EOS10D日記その33 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2009.7.56 シネレンズ入門(4) Cooke Technicolor

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、朝日ソノラマ)より引用します。
”1931年、テーラー・ホブソン社のH.W. リーが三色分解テクニカラー・カメラ用に焦点距離35mmF2レンズを設計した。このカメラではレンズの後ろに置く色分解用のガラス部品が広い場所をとるので、焦点距離50mm以下の普通のレンズは使えなかったのである。”

テクニカラー自体の説明はこちらにあります。テクニカラーにはSystem 1, System 2, System 4があります。System 1, 2はプリズムで2つに分けた入射光を用いて、赤フィルターをかけた白黒フィルムと、青緑フィルターをかけた白黒フィルムに別々に露光し、後で着色したフィルムを貼り合わせてカラーポジを製作したようです。写真を見ると、人物の肌色はうまく出ているようですが、背景の青と緑の区別がつかないようです。

1932年に完成するSystem 4では、3色分解となり、総天然色と呼ばれるようになります。入射光をプリズムで2つに分けるのは同じですが、フィルムを3本使うため、格段に色がよくなったようです。一方の入射光には緑透過フィルターをかけて、緑のフィルムを作ります。他方の入射光にはマゼンタ透過フィルターをかけ、そこに2本のフィルムを重ねて置きます。手前のフィルムは青色だけ感光し、奥のフィルムは赤色だけ感光します。特殊なフィルムを使うことにより、3色分解を実現したようです。

非常に高価なカメラシステムですので、標準レンズには当時最新鋭の Cooke Speed Panchro 2/75mmが採用され、 Cooke Anastigmat for TECHNICOLORという刻印が与えられます。テクニカラーSystem 4のプリズムの前面からフィルムまでは44mmほどあったようで、 普通の広角レンズは使えません。Speed Panchro 35mmではバックフォーカスは24mm程度しかとれませんので、プリズムと衝突してしまいます。 そこで、テーラー・ホブソンのH.W. リーは逆望遠あるいはレトロフォーカスと呼ばれるレンズ Cooke Anastigmat for TECHNICOLOR 35MM f/2 を開発します。このレンズは、おおざっぱに言うと、Speed Panchro 2/50mmの前に0.7倍のワイドコンバータと取り付けたようなものです。

その後、8mm映画カメラ用に大量の逆望遠レンズが製造されます。Dマウントのフランジバックは12.29mmもありますので、6.5mm広角レンズの場合には、逆望遠の構成にする他はありません。Technicolor 2/35mmを筆頭とする逆望遠レンズは、まさにシネレンズの王道であると言えます。

逆望遠レンズは1950年以降は一眼レフ用として数多く製造され、どれもシャープです。開発当初から非常にシャープなレンズに仕上がっており、クラシックレンズとしての風情はあまりありません。小さなイメージサークルの場合は問題ないのですが、大きなイメージサークルを得ようとすると、焦点距離の割にはレンズが巨大になります。Technicolor 2/35mmは35mmシネフィルムのイメージサークル(APS-Cとほぼ同じ)の設計されており、35mmフルサイズでは周辺が大きくけられます。

Technicolorレンズは、滅多に売りに出ませんし、めったに買う人もいませんので、相場はありません。自分の勘で判断してください。

ちなみに、日本では1942年に完全な3色分解システムである、コニカラー・システムの開発がはじまります。1952年にコニカラーカメラ第一号が完成し、試作映画「可愛い魚屋さん」が公開されます。コニカラーカメラに使われたレンズが何であったのかは知りません。


2009.7.55 シネレンズ入門(3) Cooke Panchrotal

キングズレークの本にダブルガウス型のレンズの例としてPanchrotalが出ていたので、ダブルガウス型のレンズだと思って買ったのですが、ダブルガウス型のレンズではありませんでした。”しかしよくあることだが、同じ商品名が全く異なった構成のレンズに付けられることが多々ある。従って、この名前も他の構成のレンズにつけられている可能性があり、必ずしもダブル・ガウス型レンズだけではないことを承知しておいて欲しい。”、との注釈がありましたので、これに該当するようです。

Panchrotalはどうやら、次のような型のようです。

望遠レンズで、とてもシャープです。開放から滲みもなく、現代のレンズ変わらない高い性能を持ちます。このレンズはもともとCマウントでしたが、35mmフルサイズのイメージサークルを楽にカバーしています。35mmフルサイズだと強い糸巻き型の歪曲がありますが、Cマウントだと全く悪影響はないと思います。強い糸巻き型の歪曲は、女性を撮影するときに大きな効果を期待できるかもしれません。試したことはありませんが、撮り方によっては、痩せて見えるのではないかと思います。

このレンズは望遠レンズですので、ほとんどがシネ用の4インチ(100mm) F2.3(T2.5)のようですが、2.8インチ(71mm) F2.3(T2.5)も少しあるようです。そして、スチルカメラ用にも4インチ F2.8が出荷されているようです。Bell&HowellのFOTON用の交換レンズのようです。

100mmなので、シネ用とは言っても改造は簡単だろうと思って買ったのですが、非常に難しかったです。腕自慢の改造マニアの方は、きっと満足できると思います。それ以外の方は、マウント改造済みのレンズを買った方がいいと思います。


