砂山氏は次に35mmカメラ用のレンズの設計にとりかかります。

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ライツのエルマー(テッサー型の50mmF3.5のレンズ)を手に入れ、これを分解し模倣することにした。彼には一つの読みがあった。本格的な写真レンズを作りたい。そのための最高の師はツァイスだが、ツァイスはとてもじゃない高嶺の花の存在だ。その点、ライツはツァイスに比べればウェツラーという田舎にある町工場ようだ。ライツにできることであれば、われわれでも手が届きそうだ。
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砂山氏は1928(昭和3)年に海軍嘱託としてヨーロッパを視察していますので、この認識は常識であったと思われます。しかし、35mmレンズの設計はなかなかうまくいきません。10回以上修正と試作を繰り返しても、性能がエルマーに劣ります。苦心惨憺の末、1935(昭和10)年の末になって、ようやくエルマーに負けないニッコールレンズができます。そして1936(昭和11)年1月、このニッコールを搭載した精機光学研究所(後のキヤノン)の「ハンザキヤノン」が発売されます。翌1927(昭和12)年、砂山角野氏急逝。1887年生まれですから40歳。

町工場だったキヤノンがニコンにレンズの供給をお願いし、大企業だったニコンは余裕で応じた、のだと思っていたのですが、そうでもなかったようです。ニコンが苦心惨憺して完成させてエルマーのコピーを、キヤノンがカメラに取り付けて世に出した、とも言えるようです。


2010.7.2 陸軍と小原光学

1942(昭和17)年1月、海軍から「光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ」との通達がミノルタに届きます。この通達の建議者は呉海軍工廠の光学就任だった日下部鍼次郎大佐でした。
「ミノルタかく戦えり」(神尾健三著、朝日ソノラマ)から引用します。

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大佐は戦争が起きて空襲を受けると、日本が光学ガラスの施設が壊滅してしまう。しかし、海軍系の日本光学も陸軍系の小原光学など、すべて東京地区に集中している。光学ガラスの製造拠点を関西に分散すべきだ。と熱心に主張し、海軍のこの決定になった。通達を手にした田嶋は、双眼鏡どころではないこの大計画に戸惑ったが、軍の命令なら従わなければならない。早速兵庫県伊丹市に土地買い、工場建設に乗り出した。1943(昭和18)年6月、光学ガラス溶融工場がやっと完成し、火入れ式にこぎつけた。
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2010.7.1 海軍とニコン

「ミノルタかく戦えり」(神尾健三著、朝日ソノラマ)に次のような記述がありました。二日前に書いたCooke Aviarが作られたころ、日本の海軍とニコンの光学ガラス製造に記述です。

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第一次世界大戦が始まった翌1915(大正4)年12月、象徴的な事件が起きている。大戦でドイツからの輸入が途切れ、海軍はどうにかフランスのパラマントワ社から光学ガラス4〜5tを入手した。これを積んで日本に向かった八坂丸が、ドイツ潜水艦に撃沈されたのである。これを機に海軍は光学ガラスの自給体制を作る必要に迫られ、造兵厰内の古い鋳物工場の一角に窯場を造り、苦心惨憺して1918年、なんとか使えるものがいくらかできるようになった。海軍はそれから2年後には研究方面のみを担当し、実際に生産はニコンに委ねる決定をした。さらに1923(大正12)年には研究部門もそっくりニコンに譲渡している。
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光学ガラスの製造は難事業だったようです。もし輸入できる情勢であれば、日本の光学ガラスの製造開始はもっと遅れていたと思われます。


2010.6.30 飛鳥(17) 吉野杉(訂正)

私の仮説は、「吉野杉があったため奈良盆地の南部に飛鳥時代が築かれた。法隆寺へは奈良湖を使って木材が送られた。吉野杉を使い尽くすと、北方の田上山の杉に切り替えた。そのため平城京は奈良盆地の北に作られた。」でした。しかし、調べるにつれて、この仮説が誤りであることが分かりました。誤り(多分)は次の通り。

1. 法隆寺などに使われた木材は杉ではなくヒノキ。(塔の見える風景、斑鳩散歩) (Wikipediaヒノキ建築材としての歴史
2. 吉野杉の植林は新しく、飛鳥時代にはまだなかった。(Wikipedia吉野杉
3. 藤原京は既に田上山の檜で造営された。(大戸川の概要
4. 藤原京から平城京へ建物が移築された。(平城京ができるまで
5. 近畿一円でヒノキの巨木が不足しており、遠方からも運ばれた。(Wikipediaヒノキ建築材としての歴史)(吉野杉の特長

多分、ひとつの山から集中的に伐採できたのは田上山くらいで、他は近畿地方の山に点在するヒノキの大木を伐採して使っていたのだと思われます。膨大な労力を費やしてケヤキの巨木を運んだようです。


2010.6.29 COOKE AVIAR 4.5/6in

COOKE AVIAR LENS No 79567 T.T.&H. Ltd Leicester 6inch Series 11 f/4.5

1919年頃の製造と推定。テーラーホブソン社はずっとクックのトリプレットを作ってきたのですが、第一次世界大戦の後、4群4枚のDialyt型(Goerz Celorなどと同じ型)を作り出します。Vade Mecumによると、テッサーをコピーしようとしたが、第一次世界大戦によりショットのガラスが輸入できなかったので、従来のガラスで作れるDialyt型にした、と書いてあるのですが、あまり納得できません。まず、テッサーの特許は1903年から1920年まで有効ですから、第一次大戦中はコピーできないはずです。もしコピーできればROSS社は苦労して後群3枚貼り合わせのXPRESなど作らなくてもよかったことになります。次に、1919年なら既に第一次世界大戦は終わっていますので、ドイツからショットのガラスを輸入も可能だったでしょうし、イギリスが本気になればガラス工場の建設も可能だったと思われます。

