EOS10D日記その48 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2013.12.30 姓と苗字

「逆説の日本史 11 朝鮮出兵と秀吉の謎」(井沢元彦著、小学館)から引用

”姓とは自分がどの血統(氏族)に所属するかを示すものであり、苗字とは当初の居住地を示すものだった。たとえば、足利尊氏と新田義貞は、そもそも同じ源氏で、正式には源尊氏であり源義貞だ。しかし新田義貞は上野国新田郡を本拠としているから、そのように名乗っているので、上野国新田郡の住人源義貞というのが正式な名乗りとなる。
よく中国や韓国に比べて、日本の姓は数が多いと言われる。確かに「李さん」や「金さん」や「張さん」あたりで人口の何割かを占めてしまうので、そのように見えることは事実である。
しかし、それは実は錯覚だ。
日本でも「源・平・藤・橘」いわゆる「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」など、姓はそんなに多くない。たとえば、足利も新田も佐々木も京極も六角も、みんな姓は「源」であり、近衛も二条も菊亭も「藤原」なのである。日本には苗字を名乗るという習慣があり、それが「姓」の代替物になっていたので、そう見えるに過ぎない。苗字は便利なもので、たとえば地名が使えなくても(例:京都市在住者)職業(例:矢作)や家紋(例:鷹羽)を使うという手がある。”

談山神社に行った時に買った「藤原氏族一覧」に岸本という苗字が出ています。ですので私の場合、姓は藤原、苗字は岸本、ということになるようです。


2013.12.27 Darlot組み合わせレンズ

Darlot Opticien Paris 1092

中将姫光学さんからDarlotの組み合わせレンズのEOSマウント改造依頼。

このような鍵付き革張りの箱に入っています。


当時は貴重品だったのだと思います。


箱の中は赤い布張りです。


一式きれいに収まっています。


紙が破れているところを補って清書します。
For a Landscape Rectilinier Lens-angle 45 degree
Lens No 45 on A covers 18 inch stop 3/8 to 3/4 inch
Lens No 38 on A covers 14 inch stop 1/4 to 5/8 inch
Lens No 33 on A covers 12 inch stop ?/16 to 5/8 inch
Lens No 25 on A covers 10 inch stop 3/16 to ? inch
Lens No 17 on A covers 6 inch stop ?
Lens No 14 on A covers 5 inch stop ?

For ? or Angle 90 degree, use Lenses at both ends of ?
45 on B and 38 on A Focus 9in. Covers 12in. stop 3/4 to 3/16 in
45 on B and 33 on A Focus 7in. Covers 10in. stop 3/4 to 3/16 in
45 on B and 25 on A Focus 6in. Covers 8.5in. stop 3/4 to 3/16 in
45 on B and 17 on A Focus 5in. Covers 6.5in. stop 3/4 to 3/16 in
45 on B and 14 on A Focus 4.5in. Covers 5in. stop 3/4 to 3/16 in
38 on B and 33 on A Focus 8in. Covers 9in. stop 3/4 to 3/16 in
38 on B and 25 on A Focus 6.5in. Covers 8in. stop 3/4 to 3/16 in
38 on B and 17 on A Focus 5in. Covers 6.5in. stop 3/4 to 3/16 in
38 on B and 14 on A Focus 4.5in. Covers 5in. stop 1/4 to ? in
33 on B and 25 on A Focus 5in. Covers 8in. stop 3/4 to ? in
33 on B and 17 on A Focus 4.5in. Covers 6.5in. stop 3/8 to ? in
33 on B and 14 on A Focus 4in. Covers 4.5in. stop 1/4 to ? in
25 on B and 17 on A Focus 3.25in. Covers 4in. stop 1/4 to ? in
25 on B and 14 on A Focus 3in. Covers 3.75in. stop 1/4 to ? in
17 on B and 14 on A Focus 2.5in. Covers 3.25in. stop 3/16 to ? in

このレンズは絞り開放で使うと、非常にソフトです。本来の目的である風景をシャープに写すには、表に書かれた範囲の絞りを使う必要があります。


左から14、レンズの入っていないダミー(前玉を付けない時の飾り用?)、45、38、33、25、17。単位はcm。


焦点距離(cm)は奇妙な方法で刻印されています。


ウォーターハウス絞り5枚付属。3mm(1/8in), 4mm, 7mm, 9mm, 23mm。


これら以外に焦点距離約33cm(刻印なし)があります。金色のフードはこのレンズにだけ取り付けられます。


ピント合わせ用のギヤはなく、前後にスライドさせてネジ止めする方式です。移動距離はほんの数ミリ。


17cmと14cmのレンズを取り付けたところ。フードは付かず、コンパクトです。


レンズエレメント。右ほど焦点距離が短い。


フランジ金具がないため、革で製作。52mmのフードを切断して、内側に革を張ります。レンズがねじ込めるよう、内径を調整します。


革のフランジを52mmのヘリコイドに取り付けたところ。


革の中にねじ込めば、きつく締まります。組み合わせレンズですが、この改造では一番短い焦点距離(17cm + 14cm)のみ対応します。


EOS 5Dに取り付けたところ。

17cmと14cmのレンズを使用した時の焦点距離は計算では77mm、実測は約80mmです。箱に貼ってある表ではfocus 2.5インチ(63mm)と書いてありますが、これは焦点距離ではなく、バックフォーカスのことだと思います。

明るは開放ではF4.0程度とレクチリニアとしては異例の大口径ですが、非常にソフトで風景は撮れません。3/16inch(4.7mm)以上に絞れと書いてありますので、だいたいF16程度だと思います。デジカメで試写してみると9mmの絞りでも結構シャープに写すことができました。

まとめると、前17cm、後ろ14cm使用時、9mmの絞り板が必要で、80mm F11.0相当。


2013.12.23 唐から二千人の使者(おそらく軍兵)

「遣唐使全航海」(上田雄著、草思社刊)を参考にしました。

天智天皇十年(671) 、唐からの使い600人と送使1400人の合計2000人が筑紫に駐留します。これは実際には軍隊だと思われますが、事前に平和的な来日である旨の通知があったため、戦闘にはなりませんでした。天智天皇が近江宮に遷都してまで警戒していた唐の軍勢が、九州まで来ていたのです。671年12月3日、天智天皇崩御。672年3月18日、朝廷は唐軍に喪を告げ、唐軍は哀悼の意を表します。しかし、その後も駐留を続け、何かの交渉を続けたようです。これに対し、朝廷は甲冑、弓矢、大量の布などを贈呈を提案。この物量作戦が成功し、5月12日唐軍は平和裏に撤退します。

直後の6月24日、壬申の乱勃発。ぎりぎりのタイミングで唐軍の介入を防ぐことができました。大友皇子の政権の外交は機能していたようです。大友皇子の外交交渉の成功を待って、大海人皇子は反乱を開始したのかもしれません。


2013.12.22 遣唐使の派遣回数

「遣唐使全航海」(上田雄著、草思社刊)には遣唐使派遣回数について次のような説明があります。
20回説、19回説、18回説、15回説、13回説、12回説がありますが、上田氏は15回説が妥当だと指摘しておられます。
第一回 630年 犬上御田鍬 近江国犬上郡発祥の豪族 最後の遣隋使であり最初の遣唐使である。
第二回 653年 吉士長丹(きしのながに) 吉士氏は近江蒲生郡の出自
第三回 654年 高向漢人玄理(たかむくのあやくろまろ) 魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。608年、遣隋使小野妹子に従い留学生として隋へ留学。
第四回以降省略

天皇、蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)したまいし時に、額田王の作る歌「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」で有名ですが、当時蒲生野は天皇の直轄領だったようです。犬上郡も蒲生郡すぐ近くです。このあたり出身の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)や吉士長丹(きしのながに)が遣唐使に選ばれたのは天皇家と近かったためだと思われます。高向漢人玄理(たかむくのあやくろまろ)は渡来人で、小野妹子に従い中国に留学した経験があるので、当然中国語が堪能だったと思います。犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)や吉士長丹(きしのながに)も中国語が上手だったのかもしれませんね。


2013.12.21 遣隋使の派遣回数

「遣唐使全航海」(上田雄著、草思社刊)には遣隋使派遣回数に関する次のような説明があります。
隋書によると、600, 607, 608, 610の四回。古事記によると、607, 608, 614の三回。これらを総合して考えると、600, 607, 608, 614の四回だと考えるのが妥当とのことです。日本書紀が書かれる100年以上前のことなので、はっきり分からないようです。
600 隋書にのみ記載
607 小野妹子 近江国小野村の豪族
608 再度小野妹子
614 犬上御田鍬 近江国犬上郡発祥の豪族

近江国発祥の豪族ばかりが遣隋使として派遣されているのが気になります。近江大津宮(おうみのおおつのみや)遷都と関係があるかもしれませんね。


2013.12.15 JAMIN DARLOT 3910 2

http://www.lungov.com/wagner/c/090c.html にVia a Paysageの説明がありました。

Another feature introduced was a smart mounting that permitted the use of the front achromat alone in a reversed position. That is the meaning of "vis portrait" and "vis paysage". If you take the cone out and screw the lens using the thread marked as "vis paysage" you have a traditional landscape lens with the concave surface facing the scene. With the cone you have a portrait lens.

もうひとつの新機能はスマート・マウンティングである。人物用ペッツバールレンズの前群の色消しアクロマット・レンズを逆向きにして単独で使うことで風景用のレンズになる。vis portraitとvis paysageはこれを意味する。後群のconeを取り外して、レンズ全体をvis paysageの向きに取り付ければ、レンズの凹面が前に来て、古典的な風景用レンズになる。coneと取り付けて、レンズをvis portraitの向きに取り付ければ、人物用ペッツバールレンズになる。

昨日、風景用のレンズエレメントが別にあるのではないかと書きましたが、誤りでしたので訂正します。


2013.12.14 JAMIN DARLOT 3910

JAMIN & DARLOT BTES SGDG R,chapon 14 Paris 3910
Vis a Paysage
Vis a Portrait

中将姫光学さんから改造依頼があったJAMIN DARLOTの風景・ポートレート兼用レンズ。レンズのコバのペン書きから1860年(万延元年)製造と判明。焦点距離と明るさは私のJAMIN DARLOTと同じで、155mm F4.0。

刻印の向きから画面左が前のように見えますが、実は画面右側が前です。黒い後玉が大きく、ピント合わせの移動量が小さくなっています。


金ニスがかかっています。少し錆びていますが、刻印ははっきりと読み取れます。


Jamin Darlot と前玉のコバにインクで書かれています。


a Paris 1860 と書かれていることから1860年製造だと分かります。


よく見ると、Vis a Paysage(風景用のネジ)と書かれています。


こちら側にはVis a Portrait(ポートレート用のネジ)と書かれています。つまり、JAMIN DARLOTの刻印は風景撮影時に前を向くようになっていたのです。このレンズ構成はパッツバールでポートレート用ですがら、レンズを逆向きに使っていますので、刻印が上下逆になったわけです。


この構成で単にレンズを逆向けても、風景用にはなりません。多分画面右側の黒い後玉を風景用の前玉(このセットには含まれない)に入れ替えたのだと思います。風景用レンズは前後群の間隔が狭いので、鏡筒を短くしてあるのだと思います。


分解したところ、普通のペッツバール型のポートレートレンズでした。


フランジ金具が失われていましたが、ガラクタ箱の中にぴったり合う金具があったので、これを使ってM52アダプタを作りました。


M52ヘリコイドに取り付けるとこうなります。


2013.12.10 箱入り息子の恋

同じく5枚千円で借りてきた「箱入り息子の恋」ですが、これも良かったです。とても分かりやすいストーリーで楽しめました。たまには日本映画も見ないとなぁと思いました。


2013.12.9 奇跡のリンゴ

ツタヤでDVD5枚千円だったので何となく借りてきた「奇跡のリンゴ」でしたが、すばらしい出来の映画でした。名作ではないかと思います。


2013.12.8 掲示板スパム対策

掲示板に迷惑な書き込みが多かったので、CGIのPerlを修正して対応。今までは禁止ワードの設定で対応していました。しかし、これらの書き込みの投稿者名、タイトル、本文とも毎回文面が異なり、共通の単語がありません。唯一の共通点はタイトルが数字四文字であること。なので、次のようなチェックを追加しました。

if ($in{'sub'} =~ /^[0-9][0-9][0-9][0-9]$/) {
  &error("不正なワード");
}

今のところ、タイトルが数字四文字の書き込みは防げています。ただ、一件だけですが、これとは別種の迷惑書き込みがあり、いたちごっこは今後も続きそうです。


2013.12.7 UURA解約

”エイゾウサービス ソフトバンクピー”から毎月490円x3=1470円の請求が来ており、よく考えずに毎月支払っていました。何の請求か電話でソフトバンクに問い合わせてみると、調べますのでお待ちくださいとのこと。だいぶたってから、iPhone三台に対してUURAの契約がされているとのこと。電話サポートの方も”エイゾウサービス ソフトバンクピー”が何か知らなかったようです。Webで調べても出てこないのは当然ですね。すっかり忘れていましたが、言われればiPhoneの契約をした時に、UURAに入らないと割引ができないが後で解約すればいいから、みたいなことを聞いた気がします。そんなことはすっかり忘れていて、全くUURAを使わないまま毎月1470円を払い続けていました。その電話で解約しました。

これになかなか気付かないのは、iPhoneの請求書にはUURAは記載されておらず、別会社から別の請求が来ているためです。心当たりの方は、請求を確認することをお勧めします。


2013.11.21 Jamin Darlot

MSON JAMIN DARLOT SUCCR A PARIS

JAMIN DARLOTのペッツバール型レンズ。製造番号は刻印されていませんが、刻印の書式から1862年から1866年の間の製造だと思われます。便宜上1865年(慶応元年)の製造ということにしておきます。

後玉が大きなcone centralisateur型ではなく、後玉が前玉とほぼ同じ大きさの一般的なペッツバール型レンズです。


拡大すると乱雑な文字に見えますが、実物を少し離れてみると綺麗に見えます。


前玉の手書き文字 Jamain


前玉の手書き文字 Darlot 153 (多分)


後玉の手書き文字 Darlot (多分)


分解したところ。ガラスに特に傷はありません。


M52-M42ヘリコイドに改造したところ。ミランダの52mm金属フードが誂えたみたいにぴったりと合います。売主は120mm F3と書いていましたが、実際は155mm F4くらいでした。


2013.11.20 マッサージチェア

パナソニック リアルプロ EP-MA74-Hというマッサージチェアを購入。以前電気屋さんで何機種か試してみたのですが、どれが良いのかさっぱり分からなかったので、エイヤ!とこの機種に決定。価格.comで一番安い店から購入。さすがにパナソニックの最新型の高級機種だけあって、予想以上に良かったです。それなりの値段がしますが、その値打ちはあると思います。


2013.11.19 Windows 8 & Ubuntu

Windows 8上に仮想OSとしてLinux(Ubuntu)をインストールし、無事Linuxのアプリケーションが走りました。一安心です。エラーがいくつか出たのですが、Webを検索すると対策が書いてあるので素人でも何とかなります。Windows 8の操作に慣れてきて、大変便利であることが判明。