可能性が高いのは、どうしてもツアイスのテッサーのまねはしたくない、ショットのガラスは輸入したくない、という気持ちだと思います。しかしこれも納得できません。Dialyt型もGoerzのHoeghが設計したわけですから、ドイツの特許には変わりありません。多分、Dialytは1899年の開発ですので特許が切れていたのと、Dialytならトリプレットの中玉を2枚に分割しただけなのでイギリス伝統の技術である、という言い逃れができたためだと思います。「イギリスのトリプレット」 対 「ドイツのテッサー」、という論争の余波がまだあったように感じられます。


分解したところ。フランジは既にEOSアダプタに組み込んであります。触った感じはGoerzのCelorやDogmarと同じです。レンズを拭いていて感じたのですが、中玉の曲率が緩い。トリプレットだと中玉の曲率がきついのですが、その半分くらい。トリプレットの中玉を2枚に分けて曲率を緩くして生産性を上げたのかもしれません。ドイツでは新種のレンズを使って中玉の曲率をゆるくできたのでしょうが、イギリスでは2枚に分けざるを得なかった。中玉の曲率を緩くすると、一度に大量に研磨できるので、安価に大量に生産できる。ということだったのかもしれません。


EOSアダプタを製作。ちょうど合う部品があったので、わりと綺麗にできました。

でも、やっぱり納得できないなぁ。翌年の1920年になると、テーラーホブソンのリーが屈折率の高いクラウンを使用してF2のOPICを開発します。このガラスはショットのガラスだと思っていたのですが、そうではないかもしれません。いずれにしても、ガラスが輸入できないというのは言い訳にすぎないような気がします。イギリスとドイツの意地の張り合いが状況を分かりにくくしているとも言えますし、これは純粋にイギリスの国内問題であるとも言えます。


2010.6.28 DALLMEYER SPEEDY 4.5/171MM

DALLMEYER SPEEDY F/4.5 F=171MM No117263


このレンズはVade Mecumにも登場しませんし、Googleで検索しても全くヒットしません。シリアルナンバーから製造年は1927年と推定します。


レンズ構成は普通のTessar型です。前玉をはずして絞りを回すと、絞り羽根がぐちゃぐちゃになって一瞬あせりました。


絞り羽根を押さえる金具が前玉で固定されているため、前玉をはずすと金具まではずれて、こんなことになります。


まず、指で絞り羽根を開放の状態にします。


金具をそっと入れて、すかさず前玉をねじ込めば、簡単に治ります。


直ったので絞りを数回閉じたり開けたりしたら、また壊れてしました。今度は羽根が一枚壊れてしまったようです。放置すると被害が拡大しそうですので、壊れた羽根だけ撤去しました。羽根は20枚もあるので、一枚くらい抜けても大丈夫です。


接着剤とガムテープで暫定マウント作成。

Dallmeyer社の1920/30年代のカタログを見ると、標準系では次のようなレンズが出ています。(ペッツバール、望遠レンズなどを除く)

DALLON F5.6-F7.7
Perfac F6.3
Serrac F4.5
Stigmatic F6
Pentac F2.9

F4.5は普通の明るさだったと思います。本家のテッサーはとっくの昔にF4.5が普通になっています。SPEEDYを分解してみると、少しコストダウンされているようですので、廉価版だと思います。Pentac F2.9は超高速の高級品ですので比較対象外でしょう。SPEEDYは廉価版では割と大口径という意味だと思います。

ひょっとしたら、廉価版で部品点数が少ないので、組み立てがSPEEDYという意味かもしれません。


2010.6.27 飛鳥(16) 飛鳥時代の天皇

飛鳥時代は仏教とともに始まったようです。用明天皇は蘇我稲目の孫にして聖徳太子の父であります。崇峻天皇も用明天皇の義理の兄弟ですから、一族で仏教の導入を図ったものと思われます。法隆寺など壮麗な寺院が建立された一方、政治を行う宮殿(治天下、あめのしたしろしめすところ)は飛鳥、難波、大津、藤原京などを転々とします。柴垣宮、板蓋宮など名前からして質素な宮殿のようでして、そんなに長く使えなかったのかもしれません。仁徳天皇稜や法隆寺を見ながら飛鳥に入った外国使節団は、質素な宮殿に落胆したかもしれません。

そろそろ立派な首都を建設しよう、という雰囲気になっても全く不思議ではありません。ところが、法隆寺の建設、たび重なる宮殿の移転、白村江の戦いでの船舶の消耗、農地開発、製鉄用の炭の消費拡大などにより、森林資源の枯渇が始まります。特に平城京建設に必要な杉の巨木は吉野の切り出しやすい場所にはもうなかったようです。

天皇名 治天下 御陵 または トピック
30 敏達天皇 奈良県桜井市 明日香村 古墳時代の最後
31 用明天皇 奈良県桜井市 飛鳥時代の始まり
32 崇峻天皇 倉梯柴垣宮 桜井市倉橋 飛鳥時代の始まり
33 推古天皇 飛鳥豊浦宮小墾田宮 甥の聖徳太子が摂政
34 舒明天皇 飛鳥岡本宮 奈良県桜井市
35 皇極天皇 飛鳥板蓋宮 奈良県高市郡高取町
36 孝徳天皇 難波宮 大阪府南河内郡太子町
37 斉明天皇 飛鳥板蓋宮 奈良県高市郡高取町
38 天智天皇 近江大津宮 山科陵 京都市
39 弘文天皇 近江大津宮 長等山前陵 滋賀県大津市
40 天武天皇 飛鳥浄御原宮 檜隈大内陵奈良県明日香村
41 持統天皇 飛鳥浄御原宮藤原宮 檜隈大内陵奈良県明日香村
42 文武天皇 藤原京 奈良県明日香村
43 元明天皇 藤原京平城京 奈良市奈保山東陵
44 元正天皇 平城宮
45 聖武天皇 平城宮 紫香楽宮 佐保山南陵
46 孝謙天皇 平城宮
47 淳仁天皇 平城宮 淡路国三原郡
48 称徳天皇 平城宮
49 光仁天皇 平城宮
50 桓武天皇 平安京遷都 柏原陵

2010.6.26 Carl Zeiss 1916/1917

256,097番から269,959番までの13,863本。前年より生産数量減少。
1917年2月1日 - 第一次大戦: ドイツ無制限潜水艦作戦を宣言
1917年2月3日 - 米国がドイツと国交断絶
第一次世界大戦の戦況が悪化し、アメリカへの輸出が難しくなったのが減産の主な原因かもしれません。

Icar/Triotar f6.3 2,284本

Tessar F3.5 35本
Tessar F4.5 7,119本
Tessar F6.3 2,152本
Apo-Tessar 29本

Protar F9 35本
Protar F18 179本
Amatar F6.8 265本
Protarlinse F12.5 425本

Magnar F10 21本

Sonderobjektive (Special Lens) fuer Militaer (for Military)
Triplet F4.8-F7 36mm-120mm 1,074本
Fernobjektiv (望遠レンズ) F50 3000mm 3本
Apo-Tessar F9 64mm 2本
S.F.K-linse 145本 (残念ながらS.F.K.が何か分かりません)

ついに軍用レンズが登場します。軍用レンズといっても、主に36mmから120mmのトリプレットですので、普通の35mmからブローニーカメラ用のようです。多分偵察用や戦果確認用に使われたのだと思われます。

第二次世界大戦の日本軍でも当初は飛行機から写真や映画を撮ったり、複数の目撃証言を得るなど、戦果を慎重に確認していたようです。ですから、撃沈した艦船の情報などは正確でした。しかしこれは戦争に勝っている時にしかできません。負けてくると、写真を撮っても持ちかえる手段はなく、証言を得ようにも生還者はありません。戦況を冷静に分析をして正しい作戦をたてるのはもはや不可能で、破滅に向かって突き進むしかありません。


2010.6.25 飛鳥(15) 古墳密集

瀬戸内海帝国を見ても、大阪平野を流れる大和川の航空写真を見ても一目瞭然なのですが仁徳天皇陵に代表される大規模な古墳群大阪平野南部を流れる大和川沿いに密集しています。GoogleやYahooの航空写真を見て驚いたのですが、古墳のショールームという感じです。なぜこの地域に古墳が密集しているのでしょうか?

どうやらここは昔、河内湖の南岸、あるいは河内湖に流入する大和川の南岸にあたるようです。瀬戸内海沿岸、九州、あるいは朝鮮半島から来た船は難波の湊で一旦停泊し、朝廷の許可を待ちます。許可が下りると朝廷の役人が船に乗り込み、飛鳥までの案内をします。船は河内湖から大和川を進み、「右に見えますのが仁徳天皇の墓でございま〜す」、なんて調子で観光案内が始まります。瀬戸内海沿岸から来た人は墓の巨大さに圧倒され、朝廷には逆らわない方が良いなぁと思います。亀の瀬の急流を遡り、奈良湖に入るとそこに壮大な法隆寺の姿が見えます。飛鳥に年貢を納めた後、故郷に帰る船の中で、再び法隆寺と巨大古墳群を目にした人は、来年もまた年貢を納めに来ることを心に固く誓ったのでした。故郷への土産話は、もちろん因幡の白兎と、天岩戸と、ヤマタノオロチです。


2010.6.24 飛鳥(14) 古事記の神話について

古事記にはいろいろな解釈があるようです。日本の有史以前の歴史であることは間違いありません。天武天皇が稗田阿禮に勅語して、『帝記』・『旧辞』を暗誦させたものであることも確かのようです。しかしこの時は文章にはならず、後に元明天皇天智天皇の娘)が太安万侶に文書化させたのだそうです。従って、稗田阿禮は当然天武天皇に気に入られるように暗唱するでしょうし、太安万侶元明天皇とその父である天智天皇に気を使って書いたと思われます。天武天皇天智天皇の息子の大友皇子(元明天皇の腹違いの兄弟)を滅ぼしているのですが、元明天皇天武天皇持統天皇天智天皇の娘)の子の草壁皇子の妻でもあるわけですから、とてもややこしいですが、まあ、天皇家は皆仲良しと考えることにします。

ですので、古事記は天皇家の支配者としての正当性を主張する文書と考えることができます。天皇家は昔何をしたのか、天皇家はなぜ偉いのか、天皇家になぜ納税しなければならないのか、天皇家に逆らうとどういうことになるのか、を分かりやすく解説した説明書だと思っています。神話に込められたメッセージを推測し、仮説を立てることは大変楽しい作業です。何が正しくて何が正しくないか、をあまり気にする必要はないと思います。

私は神話はあくまでも近畿地方の風景の描写であると思っているのですが、もちろん他の考え方にも大いに興味があります。例えば、次のようなホームページは大いに楽しめます。

古代で遊ぼ http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/
縄文弥生変遷地図 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/kkg07.html
弥生初期変遷図 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/08/kkg08.html
弥生後期変遷図 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/12/kkg12.html
神武登場までの総括 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kf12.html