タッチパネルの威力は予想以上です。画面が15.6inchと大きいせいもありますが、タッチパネルの操作性は良いです。特に有効なのは外部モニターを接続してデュアル・モニターで使う場合です。マウスカーソルの移動距離が長くなり、ポインタを見失ってイライラすることがありましたが、Windows 8ではマウスポインタを外部モニター上に置いたまま、 ノートPCの画面の操作をタッチパネルで行うことができます。

PowerPointやAdobe Readerなどのアプリの表示の拡大縮小がマルチタッチでできるのも便利です。ただし、PowerPoint 2013はすぐ”図ツール”や”描画ツール”状態に入ってしまい、マルチタッチがうまく動かなくなるので注意が必要です。

また、Linuxでもタッチパネルは使えます。マルチタッチは使えませんが、マウスの代わりに作業を行うことができます。電車の中で込み入った作業をするとか、お客さんと一緒に検討をするとかの時には便利。これは仮想OSを使う利点です。

問題点としては、タッチパネルではない昔のノートPCや外付けモニターでも指で操作しようとして、反応がないのでがっかりすることです。マウスを探して握りなおすのは結構面倒です。


2013.11.18 Dallmeyer/Ross/Holmes焦点距離測定

Dallmeyer LONDON 2212 120mm F=4.0
Ross LONDON 8213 115mm F=4.0
No 3309 Holmes, Booth & Haydens New York 140mm F=3.6

Holmes, Booth & Haydensのレンズが少し焦点距離が長くて、少し明るいようです。焦点距離とF値はキヤノンのEF70-200F4Lで同じ画角、同じ明るさで影してEXIFデータから読み取りました。


2013.11.17 Holmes, Booth & Haydens

No 3309 Holmes, Booth & Haydens New York
これも改造依頼を受けたレンズ。アメリカ製の古いペッツバール型レンズ。


朝顔のような形にカーブしたフードが優雅です。


ピント合わせのノブは失われています。ラック・ギヤが見当たりませんが。。。


よく見るとラックが溝の側面に刻まれています。ピニオンギヤを横に回してレンズを移動する仕組みです。


レンズ構成は普通のペッツバールです。


優雅な形で、高級感があります。52mmのスクリューをボンドで張り付けて改造完了。


サイズは他のレンズよりかなり大きい。


2013.11.16 Ross LONDON 8213

Ross LONDON 8213
改造依頼を受けたレンズ。1860年代前半に作られたと思われるペッツバール型のレンズです。



絞り板が一枚だけ付属しています。


レンズは金属枠に接着されており、部品点数が少なくてすみます。また、メンテナンス時の組立ての間違いは防止できます。ただし、ガラスを磨き直す場合には不便です。


絞りの穴はの大きさはF8です。

52mmのスクリューをフランジ金具に接着して改造終了。


2013.11.15 Dallmeyer 2212

J. H. Dallmeyer LONDON 2212

J. H. Dallmeyerはヴェストファーレンの生まれ。現在はドイツの州で、以前香川が在籍したドルトムントがあります。21才の時イギリスに渡り、ロスの会社に入社。ロスに気に入られ、ロスの次女ハナと結婚。1859年にロスが死ぬと、翌年1860年に独立。1862年にTRIPLE ACHROMATICレンズ、1866年にラピッドレクチリニアと矢継ぎ早に新レンズを製作。これは創業翌年の1861年に製造されたペッツバール型レンズです。



このレンズの特徴はピント合わせ用のラックアンドピニオンギヤを持たないこと。手で強く押せばレンズは前後に動きます。摩擦だけで止まっています。


レンズは金属の枠に接着されていて裏返しには出来ず、従って組み立てで間違いは起こりません。金属部品の数を減らせるので、かなりコストダウンになると思います。


52mmのスクリューを接着して改造完了。


2013.11.6 T653/68JにLinuxインストール

Dynabook T653/68Jの上にLinuxをインストールしました。Windows8はdual bootにするのが面倒くさいと聞いたので、VMPlayerを使って仮想OSとしてUbuntu 64をインストールすることにしました。Windows 8 でVMPlayer With Ubuntuというサイトに書いてある通りに無事インストール完了。BIOS でIntel-VTが最初から有効になっていたようで、BIOSを設定する必要なし。

仮想OSの利点はWindows8とLinuxが同時に走っているので、Linuxで作業しながらPowerPointでプレゼンを作ることができることです。Sharedディレクトリを介してWindows8とLinuxでファイルを共有することもできます。

欠点は、8GBのPCなのに6GB程度しかLinuxで使えないことです。Windowsが既にある程度のメモリーを使っているので、全部Linuxで使うことはできません。まあ、メモリーを16GBに増設すれば済むことなのですが、一万五千円くらいかかります。

これから細かいパッケージやらアプリケーションやらランセンスやらを設定します。


2013.11.4 Sony VAIO type S(VGN-SZ74B/B) を振り返る

Sony VAIO type S(VGN-SZ74B/B)を6年間、ほぼ毎日使ってきました。そろそろお役御免になりますので、良い点と悪い点をまとめてみました。御苦労さまでした。

良い点:
○ 13.3型WXGA液晶画面は、適切なサイズで、色も良く、見やすい。
○ CPU Core 2 Duo T7300(2GHz) は十分な性能で、特にストレスは感じなかった。
○ メモリー DDR2 667 4GBに増設。 適切なメモリー容量。
○ バッテリーは6年たってもまだ何とか使える。
○ 内蔵のマイクとスピーカーとカメラだけでSkypeできる。ノイズが少ない。

悪い点:
× タッチパッドが変なノイズを拾い、突然マウスカーソルが飛ぶ。タッチパッドにガムテープを貼って対策。
× IMEが頻繁に応答しなくなる。ループに入り、しばらく作業できない。多分、スリープからの復帰に問題あり。
× PCMCIAストットが数か月で壊れた。CFリーダーをPCMCIAからUSBに換えて対応。
× 内蔵光学ドライブが5年ほどで壊れた。外付けのドライブを購入。
× キーボードのキーが引っかかったり、重くなったりする。すべて自然復帰。多分持ち運び時の問題。
× ファンが不調で、騒音が大きい。小さい筐体に発熱量の大きなCPUなので、ファンが回りっぱなし。


2013.11.3 Dynabook T653/68J

今使っているパソコン(Sony VAIO type S(VGN-SZ74B/B))がそろそろ限界なので、新しいノートパソコンToshiba dynabook T653/68Jを購入。今回の購入条件は以下の通り。
1. CPU: 4 coreのi7。十分な放熱性。
2. Memory: 8GB。シミュレーションを流すので。
3. HDD: 1TB。Linux用に十分な作業領域が必要。
4. MS Office Home and Business付き。仕事でも使うので。
5. 安い。iPhone5を買ったときにもらった商品券で買えること。
6. 持ち運び可能。

ここまで条件が決まると、選ぶのは簡単です。大手量販店でkakaku.comよりかなり安い展示現品が見つかったので、これを購入。商品券がだいぶ余りました。

Windows8を立ち上げると、今までとはかなり使い方が違います。Officeをインストールしようとしても、「問題が発生しました」という意味不明のエラーが出てインストールできません。タスクマネージャ(これがまた以前と違う)を使ってintergratedoffice.exeを終了することにより解決。これからLinuxをインストールするのですが、心配。


2013.11.2 パーシャル カポ

ぷう吉さんが円山公園でギターを弾く時に、妙なカポを使っていました。パーシャルカポというのだそうです。玄を二本または三本だけ押さえてオープンチューニングができます。一瞬でオープンチューニングにしたり、元に戻したりできるので便利そうでした。