2010.6.23 飛鳥(13) 法隆寺建立

法隆寺建設には吉野杉の巨木が必要だったと思われます。今ですと吉野から斑鳩まで30kmほどの距離を陸送しなければなりません。しかし縄文〜弥生時代の奈良湖推定図で当時の奈良湖や川の様子を見ると、奈良盆地の南東部のどの山から川に木材を流しても、自動的に斑鳩に流れ着きます。斑鳩には吉野杉の集積地のような役割があったのかもしれません。ここから筏を組んで、難波の高津宮まで木材を送ったのかもしれません。


2010.6.22 飛鳥(12) 天岩戸2

縄文〜弥生時代の奈良湖推定図には、大和川の河床を掘り下げて弥生人が奈良湖を消滅させた可能性があると述べられています。大和川は断層の上を通っているので、断層が少し動くと、奈良湖の水位が激変したと思われます。その時のエピソードを天岩戸という神話として記録したのだと思います。法隆寺のあたりの高台から奈良湖の水が引いて行くのを眺めていた飛鳥人は、アマテラスが天岩戸から出てきたのだ感じ、それを後世に言い伝えたのだと思います。


2010.06.21 飛鳥(11) ヤマタノオロチ2

縄文時代の江戸の最後に参考として付いている縄文〜弥生時代の奈良湖推定図が見つかりました。先日私が飛鳥と斑鳩を訪ねた時に見たような気がした風景が映像化されています。これはまさにヤマタノオロチですね。一度大雨の後に二上山に登って奈良盆地を見渡してみたいものです。ヤマタノオロチに見えるか、あるいは飛ぶ鳥に見えるか。

縄文時代から弥生時代、そして飛鳥時代に奈良湖が縮小して行く様子が見事です。ヤマタノオロチが徐々に弱って、飛鳥時代には法隆寺周辺をわずかに残して奈良湖は消滅します。斑鳩の法隆寺を訪れたとき、これは難波から大和川を遡ってくる外国使節を首都の入り口で迎える迎賓館、または外国使節を威圧するモニュメント(自由の女神とか東京タワーとかスカイツリーのような)だなぁと思ったのですが、それ以外にも河川管理事務所、軍事要塞、税関、などの機能があったのかもしれません。いずれにしろ、大陸からやってきた使節団は、奈良盆地の入り口で、奈良湖に映る壮大な法隆寺を見て、日本はなんとすばらしい国だと思ったことでしょう。いや、中華帝国同志はこんな辺境にまで立派な植民地を造ったのか、と思ったかもしれません。もしそうだとしたら、この後日本先住民と渡来人の間で深刻な抗争が起きるのは避けられません。


2010.06.20 飛鳥(10) 河内湖淡水化事業

近畿地方の昔の地形を調べてみたら、うしさん伏見の地形に昔の近畿地方の地形が詳しく出ていました。

130万年前 古大阪湾、古京都湾、古奈良湾は海だった。奈良盆地に海の進入があったのはこの頃まで。
48万年前 寒冷期が訪れ、この後氷河期に入る。海面が100m低下し、京都が陸地化
1万8千年前 最も寒かった時代。氷河が発達し、海面が150m低下し、瀬戸内海全域が陸地化
6千年前 温暖で、今より海水面が2〜3m高かった

古京都湾、古奈良湾は氷河期以前に既に淡水湖化または陸地化しており、古大阪湾=河内湖だけが後まで海だったようです。因幡の白兎の神話は、ひょっとしたら河内湖の淡水化事業のお話かもしれません。私の解釈は次の通り。

『兎(朝廷に依頼された土木技術者)が塩水湖である河内湖の淡水化を目指して、難波宮の先の砂州で土嚢を積んでいた。河内湖周辺を農地化する政策。河内湖の淡水化に反対するワニ(たぶん海賊または漁業関係者)が兎を追う。兎は土嚢の上を飛んで難波宮に戻ろうとするが、最後に追いつかれて傷を負ってしまう。朝廷の中にも淡水化反対勢力があり(八十神)、傷ついた兎に海水を浴びせて妨害をする。そこに淡水化推進派の大国主命が現れ、強引に工事を進め、ついに河内湖の淡水化に成功した。兎は淡水化された河内湖の真水で体を洗い、真水にしか生えない蒲の穂で傷をいやし、農地開拓に励んだ。後に河内湖周辺は穀倉地帯となり、朝廷へ食料を供給した。』

つまり、大阪地方は朝廷の先祖が河内湖淡水化事業により開拓した土地である。この土地を朝廷から奪おうとするとひどいめにあいますよ、という天武天皇からのお知らせだったと思います。


2010.06.19 飛鳥(9) 河内湖

王朝の湖水の淀川流転を見ると、今の大阪市街は上町台地を除いて海か湖か沼だったようです。仁徳天皇が天の下治(し)らしめした難波の高津宮は、瀬戸内海から河内湖に入ってすぐのところにあったようです。多分ここで九州・瀬戸内海一円からの物資を満載した船を迎えたのだと思います。中国や朝鮮からの来た船もあったことでしょう。朝廷の玄関口、あるいは迎賓館のような役割ではなかったかと想像します。ここで一休みした船は、大和川を遡り、奈良湖のほとりの「山の辺の道」を目指したのだと思われます。

次の履中天皇は難波の高津宮から再び「山の辺の道」に戻るわけですが、これは多分難波には軍事的な問題があったのではないかと思います。中国、朝鮮、あるいは瀬戸内海のどこかの水軍との関係が悪化し、責められる危険が迫ったのかもしれません。あるいはただ「山の辺の道」が恋しかっただけかもしれません。


2010.06.18 飛鳥(8) 標高60m

何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?というページを見ると、大和盆地は縄文時代にはまだ湖だったそうです。少し引用させて頂きます。

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奈良盆地の東方の山裾を縫うように、細々と南北に続く道がある。その名を「山の辺の道」という。古社寺や名所旧跡、古墳などが道沿いに点在し、古代の面 影をよく残している・・・人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめ ぐっているのだろうか。その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存 在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。
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古事記の神話を、大和湖の陸地化と開発のエピソード、と捕えるのは、特に奇抜な発想ではないようです。


2010.06.17 飛鳥(8) 木炭

製鉄技術史を読んでいると、興味深い記述がありました。『初期は鉄1トンに対し6トンの木炭を消費。明治7年(1874年)の時点でも製造コストの約45%が木炭および薪、鉄鉱石のコストは約9.4%に過ぎなかった。』

鉄器が進歩したと言っても、飛鳥時代の木造建築はわすかなものであり、森林資源の枯渇にはつながらなかったのではないか、と思っていました。しかし、鉄器を造るために、鉄の6倍にもおよぶ大量の炭が焼かれていたのです。杉の巨木ばかりではなく、炭焼きのために雑木林まで切らなくてはなりません。鉄製の良く切れる斧や鋸ができると、木材の伐採のスピードが加速されたものと思われます。


2010.06.17 飛鳥(7) 少彦名(スクナビコナ)神

スクナビコナ神は良く分からない神さまです。諸説ありますが、どれも明確なメッセージではありません。しかし、多くの神社が少彦名を祭り、一寸法師のモデルにもなったので、相当大物の神さまだと思います。そこで私なりに、思い切った仮説をたててみました。

『古事記』によれば、オホクニヌシの国土造成に際し、アメノカガミノフネに乗って波間より登場し、国造りに参加しました。神話の中で大変重要な位置を占めています。高御産巣日神が言った「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述から、小さい神であると考えられています。水の神であるという説が有力ですが、他にも国造りの協力神・常世の神・医薬・石・穀物霊など多様な側面があるようです。

スクナビコナのパートナーである大国主は地の神であり、葦原中国の国作りを完成させ、国土を天孫ニニギに譲って出雲大社の祭神となったという比較的分かりやすい神です。それにくらべて少彦名は良く分からない神様です。後に一寸法師のモデルになったとも言われますが、やはり良くわかりません。いったい天武天皇は少彦名を通じて、国民に何を知らせたかったのでしょうか? 私は次のような仮説をたててみたいと思います。

### 少彦名神に関する仮説 ###
少彦名は、鉄の焼き入れに用いる水のこと。あるいは焼き入れで飛び散る水滴。鋭利な刃物を作るために炭素鋼を硬く焼き入れする金属加工技術の神。鋭利な武器(刀、槍、矢尻)、木工道具(斧、ノコギリ、ノミ、カンナ)、農機具(クワ、スキ)を製造し、大国主の建国活動をテクノロジーの面から支えた。朝廷の文部科学大臣。
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何度も生き返る不死身の大国主といえども、最新のテクノロジーなしでは国を造ることはできません。少彦名神の科学技術がどうしても必要でした。朝廷は最新のテクノロジーを持つ科学技術国家であり、これに逆らうことは全く無駄である。朝廷におとなしく服従し、きっちりと税金をおさめることによってのみ、朝廷の持つ最新テクノロジーの恩恵を受けることができる。と天武天皇は知らせたかったのです。

この仮説に至った理由は次のようなものです。(これは、あくまでも私の個人的な仮説です)
○ 紀元前800年頃のホメロスの叙事詩には、鉄が非常に高価であることが書かれています。おそらく、金よりもはるかに高価なものであったと考えられます。(木村鋳造所より)
○ ホメロスが生きていた時代には焼き入れ技術も完成していたと考えられます。それが日本に伝わったのだと思います。(木村鋳造所より)
○ 高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述から、灼熱の鉄の上に落ちてはじける水を連想しました。
○ 一寸法師を刀の代わりにします。針も刀も重要かつ高度な鉄製品です。
○ 一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくしました。これはまさに鍛冶屋の仕事ですね。一寸法師は鉄そのものなのかもしれません。小さなで砂鉄も熱して叩くと、針や刀になる。鬼でも何でも退治できる。
○ やさしい古事記講座(214)では次のように書かれています。「史学は天の羅摩船を、「かがみふね」と読んでいる。この理由は不明だが、正しいとすれば、鏡の船であろう。つまり、弥生時代に鏡を配った船と云う事だ。この分配の舟の責任者がスクナヒコナの神である。国々の人々には直接関係は無く、鏡の配布は地域の主や、天下った神との関係だった。だから、余り、人々は知らなかった。」 私は鏡は鉄や青銅などの金属の地金だったと考えています。ですから、スクナビコナがアメノカガミノフネに乗って、鏡を配ったというのは、金属関係の技術者で、金属加工技術の指導者であったと考えられます。


2010.06.16 飛鳥(6) 新しい製鉄法

古事記に「鉱山の鉄を採り」と書いてあるのは、天皇家が製鉄技術に革新を起こしたと言っているのかもしれません。一体どのような革新が起こったのかは知りませんが、高句麗から直接若狭に入った新しい製鉄技術が継体天皇(近江の高島出身で若狭育ち、謎が多い)により日本で広められたのと一致するかもしれません。砂鉄を採集するのに比べて、鉱山の鉄を採るというのは生産設備の大型化と生産能力の増大を感じさせます。