2013.11.1 akiko-jazz

ジャズの女性ボーカルのakikoLITTLE MISS JAZZ AND JIVE GOES AROUND THE WORLD!を聞いてみたところ、なかなかの秀作。1950年代の古いジャズを古いアレンジで押さえ目に歌っています。Lambert, Hendricks & Ross風のアレンジの曲もあります。akikoは2001年にメジャーデビューし、このCDは8枚目で2005年の発売。わりと力が抜けた歌い方で安心して聞けます。


2013.10.24 逆説の日本史 古代言霊編

「逆説の日本史 3 古代言霊編 平安建都と万葉集の謎」(井沢元彦著、小学館)から引用します。

「一例を挙げれば、「聖徳太子」や「孝徳天皇」について、諡(おくりな)に「徳」という字が使ってあるのだから「立派な人」だったと考えるのが。これまでの歴史学である。そうではなくて、聖徳太子以降の「徳」の字のついた天皇をすべて検討し、むしろ不幸な生涯を送った天皇こそ「徳」の字が(鎮魂のため)贈られたのだ、だから聖徳太子も不幸な人だったのだ、と考えるのが私の方法である。」

政権転覆などの疑いで政府に捕えられた場合、死刑になるのが普通ですが、平安時代には約400年にわたり公式には一度も死刑が執行されなかったそうです。無実の人を死刑にした場合、悪霊となって恐ろしいたたりがあると考えられていたためです。死刑でなくとも、不幸な死に方をした人に対しては、鎮魂のため聖や徳のような名前を贈ったのだそうです。あるいは大国主命のように偉人伝説を贈り、静かにお休み頂いたのだそうです。


2013.10.23 寺久保エレナ

寺久保エレナNORTH BIRDというCDを何気なく借りてきて(CDを四枚借りると安くなるので)聞いてみたのですが、アルトサックスの天才でした。録音当時は17歳の女子高生だったそうですが、いきなりショーターのYES OR NOから始まるデビューアルバムは秀逸です。数年前から天才少女として有名だったようですが、私は全く知りませんでした。とりあえず出ているCDを全部聞いてみます。


2013.10.22 アメリカの不幸

(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋から引用)

「不幸にしてアメリカ人は、日本の改革達成はすべて自分たちの力量に負うものであると思いこんだ。それゆえアメリカ人は、その後、世界各地で同じ試みを追及したが、それはときとして惨憺たる結果に終わった。それらの場所では、日本でほしいままにしたような権力をもちあわせていなかったし、その地の国民もまた、日本人のような欲求と経験と手腕に欠けていたのである。」


2013.10.21 目標達成

(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋から引用)
順序が逆になりますが、明治維新に関する記載。

「明治の指導者は1868年、欧米列強の軍事的脅威から安全で、しかも完全に対等な国、日本を生み出すために立ちあがった。そして長命な指導者に関するかぎりその在世中に、まさにそれをやりとげたのである。みずから立てた目標を、これほどまでに十全に果たした政治指導者の世代は世界広しといえどもそう多くはない。」


2013.10.20 アメリカへの憧れ

(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋から引用)
第二次世界大戦敗戦後の進駐軍に関する記載

「アメリカという征服者は、他のどこの国と比べても、日本人には受け入れやすい相手であったろう。なぜならば、既に長年にわたり、アメリカ人教師や宣教師たちがこの国で信望を培ってきたし、戦時中の盛んな悪宣伝にもかかわらず、日本人の多くはアメリカに大きな憧れを抱いていたからである。またアメリカのが圧倒的な勝利を収めていたことも、かえってさいわいした。」

「万延元年のアメリカ報告」に書かれていたように、アメリカは多額の予算を使って日本の使節団を受け入れるなど、幕末から日本に対するイメージアップ作戦を実行しています。悔しいですが、まだ貧しかった日本人が裕福で妙に親切なアメリカに憧れるのは当然だったと思います。


2013.10.19 世界最高の封建制度

(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋から引用)

「家康と家康につづいた二人の後継者が17世紀前半に完成した統治の体制は、既に前の世紀に形成されていた大名の領地を基礎とし、その大名を中央で統制することで全国を支配するという信長と秀吉が進めた方策によっている。したがってその体制は根本的には封建制度であるが、高度に組織的で安定した段階に達していた。それはヨーロッパのどこにも類をみないものであるばかりでなく、少なくとも18世紀末までは、組織、効率、秩序の点において、同時代のヨーロッパのどの王国よりもすぐれていたほどである。この、きわめて組織的で安定し、比較的中央集権化された封建制度は、ヨーロッパはもとより、日本の初期封建制ともひじょうにかけ離れているので、歴史家も何と呼ぶか迷うところだが、後期封建制と呼ぶのが最も妥当だと思われる。これは日本独自の制度で、日本のように孤立した国でなければ、とうてい存続は不可能だったであろう。」

ライシャワー氏は江戸時代をヨーロッパと比較して正当に評価しています。


2013.10.18 Darlot Hemispherique Rapide #2

Darlot Paris #2 Hemispherique Rapide 1263

Corrado D'Agostini氏の本の145ぺージに掲載されている物と同じAplanat型のレンズです。Aplanatが開発されたのが1866年ですから、それ以降であることは確実です。残念ながらシリアルナンバーから製造年を特定することはできません。D'Agostini氏の本にはf:8, F=20.2cmと書いてありますが、この個体をEOSマウント改造後にCanonのレンズと比較するとf:11, F=28cmくらいでした。


このウォーターハウス絞りは内部に隠すタイプです。絞り板に爪が付いていて、半円状の部分に入ります。絞り板を抜く時には、この爪を引っ張ります。


2群4枚のアプラナット型。前後のレンズはほぼ同じです。ラックアンドピニオンのピント合わせ機構ではなく、Dubroniのレンズと同じネジで止める形式が採用されています。この形式は1860年代と1870年代にしか使われていません。このレンズはシリアルナンバーが若いので、1870年頃の製造と考えてよいと思います。


前玉のコバに "8 CL" と書いてあるのでD'Agostini氏は焦点距離8インチと解釈したのだと思いますが、実際には11インチくらいあります。別の意味かもしれません。


後玉のコバにも8と書いてあります。


No 2 Hemispherique


Rapide


1263


Darlot Paris


焦点距離が長いのでM42の長いヘリコイドを2本使っています。


座金に8u colp #2とも読める字が書いてありますが、意味は不明です。前玉、後玉、座金に同じ8が書いてあるということは、組立て時の個体番号のような気がします。


2013.10.17 武士であふれかえっていた

「何世紀もの間日本で絶え間なく起こった戦争と一揆に終止符を打つために、秀吉は1588年に農民から一切の刀剣類を取り上げ、1591年には法令を出して武士、農民、商人はそれぞれ現在の職業と土地にとどまることを命じている。長年にわたってつづいた戦乱のため、日本中は武士であふれかえっていた。秀吉が武士階級の注意を海外の戦闘に向けさせようとしたのは、この危険な状態を緩和するためだったとも考えられる。しかし、秀吉の海外出兵の真の動機が、彼の先輩たちと同じく、征服欲にあったことはいうまでもない。」
(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋から引用)

なるほど。武士の注意を海外に向けることは天下統一に少しは役立ったわけですね。それまでは甲斐の国対信濃の国のような戦いでは敵は常に国内にあり、日本統一の価値は見出しにくく、再び戦乱の世の中になる可能性が高い。しかし、日本対中国の戦いでは日本の各国が協力して戦わなければならず、日本統一の意義を見い出しやすい、ということなのかもしれません。


2013.10.16 傀儡の傀儡の傀儡

「ライシャワーの日本史」(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、文藝春秋)に次のように書いてあります。

「したがって、鎌倉時代は、黒幕が背後から支配するという日本的傾向が極端な形で如実に示された時代なのである。京都の天皇は上皇や藤原摂関家の傀儡にすぎなかったし、彼らのみせかけだけの政府は、将軍の私的軍事政権に事実上牛耳られていた。その将軍がまた、執権北条氏に操られている、といった具合にである。」

なるほど、傀儡の傀儡の傀儡だったのですね。これは日本史の中で天皇家を打倒しようとする勢力がほとんど存在しなかった理由だと思います。つまり、権力者にとって天皇家は少しお金を払えば利用できる便利なものなので、打倒する理由がない。


2013.10.14 BOSE QuietComfort 15

BOSE QuietComfort 15 を購入。ちょうどブラウンの限定版が出たばかりだったようです。以前からあるQuietComfort 3との違いは次の通り。
1. QuietComfort 3はイヤーパッドが小型で耳の上に乗せるタイプ。QuietComfort 15 はイヤーパッドが大きく耳全体を覆うタイプ。
2. QuietComfort 3は充電池を内蔵。QuietComfort 15 は単四乾電池を使用するため、本体価格が少し安い。

電源をオフにすると何も聞こえない点、アップル製品用のマイクが付いている点などはどちらも同じです。


ケーブルは脱着式で簡単に取り換えられます。アップル用のコントローラは、iPhoneに付属のイヤホンと同様に、音量調節、早送り、巻き戻し、電話応答などができます。新幹線などのうるさい場所で電話するのに適しています。


単四電池で約35時間使用できます。旅行中に充電の心配はいりません。


キャリングケースの中に、こんなカードが入っていました。

電車の中で聞いてみたところ、ノイズキャンセリングの効果は絶大です。電車のノイズはほぼ打ち消されていて、静寂の中を滑るように走っているようです。これは耳全体を覆うイヤーパッドの効果が大きいようです。聞き慣れないせいか、音質は人工的な感じがします。また、ノイズキャンセリングによる音の不自然さがわずかに残っています。

このヘッドホンは飛行機、電車、バスなどの騒音を消して移動中に音楽を聴くことだけを目的としています。家やスタジオで聞くことは全く想定されていません。割り切った仕様が成功した理由だと思います。普通のヘッドホンと、ノイズキャンセリングヘッドホンの音質を比較することは、使用目的が違う以上多分無意味でしょう。


2013.10.7 Darlot Paris F.100

Darlot Paris F.100

キヤノンのズームレンズと比較して、F=100mmであることを確認しました。F.100の刻印は焦点距離を表します。明るさはF3.6程度。製造年ははっきしませんが、1865年頃だと思います。








ごく普通のペッツバール型です。


フランジ金具が失われていますので、52mmのクローズアップレンズの金属部分を使って製作しました。少し内径が大きいので、革を張って調整。


革の中に力任せにねじ込むみます。きつい目に作ると抜けません。


これを52mmのヘリコイドに接続して改造完了。ラックアンドピニオンギヤを一番前まで繰り出したあたりが無限遠。ピント合わせはヘリコイドで行います。


2013.9.25 Darlot再改造

Darlot Paris 175mm F5.6 はなかなか良く写ります。ポートレートでは目がキラキラ輝いているような感じがします。(気のせいかもしれませんが)
しかし、前回の偽PENTAX 6x7マウントは使いにくいので再改造しました。

こちらが第一回改造。大きいです。


今回の第二回改造。M52-M42 35-90mmヘリコイドを使用したのでだいぶ小さくなりました。このヘリコイドはとても長く伸びるので長焦点のレンズの改造に向いています。


2013.9.24 Ernostar 1.8/8.5cm二本目

Ernemann Anastigmat "ERNOSTAR" 1:1,8. f=8.5cm. 167313. D.R.P.

三年ほど前にErnostar 1.8/8.5cmのEOS改造を行い、無限遠が特に問題ないことを確認しました。ついでに少し試写させてもらったところ素晴らしい写りでした。今回は既にNikon Fマウントに改造されたErnostar 1.8/8.5cmを入手し、EOSマウントに再改造しました。

アルミ削り出しの金具を特注し、Nikon Fマウントに美しく改造されています。しかし、残念ながら無限が出ておらず、約3mより遠方にはピントが合いません。近接撮影のみ可能です。


刻印はきれいです。金属筒の内面に刻印されているので、レンズの正面から刻印の文字を撮影することはできません。


直進ヘリコイドを加工する必要はなく、そのまま使えます。


フィルター枠は48mmです。ステップアップリングが付属していて、一般的な52mmに変換してあります。


前玉は3群5枚で大きいですが、後玉は一群一枚で薄いものです。


簡単に分解することができます。ガラスはきれいです。


左側が再改造後。革張りの部分が作成したアダプタです。右側のオリジナルアダプタに比べて約4mm短縮され、余裕で無限遠が来ます。
被写体との距離がLの時と無限遠の時のレンズ繰り出し量の違いは次の式で計算できます。ここでfはレンズの焦点距離。

X=f2/(L-f)

L:3000mm, f:85mmを代入すると、85*85/(3000-85)=2.48mm

となりますので、2.48mmレンズを後退させれば無限が来る計算になります。この場合4mm後退させてわけですから、1.52mmほどオーバーインフになっています。これぐらいオーバーインフだと無限遠にもしっかりピントが合わせられると思います。(私はオーバーインフでないと無限遠にピントが合っているのかどうか判別ができないので、オーバーインフが好きです。)


サイズの合う金属フードを適当に切断して、M42-EOSアダプタを張り付け、仕上げに薄い革を巻いて改造終了。


M42-EOSのアダプタは厚さが1.5mmと薄く、無限を出しやすいです。金属の筒とは接着剤で張り付け。オリジナルの改造では、筒とマウント金具をビス止めするために厚さが必要で、これが3mまでしかピントが合わない原因となっていました。商業的な改造としては当然の処置だと思います。レンズ落下の危険性を承知した上で、個人で改造する場合には、接着剤で十分です。表面の革は落下防止用にもなっています。


EOS 5Dに取り付けたところ。この改造の難点は、マウント金具の脱着が難しいこと。はずす時には、隙間にマイナスドライバを突っ込んで強引にはずします。取り付ける時には、前玉をはずした上で、木槌または万力で叩き込みます。要するにアルミの筒の弾力だけで止まっているわけです。あまりスマートな方法ではありませんが、その代り改造はあっというまに終わります。


2013.9.20 沖ノ島

日本書紀には次のようなことが書かれています。(私が適当に現代語訳したもので、あまり信用できません。「海の正倉院 沖ノ島」(武藤正行著、世界日報社)をお読みください。)

(日本書紀本文)
天照大神がスサノオの尊の十握剣(とつかのつるぎ)を天眞名井の水ですすいで噛み砕き、はき出した霧の中から三人の女神が生まれた。田心姫(たごりひめ)、たぎ津姫(たきつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)である。

(日本書紀一書)
天照大神は三人の女神を筑紫の国に降(あまくだ)らせ、天孫の道中を助け、天孫のために祭祀を行うよう命じた。

(日本書紀一書)
天照大神が「八坂に」の曲玉の端を噛み砕いてはき出した息の中から生まれた女神を市杵島姫(いちきしまひめ)と名付け、沖の宮に鎮座させる。曲玉の中の方を噛み砕いてはき出した息の中から生まれた女神を田心姫(たごりひめ)と名付け、中の宮に鎮座させる。曲玉の尻尾の方を噛み砕いてはき出した息の中から生まれた女神をたぎ津姫(たぎつひめ)と名付け、海濱(へつみや)に鎮座させる。