高性能の鉄器の量産に成功した者には大きな富がもたらされます。造船、建築、道路建設、農地開発などに大量の木材と、それを加工するための鉄が消費されはじめます。でもまだ吉野杉の資源はたっぷりあるはず。


2010.06.15 Opic 5.5inch f/2

COOKE ANASTIGMAT LENS No 204420 5 1/2INCH (140MM) SERIES O f/2
Made by TAYLOR-HOBSON England Patent No 157040

お気に入りのOpic 5.5inchがもう一本入手できました。一本目は125326番でかなり古く、多分1927年あたりの製造。こちらは204420ですので、多分1934年頃。テーラー・ホブソンの製造番号表は良いものがなく、はっきりした製造年はわかりません。しかし、このレンズより少し若い製造番号のSpeed Panchroがありますので、Speed Panshroが開発された1931年より少し後であることは間違いありません。




このレンズはペンタックス67のヘリコイドを使ってペンタックス67マウントにきれいに改造されていました。この改造法では絶対に無限は出ないことが既に分かっています。もし無限が出ていたら危険。もし出ていなかったら安心。という奇妙なシチュエーション。予想通り無限遠は出ていなかったので、安心して入手することができました。それに、少しガラスに曇りがありました。清掃すればすっきり曇りが撮れると予測できました。調べてみると、曇りは粘着性のもの。何らかの理由で粘着テープの糊が前玉と後玉に残ってしまったようです。この場合にはいくらクリーニングペーパーで拭いても取れません。爪でこすって、さらに指の腹で思い切りこすると取れます。指に少し合成ゴム系の接着剤をつけて乾燥させた後に擦ると、割と簡単に取れます。


2本のOpic 5.5inchの外観。絞り輪の位置が違いますが、レンズ自体は全く同じようでした。後日、二本の描写を比較してみたいと思います。


簡単に分解できます。


ペンタックス67で無限遠が出ていないので、ペンタ67−EOSアダプタを少し短い目に作って調整しました。シグマのジャンクのレンズのマウント部分を適当に切って、ペンタ67の中間リングにビスで止めれば完成。ただ、少し穴があいているし、内面反射があるし、見た目が悪い


黒いフェルトを貼って内面反射防止。


革を巻いて穴埋め&外観の改善。革はダチョウを採用。オストリッチですね。ダチョウの革はきれにな模様がある部分は高価ですが、それ以外の部分は安いです。実にすばらしい手触りです。


2010.6.14 飛鳥(5) 吉野杉

天皇家が瀬戸内海帝国の覇者となった最大の理由は、吉野杉ではなかったかと思います。フェニキア人がレバノン杉で地中海に出て行ったのと同じように。東シナ海、黄海、瀬戸内海は多分倭寇とも言われる海洋民族が支配していたと思われます。造船には杉の巨木が良さそうです。継ぎ目が少なければ少ないほど浸水の危険性が少なそうです。大陸から最新の造船技術、特に堅くて鋭利な鉄器、を持つ人々が瀬戸内海奥深くまで入り、河内湖(現在は陸地になっています)から大和川を経て、飛鳥に至り、吉野杉の大木を発見します。吉野杉を使った立派な船を建造し、再び瀬戸内海から東シナ海へと乗り出して行ったのではないでしょうか。弥生時代に東シナ海を渡る船はあったと思います。フェニキア人は紀元前12世紀に既に地中海を自由に航行していたのですから。

一部の造船技術者は、そのまま飛鳥に残り土着化したかもしれません。吉野杉を鉄器で切ったり削ったりして、中国式の立派な神殿や寺院を建設したのではないかと思います。最初は飛鳥のような地盤のしっかりした丘陵地帯に、そして次第に農地開発の進む奈良の沼の方に下って行ったのだと思います。


2010.6.13 飛鳥(4) 瀬戸内海帝国

飛鳥時代の朝廷の勢力圏はどこであったか、について調べてみました。古事記に歴代天皇の「天の下治(し)らしめしき」場所(つまり事務所または祈祷所)の位置と御陵(みはか)の位置が記されていますので、これがだいたい勢力圏と見ることができるでしょう。

天皇名 天の下治(し)らしめしき 御陵(みはか)
1 神武天皇 奈良県橿原市 奈良県橿原市
2

綏靖天皇

奈良県御所市 奈良県橿原市
3 安寧天皇 奈良県大和高田市 奈良県橿原市
4 懿徳天皇 奈良県橿原市 奈良県橿原市
5 孝昭天皇 奈良県御所市 奈良県御所市
6 孝安天皇 奈良県御所市 奈良県御所市
7 孝霊天皇 奈良県田原本町 奈良県王寺町
8 孝元天皇 奈良県橿原市 奈良県橿原市
9 開化天皇 奈良市 奈良県奈良市
10 崇神天皇 奈良県桜井市 奈良県天理市
11 垂仁天皇 奈良県桜井市 奈良市
12 景行天皇 奈良県桜井市 奈良県天理市
13 成務天皇 滋賀県大津市 奈良県奈良市
14 仲哀天皇 下関市長府 福岡市香椎 大阪府南河内郡
15 応神天皇 奈良県橿原市 大阪府南河内郡
16 仁徳天皇 大阪市 難波の高津宮 大阪府堺市
17 履中天皇 奈良県桜井市 大阪府堺市
18 反正天皇 大阪府南河内郡 大阪府堺市
19 允恭天皇 奈良県明日香村 大阪府南河内郡
20 安康天皇 奈良県天理市 奈良市
21 雄略天皇 奈良県桜井市 大阪府南河内郡
22 清寧天皇 奈良県橿原市
23 顕宗天皇 大阪府南河内郡 奈良県香芝市
24 仁賢天皇 奈良県天理市
25 武烈天皇 奈良県桜井市 奈良県香芝市
26 継体天皇 奈良県桜井市 大阪府三島郡
27 安閑天皇 奈良県橿原市 大阪府南河内郡
28 宣化天皇 奈良県明日香村
29 欽明天皇 奈良県桜井市
30 敏達天皇 奈良県桜井市 大阪府南河内郡
31 用明天皇 奈良県桜井市 大阪府南河内郡
32 崇峻天皇 奈良県桜井市 奈良県桜井市
33 推古天皇 奈良県明日香村 大阪府南河内郡