これを宗像の三女神と呼び、天孫の道中を助け、天孫を祭れる女神であるようです。「海の正倉院 沖ノ島」(武藤正行著、世界日報社)では次のように書かれています。

市杵島姫(いちきしまひめ)=宗像市の沖ノ島=沖津宮
田心姫(たごりひめ)=宗像市の大島=宗像大社(中津宮)
たぎ津姫(たぎつひめ)=田島=宗像大社(辺津宮)

これらの三地点は朝鮮半島に向かって一直線に並んでおり、「海北道中」と呼ばれるそうです。つまり天孫は朝鮮から「海北道中」を船でやってきた、という説が日本書紀に書いてあるのです。

古事記や日本書紀が編纂された時代には既に仏教が伝来済みですから、天とは天竺(インド)のことだとも思えます。あるいは、朝鮮に出兵し平壌付近の楽浪文化を取り入れたと思われる天皇を後に「天智」と名付けたことから、天とは楽浪のことだとも思えます。天智天皇が築いた近江大津京(志賀の都)の枕詞が楽浪の(さざなみの)というのも天が楽浪であることを言い伝えているのかもしれません。

他にも中国本土の福建省あたりが天で、台湾、沖縄を経て鹿児島に降臨したとの説も考えられます。もちろん対馬・壱岐経由が主な経路だったと思われますし、済州島・五島列島経由なども可能だと思います。出発地と目的地によって当然経路は変わると思いますが、大陸からの移民、あるいは大陸文化の伝来のことを天孫降臨と呼ぶのなら、全ての出発地が天でも良いと思います。

もし釜山から関門海峡・瀬戸内海を経由して難波・奈良・京都に直行するのであれば、沖ノ島経由が最短距離であることは明らかです。沖ノ島の遺跡から出土した黄金の指輪など多くの遺物がそれを物語っているようです。


2013.9.19 万延元年のアメリカ報告 4

1860年6月30日 ニューヨークを出発。ハリエット・レイン号でイースト川を遡り、沖合に停泊しているナイアガラ号へ。
1860年7月1日 ナイアガラ号ニューヨークを出発。アフリカ喜望峰回り。
1860年7月17日 西インド諸島のポルト・グランデに寄港
1860年8月7日 アフリカ、アンゴラのルアンダに寄港
1860年10月1日 ジャワのバタビアに寄港
1860年10月22日 香港に寄港
1860年11月10日 横浜に停泊。数名は先触れとして早駕籠で陸路江戸へ向かう。午後三時頃品川沖に到着。
1860年11月11日 正使新見、副使村垣、監察小栗らが登城し、帰朝報告。
1860年11月13日 アメリカ公使館が置かれる麻布善福寺にハリス公使を訪れ帰朝のあいさつ。
(万延元年のアメリカ報告、新潮選書、宮永孝著から抜粋)

「万延元年のアメリカ報告」は使節団の行動を日誌のように書いており、分かりやすいです。日本人を始めてみるアメリカ人からは大歓迎を受けましたが、日本に帰国した時には特に歓迎もなく、すかっり忘れられてしまったようです。そして、この使節団のための物資輸送および万一の時のための代理として派遣された咸臨丸の方が有名になりました。


2013.9.18 万延元年のアメリカ報告 3

ニューヨーク滞在中、写真館を訪れた銀板写真の撮影術を教えてもらいます。

「宮崎立元、村山伯元、川崎道民らの医師たちとトミー(立石斧次郎)は、W.W.リーランド少佐に案内されて商店や写真館を訪れた。とくにブレイディー写真館を訪れたときには、銀板写真の撮影術を教えてもらった。「医師一名は写真術を本格的に学ぶことになり、ブレイディー氏から写真機を与えられることになるであろう。」(ニューヨーク・ヘラルド紙)とある条りに「医師」とは、佐賀藩医川崎道民(1831−1881)であろう。彼は帰国後、藩主鍋島直大(1846−1921)らを写したとされており、その時の写真気がブレイディー写真館から入手したものであろう。」
(万延元年のアメリカ報告、新潮選書、宮永孝著から引用)

使節団がアメリカで撮影してもらった肖像写真が残っており、「万延元年のアメリカ報告」に出ているだけでも30枚以上になります。日米修好通商条約が締結されたのは、ちょうど写真時代の幕開けの頃だったようです。


2013.9.17 万延元年のアメリカ報告 2

1860年6月9日 汽車でワシントンからボルチモアへ移動
1860年6月10日 汽車でフィラデルフィアへ移動
1860年6月17日 汽車でフィラデルフィアを出発。サウスアンボイで外輪船アライダ号に乗り換えニューヨークに到着。他の都市と同様にニューヨークでも大歓迎を受ける。ニューヨークのウッド市長の挨拶を紹介します。

「使節閣下、貴卿らをお迎えすることに大きな喜びを感じます。ようこそニューヨークにいらっしゃいました。ニューヨークは江戸より人口が少ないかも知れませんが(当時のニューヨークの人口は約70万人、武士を含めぬ江戸の人口は約55万人)、アメリカ最大の都市なのです。私たちは関心がおありになるものは何でも喜んでお見せするつもりですし、皆さんのご滞在を快適、かつ有益なものとすべく努力を傾ける所存であります。」
(万延元年のアメリカ報告、新潮選書、宮永孝著から引用)

アメリカ合衆国は77名の使節団を国賓として扱い、送迎費用、滞在費、咸臨丸の修理費まで負担します。合衆国政府から5万ドル、ワシントン市1万ドル、フィラデルフィア市1万ドル、ニューヨーク市2万ドルを用意していましたが、最終的には総額で20万ドル近くになったようです。これは、アメリカの印象を良くし、人口の多い日本市場にアメリカ製品を売り込むためのマーケティング活動だったと考えられます。


2013.9.16 万延元年のアメリカ報告 1

1858年7月29日(安政五年六月十九日) 日米修好通商条約締結。
1860年2月13日(万延元年正月二十二日) 日米修好通商条約の批准書を交換するために新見豊前守以下七十七名の使節団がアメリカ海軍の蒸気フリゲート艦パウアタン号に乗り、サンフランシスコに向けて横浜を出帆。五日後に暴風雨に遭い一部破損。
1860年3月6日 予定を変更して修理のためハワイに寄港。
1860年3月30日 サンフランシスコ着。
1860年4月25日 パナマ着。まだパナマ運河はなく、蒸気機関車で大西洋側のコロンへ。
1860年4月28日 アメリカ海軍の軍艦ロアノーク号に乗船し、コロンから出帆。
1860年5月10日 ニューヨーク着。当初ニューヨークに上陸後汽車でワシントンに行く予定だったが、大統領の命令によりニューヨークには上陸できず、船でワシントンへ戻る。。
1860年5月13日 ハンプトン・ローズ着。
1860年5月14日 外輪船フィラデルフィア号に乗り換え、ポトマック川を遡上。
1860年5月15日 ワシントン着。5月18日第十五代大統領ブキャナンに謁見。
1860年5月23日 国務長官カスと批准書を交換。
(万延元年のアメリカ報告、新潮選書、宮永孝著から抜粋)


2013.9.15 FUJINON 1:2 f=10cm 2

「世界のライカレンズ Part 1」(写真工業出版社)にFujinon 1:2 f=10cmの記事がありましたので引用します。

「まず、開放からF4までの白文字絞りで撮影すると、フレアを残した柔らかい描写だから、被写体は当然のことながら女性などのポートレート向き。F5.6からの黄文字絞りではフレアが消え、画面には均一性が増し、シャープな描写が得られる。となると、このレンズの特徴を生かすには、やはり、白文字絞りでの撮影がいいということになる。だがそうはいっても白文字絞りの撮影はかなりむずかしいものがある。F4はともかく、F2~2.8で撮ると、正直なところピントをはずすことが多く、このレンズで柔らかい雰囲気のポートレートを撮ったことがない。」(土方幸男氏、「世界のライカレンズ Part 1」(写真工業出版社)から引用)