ほとんどが現在の奈良盆地の東部ですが、大阪、下関、福岡、滋賀などの地名も見えます。実際その場所に宮殿があったかどうかは分かりませんが、天武天皇時代の朝廷の勢力範囲であることは間違いないと思います。天武天皇の親戚が、「うちの領地も書いといてや」みたいなことを言ったので、「よっしゃ」と言って書き足したのかも知れません。あるいは、江戸時代の譜代大名みたいなものかもしれませんね。

天武天皇の兄の天智天皇は、百済救援群を挑戦に派遣し福岡で指揮をとりますが、白村江の戦い新羅連合軍に負けます。そして敵の追撃を恐れて内陸の大津京に遷都したといわれています。九州北部を含む瀬戸内海一帯を支配しなければ、朝鮮に出兵することなどできるはずがありません。ですから、飛鳥の朝廷は、瀬戸内海王国の支配者だったと考えられます。


2010.6.12 飛鳥(3) 天岩戸

天岩戸(あまのいわと)は太陽神であるアマテラスが岩戸に隠れて、世界が真っ暗になってしまった、という神話。因幡の白兎と八岐大蛇から類推すると、これはきっと古代に起こった亀の瀬地すべりの記録ではないかと思います。大和川は奈良盆地を出ると、大阪府との県境付近から山に挟まれた渓谷となります。ここに亀の瀬渓谷と呼ばれ、明治以降においても何度も地滑りを起こして、大和川とせき止めてしまったそうです。

奈良盆地の沼の開拓に乗り出した飛鳥政府でしたが、ある時亀の瀬の大規模な地滑りにより大和川がせき止められてしまいます。せっかく開拓した奈良の農地は水没し、元の沼に戻ってしまいました。そこで鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラを探し、多分スコップのような鉄器を作らせます。アメノタヂカラオはアマテラスを岩戸の外に引きずり出したと書いてありますが、これはアメノタヂカラオがその名の通りの筋力で、鉄製のスコップを使って効率的に土砂を取り除いたことだと思います。アメノウズメが岩戸の前にを伏せて踊ったのは、人海戦術による排水作業でしょう。こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、葦原中国(奈良の沼)が明るくなった(農地が復元できた)のだと思います。

大和川は仁徳天皇の昔から水害が多かったようです。亀の瀬地すべりのような大災害が起こった場合、石器などを使った古い工法では復旧することができず、鉄器を使う必要があったのでしょう。また鉄器を使って木を削り、大きな設備を作ったのかもしれません。あるいは災害に乗じて出没する賊を鉄剣で追い払う必要があったのかもしれません。

つまり、飛鳥政府は製鉄技術、鉄器による土木技術、災害復旧力、鉄剣による武力などの最新テクノロジーを持って、大和川流域の治水と治安に責任を持ちます。鉄を持たない民は、無駄な抵抗をやめて飛鳥政府に従いなさい。飛鳥政府に感謝しつつ農業にはげんで税金をきっちり納めれば、災害の心配はいりません、という飛鳥政府からのお知らせだったのだと思います。

ただし、このテクノロジーが中国や朝鮮半島からの直輸入であることを民に知られてはいけません。あくまでも、日本のどこかで飛鳥政府が遠い昔に独自に研究開発した、ということにしておかねばなりません。


2010.6.11 飛鳥(2) ヤマタノオロチ

ヤマトノオロチは頻繁に洪水を起こす出雲地方の川をモデルにした神話である、という説が有力です。しかし、いまひとつすっきりと納得できないでいました。八つの頭がある蛇なので八岐大蛇と言う、というのが特に不自然に感じられました。ヤマタという言葉が先にあって、これをビジュアル化する時点で、語呂合わせで八つの頭の蛇の絵が描かれた、考えるのが自然だと思います。飛鳥にから帰る近鉄電車の中で、ふと次のような考えが頭をよぎりました。

ヤマタとは大和。オロチとは洪水で人をさらう川を大蛇に例えたもの。従ってヤマタノオロチは洪水を起こしやすい大和川のこと。多分古事記編纂の時点で大和川だと何かと利害関係が複雑なので、出雲に変更したのではないか。つまり、ヤマタノオロチ伝説は大和川の河川改修および流域農地開発の記録。

オオヤマツミはその名の通り飛鳥に住む山の民。その子アシナヅチとテナヅチはその名の通り足と手を使って大和地方の沼地の開拓を行っていた。その子クシナダヒメはその名の通り水田。大和川の洪水で既にほとんどの水田が流され、唯一残った水田であるクシナダヒメも次の洪水で流されてしまいそうである。そこで、飛鳥政府は救援にスサノオ建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)を派遣。建速はその名の通り、仕事の速い建築技術者。スサノオは迅速に大和川の河川改修を行いヤマタノオロチを退治。この時ヤマタノオロチの中から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)すなわち草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)を得る。これは多分河川改修に鉄器を使用したことの記録か、または河川改修に反対する勢力を鉄の剣で制圧したことの記録。