このレンズで撮影された柔らかい感じのポートレートをWebで探しても見つからないのは、上のような理由によるものだと思われます。しかし、このレンズより33年も前の1923に設計されたErnostar 10cm F2が開放からシャープなのに、似たような構成のFujinon 10cm F2がF5.6までソフトというのは不思議です。また、三年後の1959年に発売されたCanon 100mm F2が開放からシャープなのに、同じスペックのFujinonがソフトなのも不思議です。


こちらは過去のヤフオクで発見したミランダ44mmスクリューマウントのFujinon 1:2 10cmです。他のカメラ用のマウントがあったのかもしれませんが、不明です。

一眼レフだと後玉がミラーと衝突しそうなほど後ろにあります。エルノスターまたはテレゾナーと呼べれるレンズ形式は、レンズの全長を短縮するとともに、後玉を下げてレンズの内面反射をなくすのに効果があります。また、後玉の直径を小さくできるので、各種カメラに対応することができます。

ライツのSummicron 90mm F2がシャープだったので、まともには競争できないと考え、フジフィルムはソフトな10cm F2を出したのかと思ったのですが、Summicron 90mm F2の方が発売は遅いので、これも考えにくいです。ぼちぼち調べたいと思います。


2013.9.14 FUJINON 1:2 f=10cm (Leica screw mount)

FUJINON 1:2 f=10cmを借用してNEX 5Nでテスト。屋外のポートレート撮影ではピント合わせが難しいです。老眼鏡をかけるのを忘れていたのも敗因。前回NEX 5Nを使った時には、まだ老眼鏡は必要なかったのですが。最近急速に老眼が進んだので、まだ老眼に慣れていません。

ThambarやSummarexと同様に、FUJINON 1:2 f=10cmのレンズヘッドとヘリコイドは簡単に分離できます。ただのネジですので手で捻ればヘッドがはずれます。実際に改造はしていませんが、NIKON FまたはEOSマウントへの改造は至って簡単だと思います。


2013.9.13 Pentax 645D

Pentax 645Dのデモ機を借用しました。F2.8/55mm標準レンズ付きです。

なかなか迫力のある外観。縦位置の三脚座が付いているのが35mmカメラとの大きな違いです。


Pentax 67-645マウントアダプタも一緒にお借りしたので、Pentax 67に改造したRossのペッツバールレンズを取り付けてみました。全く問題なく写ります。

半日間の借用でしたので、細かいテストはできませんでしたが、35mm一眼レフと同じ使い方ができ、非常に便利な中判デジタルカメラだと思います。44mmx33mmの大きなイメージセンサーを持つカメラとしては、機動性に優れています。4000万画素の大きなイメージセンサーを生かす写真を撮る、というのがなかなか難しいのですが、このカメラを首からぶら下げていると街中で目立つことは間違いありません。


2013.9.11 VALLANTIN LEREBIOURS 4

薄いヘリコイドを入手。VALLANTIN LEREBIOURSの改造が完了。ヘリコイドとフランジ金具を接着しただけです。非常に軽いレンズですので、これで十分です。


使ったのはM42-M42 12-17mmヘリコイドです。


EOS 5Dの場合、レンズ後端がこれ以上カメラ側に入るとミラーと衝突します。


ミラーとの衝突防止のためセロテープで仮止めしてあります。ミラーレス機であれば不要です。


2013.9.7 Wray社の歴史 4

その後、Wray社はラピッドレクチリニアなどの普通の写真レンズを作りますが、省略。第二次世界大戦が終わると、テーラーホブソン社からWynneが移ってきて興味深いレンズを設計します。

(Vade Mecumから引用)
Wynne (1911- Oct. 1999) はライセスター生まれ。テーラーホブソン社に1935年から第二次世界大戦終了時まで勤務。戦後、ドイツ光学産業調査団に任官。その後、Wray社に移る。そこで、F0.71レンズやUmiliteレンズを新たに設計し、Lustrarや引き伸ばしレンズの改良を行った。1959年に王立大学の教授となり、コンピュータによるレンズ設計手法を研究した。

(訳者注: 第二次世界大戦でイギリスはドイツに勝ったものの、膨大な戦費の負担により財政が悪化した。イギリス光学産業育成のため、敗戦国であるドイツの光学産業を調査し、光学関係企業の再編を行った。)

興味深いレンズはには次のようなものがあります。
Copying f1.0
Cine Radiography f0.71
Unilite f2.0
Cine Unilite f1.9
Cine Unilite f2.0
Unilux f2.8


2013.9.6 Wray社の歴史 3

(Vade Mecumから引用)
初期の対称型アナスチグマットであるPlatystigmatが1890年に発売された。しかしガラスが不安定だったため、すぐに設計が変更になった。Wray氏は19世紀の末に亡くなり、ふたりの女性が相続した。オーナーの高齢化により業績は悪化したが会社は存続し、1908年にスミス氏によって買収された。ビクトリア朝時代(1837‐1901)のレンズは比較的入手しやすいが、その次の時代のレンズは入手しにくい。しかし、Platystigmatも少量は出回っている。

William Wrayが社長の時代に作られたレンズ:

メニスカス レンズ:1886年に製造された記録がある。、1891年の雑誌には光彩絞りの付いたレンズが掲載されている。二種類のマウントがある:
(a) Cone mount 真鍮製、ウォーターハウス絞り付き。N0 71x, 焦点距離10inch, 1/1 plate(8x10)用
(b) Barrel mount 光彩絞り、No143x, 焦点距離8inch, 1/2 plate (5x7)以下。絞りはF8-F61。多分絞りこんで使用された。Wray社は当時光彩絞りの導入のリーダーだった。

風景用広角レンズ:
1889年頃。画角90度。焦点距離3.5, 4.625, 6.0, 7.0, 8.0, 9.0, 10.9 inch。

風景用狭角レンズ:
焦点距離7.5(for 5x4 plate), 9.0(for 6.5x5 plate), 12.0(for 8.5x6.5 plate), 15.0(for 10x8 plate) 18.0(for 12x10 plate) inch


2013.9.5 Wray社の歴史 2

(Vade Mecumから引用)
Wray社は1880年またはその少し前から写真レンズの製造を始めた。初期の写真用レンズはラピッドレクチリニアとペッツバール型である。Wrayは光彩絞りの開発にも協力した。(訳者注:Kignslakeによると、光彩絞りは19世紀のはじめから知られていた。1858年にニューヨークのC.Cハリスンが改良を行い特許を取得。しかし、この形式の絞りは当時はあまり使われなかった。1880年に光彩型のシャッターが発明された時、ハリスンの原理が使われた。なので、光彩式の絞りおよびシャッターの普及は1880年頃からと思われる)

1891年になると、イエナのガラスを使って、ハンドカメラ用に新しいレンズを製造した。4インチから6インチのもので、6インチの場合1/4プレートを余裕でカバーした。絞ると8.5x6.5inまでカバーした。(訳者注:今回改造したレンズは焦点距離6.5インチで5x4(1/4プレート)と刻印してありますから、多分イエナのガラスを使っていないと思います)


2013.9.4 Wray社の歴史 1

(http://adsabs.harvard.edu/full/1886MNRAS..46..201.より引用)
William Wrayは1829年12月6日ヨークシャーのWhitbyで生まれる。父は船長で、息子を船乗りにしたかった。しかし、母親がこれに反対し、弁護士事務所に奉公に出す。Williamは天文学と望遠鏡に興味を持ち、反射型望遠鏡を自作した。彼はこれに満足せず、屈折型望遠鏡の製作を試みる。数多くの試作を行ったが、フリントガラスの調合が難しく、高価なガラスであるにもかかわらず、良い結果を得ることができなかった。

弁護士の仕事が好きになれず、1850年にロンドンに移り、光学技術者をはじめた。最初の仕事は顕微鏡のレンズの製作。従来は三枚で構成されていた一番前のレンズを、屈折力の強い1枚のレンズに置き換えた。

まず最初にWilliamは二次収差の削減に時間を費やし、色収差のない対物レンズの開発に成功した。しかし、残念ながらこのレンズは長期間安定した性能を得ることができなかった。レンズの間に液体を使用したが、この液体が漏れるのを止めることができなかった。

後にWilliamは望遠鏡と顕微鏡のレンズの両方で成功を収める。望遠鏡では厚くて重いフリントガラスを軽いもので代用することに成功した。

1862年1月10日、業界団体の特別会員に選出された。


2013.9.3 Wray London 5X4 No150 3

Wray社の創業当時の様子ははっきりしないのですが、弁護士のWrayさんが天文学に興味を持ち、1850年頃Wray社を創業。当初は望遠鏡を製造していたが、1880年より少し前から写真レンズの製造も開始したようです。このレンズは製造番号が150番ですので、ごく初期の物だと思います。1880年頃の製造だと鑑定したいと思います。

このレンズはラピッド・レクチリニア型のレンズです。ラピッド・レクチリニアは1866年にイギリスのDallmeyerとドイツのSteinheilがほぼ同時に発明。特許係争が発生しますが、結果的に非多くの国の多くのメーカーが製造を始めます。ラピッド・レクチリニアのレンズは貼り合わせ面のカーブがきついので、一個ずつ磨く必要があり、製造効率は悪い。しかし、歪曲が少ない、被写体までの距離が変わっても収差が一定しているなどの特長があり、長年に渡って成功を収めました。


2013.9.2 Wray London 5X4 No150 2

Wray London 5X4 No150の焦点距離とF値を測定したところ、165mm F6.3という結果になりました。基準はキヤノンのEF 70-200mm F4 L USMです。5X4インチ(日本では4X5と呼ぶ)で撮影するための当時の標準的なレンズだと思います。


2013.9.1 Wray London 5X4 No150

Wray London 5X4 No150 AGENT W. Humel, Optician Edinburgh

こちらも中将姫光学さんから預かったWrayのRapid Rectilinearレンズ。

真鍮の表面に模様が出ています。これはデザインではなく経年変化だと思いますが、磨いても取れません。


代理店名が刻印されています。


A.T.と書いてあるのですが、荒っぽい刻印なので、所有者が自分で刻印したものだと思います。


ウォーターハウス絞りが4枚付属しています。


M42ヘリコイドに装着したところ。


2013.8.31 VALLANTIN LEREBIOURS 3

VALLANTINの焦点距離と明るさを測定したところ、約70mm F3.5でした。キヤノンのズームレンズを基準にしています。

製造年代ですが、1856年までルルブールの職長だったと刻印してあるので、1856年以降であることは間違いありません。湿板カメラに付いていたとの記載がありますが、湿板写真の発明が1851年ですから、矛盾はありません。乾板の発明が1871年で量産が1878年ですから、これより前だと考えられます。少なくとも3576本作られたとの記載から、このレンズの製造番号2444は真ん中くらいだと考えられます。1856と1871の真ん中を取って、1863年頃に製造されたと推測します。

まとめると、
70mm F3.5 1863年頃、VALLANTIN光学機械商 (1840年から1856年までLEREBOURS親方の店の職長だった)が製造。


2013.8.30 VALLANTIN LEREBIOURS 2

VALLANTINのレンズはCorrado D'AgostiniのPhotographic lenses of the 1800's in Franceの318ページに二本出ています。(鑑定依頼主の中将姫光学さんからの情報)

No 2961には次のように刻印されています。

VALLANTIN OPTIEN de 1840 à 1856 Cont..tre des ateliers de MR. LEREBOURS rue Notre Dame des Champs 123 in Paris

Cont..treという単語が不明です。フランス語辞典を調べると、contremaitre=職長 という言葉が見つかりました。もしこれがCont..treに省略されているとすると、次のような意味になると推測できます。(フランス語が得意な方、間違っていたら教えてください)

VALLANTIN光学機械商 (1840年から1856年までLEREBOURS親方の店の職長だった) パリのノートルダム通り123番地

一方、Corrado D'AgostiniのPhotographic lenses of the 1800's in Franceには次のような解説があります。

「VallantinはLEREBOURSの工房で、Darlotと同じようにレンズの微調整を行った。Vallantinは技術に自信を持っていたので、これをレンズに刻印した。Vallantinは少なくとも3576本のレンズを製造した。Vallantin No 2961は湿板カメラに取り付けられていた。」

LERENOURSは当時フランスでは有名な光学機器メーカーで、Gaudinなどにレンズを供給していたようです。Noel Marie Paymal Lereboursは1807年生まれで1873年没ですから、1856年の時点では49才の働き盛り。なので、VallantinがLereboursの後継者とは考えにくいです。

多分、VALLANTINは1840年から1856年までLEREBOURS親方の工場で職長を務め、その後独立してモンマルトル通りに自分の店を構えたのだと思います。そして、LEREBOURSの工場の職長だったことをレンズに刻印することにより、顧客の信用を得たのだと思います。残念ながら、このレンズがLEREBOURSの工場で作られたレンズをVallantinが微調整したものか、それともVallantinが自社工場で生産したものかは不明です。


2013.8.29 VALLANTIN LEREBIOURS

中将姫光学さんから預かった小さなペッツバールレンズの調査。
No 2444 VALLANTIN. OPN de 1840 a 1856 C..tre des atel..rs de MR. LEREBOURS Paris
と書いてあるように見えますが、意味は分かりません。


長さ66mm、前玉の口径が約20mm、座金の外周が約52mmの小さなレンズです。


ルルブールが製造し、バランティン(バランタン)のカメラに取り付けられていたのだと思います。


分解すると普通のペッツバール型のレンズです。受け取った時にはレンズの組み立て方が間違っており、うまく写りませんでした。正しく組み立て直すと、もちろんちゃんと写ります。前玉のコバに鉛筆書きがあります。


2444 シリアルナンバーです。


Vallantin


暫定マウント。17-31mmヘリコイドでは無限が出ていません、もう少し薄いヘリコイドを入手する予定。


羽村でもらったうちわです。近接撮影ですが、とてもシャープに写っているように見えます。


2013.8.28 松崎ナオを聞いた感想

松崎ナオのCDを聞いてみました。聞いたのは以下のアルバム。

正直な人(1998年)
虹盤(2001年)
Flower Source(2006年)
気持ちバタフライ(2008年)
賞(2013年)

独自の世界でユニーク。どこを聞いても松崎ナオという感じです。最近ではNHKの「ドキュメント72時間」のテーマソングにも使われていますが、せつない感じの歌が多いです。

独自の世界なので、慣れるまでに少し時間がかかります。慣れてしまえば、ファンになること間違いなしです。多分全曲オリジナルだと思いますが、何しろ素晴らしい声なので、椎名林檎と共演した「木綿のハンカチーフ」のようなカバーも是非歌ってもらいたいものです。

どのアルバムも良いのですが、強いて言えば、初期の「正直な人」と「虹盤」が良いと思います。


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