まとめると、元々飛鳥の山の民であった天皇家は、鉄器を用いて大和川の河川改修を行い、鉄剣を用いて流域の武力制圧を行い、水田の開発を行い、奈良盆地を沼から豊かな大地へと変えたのである。奈良盆地は永遠に天皇家の領地である。ゆめゆめ天皇家を反抗することなく、きっちり税金を収めるように、という当時の政府(天武天皇)からのお知らせなのであります。

ところで天武天皇の名前は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)、または天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。もはや天皇は山の民ではなく、海、沼、中原を支配するものである、というメッセージなのかもしれません。


2010.6.10 飛鳥(1) 因幡の白兎

飛鳥は平地だと思っていたのですが、実際に訪れてみると丘陵地帯でした。自転車ではかなり厳しい急坂も多いです。吉野の南端と言ってもよいかもしれません。古墳時代には、大阪南部の大和川沿いに有力者が住んでいたと思われるのに、飛鳥時代になってなぜわざわざこんな山の中に宮殿を作る必要があったのでしょうか?

自転車で石舞台古墳への坂を上っていた時に思いついたのが、因幡の白兎です。易でいう「陰の道」を表す説話という説を紹介したことがあります。しかし、飛鳥では全く別の考えが浮かびました。奈良盆地は古墳時代はまだ大きな沼で、本当にワニが住んでいたのではないか、と思いついたわけです。

吉野から飛鳥の丘陵地帯に住んでいた部族は、ワニが怖くて奈良の沼に行けない。しかし人口が増えたので、なんとしても奈良の沼を開拓したい。少なくとも大和川下流の部族に遅れるわけにはいかない。沼に先発隊を送るが、ワニに襲われて怪我をしてしまった。そこで大国主命が救援に向かう。あたりは一面ガマの茂る沼。どこにワニが潜んでいるか分からない。


2010.6.8 Carl Zeiss 1915/16

242,020番から256,096番までの14,077本。前年よりは少し増えたが、やはり第一次世界大戦の影響により低水準。

Icar/Triotar f6.3 2,311本
Triplet F4.8-F7 354本

Tessar F3.5 155本
Tessar F4.5 7,115本
Tessar F6.3 2,445本
Apo-Tessar 31本

Protar F9 17本
Protar F18 150本
Amatar F6.8 405本
Protarlinse F12.5 725本

Magnar F10 29本

この頃になると、どのレンズは何本というより、Tessar F4.5のうち何ミリが何本作られたかというテーマの方が面白そうです。

Tessar F4.5 6.5cm 435本 多分ICA Atom
Tessar F4.5 7.5cm 819本 多分ICA Bebe
Tessar F4.5 12cm 1,232本 多分Compurシャッターに入れて汎用
Tessar F4.5 13.5cm 267本 同上
Tessar F4.5 15cm 950本 同上
Tessar F4.5 16.5cm 564本 同上

Tessarが光学的に優れたレンズであることは確かですが、Tessarの商業的な成功にはそれ以外の要因が大きく影響しているようです。簡単に言うと、時代の流れに乗ったといえると思います。
○ Compounr/Compurシャッターに入れやすい小型軽量設計、シャッター音とシャッターを押す喜び
○ 小型カメラの普及の波に乗る。小型カメラメーカー市場の創出。カメラメーカー、シャッターメーカーの育成。
○ Planerに対しては空気接触面が少ないこと、小型軽量であること、妙なフレアがないこと
○ Tripletに対してはペッツバール和が少し小さいこと、4枚なので高級感があること
○ ツアイスの安定した生産体制と品質管理に由来するブランド力
○ ドイツの精密機械工業全体に対するアメリカ人の信頼。アメリカ市場の急拡大。当時高いものが買えるのは多分アメリカ人だけ。

アメリカとドイツは二度も戦争をしていますが、アメリカとドイツの関係は別に悪くなかったようです。アメリカはドイツの写真工業に多大な投資をしていますし、ドイツ出身のカメラ関係者がアメリカで大勢成功しています。もちろん日本のカメラ工業も同様に、アメリカ市場での成功=世界制覇、だったようです。アメリカの中流市民の生活様式に基づいて写真レンズの歴史を調べる必要がありそうです。


2010.6.6 写真集

写真集といっても私が撮影したわけではありません。3年ほど前、山本東陽氏から写真集のモデルをやってくれとの依頼があり、撮影して頂いたものです。酒の席の冗談だろうと思っていたのですが、そうでもなかったようでして、山本東陽氏手作りの写真集を頂きました。ホームページに掲載してほしいとの依頼があったので、恥ずかしながら「 肖像 岸本陸一 」(仮題)として見本を掲載しました。


2010.6.4 Carl Zeiss 1914/15

229,882番から242,019番までの12,135本。第一次世界大戦勃発により、生産数量は前年の約40%に減少。内訳は次の通り。

Icar/Triotar F6.3 2,539本

Tessar F3.5 389本
Tessar F4.5 5,946本
Tessar F6.3 2,336本
Apo-Tessar 11本

Protar F9 5本
Protar F18 51本

Doppel-Amatar F6.8 394本
Protarlinse F12.5 400本

Magnar F10 3本

第一次世界大戦がイエナの街とツアイスの工場にどのような影響を与えたかは知りません。第一次世界大戦のことは良く知らないのでちょっと調べたのですが、やっぱりよく分かりません。多分1915年の時点で生産数量が減ったのは工場が破壊されたせいではなく、軍事物資の生産に工場が徴用されたためではないかと思いますが、定かではありません。


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