2009.7.54 シネレンズ入門(2) Cooke Speed Panchro

goo辞典でパンクロマチックフィルム[panchromatic film]を引くと、
「感色性が可視光の範囲とほぼ一致し、肉眼で見るのと近似した明暗を表現できる黒白フィルム。パンクロ。全整色フィルム。」
と書いてあります。大口径(Speed)で全整色レンズ(Panchromatic)なので、Speed Panchroと名付けられたのだと勝手に思っているのですが、本当のことは知りません。

レンズの構成としてはCooke OPIC (Series O)と良く似ています。キングズレークの本を見ると、Speed Panchroの特許は、イギリス377,537, アメリカ1,955,591と書いてあるのですが、特許全文をWebでは見つけることができません。特許全文が読めれば、謎は解けるのですが、残念です。キングズレークの写真レンズの歴史から引用します。
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1931年、リーが設計したF2スピードパンクロ(Speed Panchro)は、非常に好評で長年にわたり、標準レンズとしてハリウッドのカメラマンに愛用された。
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また、Cooke Optics Limitedの1930年代のページには、次のように書いてあります。
By 1935 the Cooke Speed Panchros for cinematography were supplied in 8 focal lengths working at f/2.0: 24, 28, 32, 35, 40, 50, 75 and 108mm. They were designed to cover standard format 0.631 x 0.868 inch. (Brit. Pat. 377,537. U.S. Pat. 1,955,591 - 1931)

これらの記述から、Opic F2では後玉が大きすぎてシネカメラのターレットに入らないので、35mmフィルムの小さなイメージサークルに合わせて、Speed Panchroの後玉を小さくしたのだと思っていました。OpicとSpeed Panchroの前玉と後玉の直径の比率は次のようになります。

Opic 2/140mm (12万番台) 前玉直径 69mm, 後玉直径 64mm, 前後比率1:0.92
Opic 2/108mm (18万番台) 前玉直径 54mm, 後玉直径 47mm, 前後比率1:0.87
Speed Panchro 2/75mm (28万番台) 前玉直径 37.5mm, 後玉直径 28mm, 前後比1:0.75

確かにSpeed Panchroの後玉は少し小さいですが、同じOpicでも焦点距離によって少し比率が違うのは腑に落ちません。良くわからないなぁ。ひょっとしたら、Opicの中でも時代とともに前後比率が小さくなっていったのかもしれません。

Speed Panchroを大量に扱う中古レンズ屋さんの話では、Speed Panchroには2種類あるそうです。薄いブルーのコーティングのもの(Series名なし、古い方)と、濃いアンバーのコーティングのもの(Series II、新しい方)です。SeriesなしとSeries IIの写りの違いは不明ですが、私はとにかく一番古いのを買いました。シリアルナンバーは28万番台。23万番台のも見たことがあります。OPICが12万番台と18万番台ですので、シリアルナンバーが近いOPICとSpeed Panchroを揃えるのは、なかなか難しいかもしれません。

今まで見たOpicは全部ノンコーティングで、Speed Panchroは全部コーティングがされています。Speed Panchroが開発されたのは1931年ですので、まだコーティングはなかったとばかり思っていたのですが、ひょっとしたら、OPICとSpeed Panchroの最大の違いはコーティングの有無かもしれません。残念ながら同じ焦点距離で同時期に製造されたOPICとSpeed Panchroを直接比較したことがないのではっきりとは言えませんが、「OPICとSpeed Panchroの差はコーティング」という仮説も成立するかもしれません。Panchroという名前自体が、ガラスの材質かコーティングを意味しているような気がしてなりません。

まあ、とにかく、汎用的なレンズだったOpicレンズを、35mm映画カメラ用に最適化して、コーティングをしてSpeed Panchroと名づけ、映画界の要望に応えた、というような感じだと思います。


2009.7.53 シネレンズ入門(1) Introduction

四年ほど前に昔のレンズに興味を持ち出したころには、シネレンズを買う人は相当の変人だと思っていました。まあ、自分がシネレンズを買うことはないだろうと。しかし、気がつくと身の回りはシネレンズだらけになってしまいました。カメラバッグの中はすべて改造シネレンズで、スチル写真用のレンズが一本も入っていないことも最近ではしばしば。

まだシネレンズが良く分からない頃、ある有名なクラシックカメラ屋さんで、Dallmeyerのシネレンズに関する本は売っていませんか? と聞いたことがあります。Super-Sixと刻印のあるのやら、Speed Anastigmatと刻印のあるのやら、単にF/1.9としか刻印していないのやら、いろいろあって良く分からないので、知っていたら教えて欲しいと。今から思えば馬鹿な質問でして、店員さんには申し訳なかったと思います。初対面のその店員さんの回答は予想外のものでした。「そんな本はありません。ある程度分かっているのなら、自分で本を書きましょう。」 今思えば、誠に的確な回答だったと思います。

本を書くまでには、まだ数十年かかると思いますが、とりあえず一眼レフで使える、比較的焦点距離の長いシネレンズについて、今分かっていることを書いてみたいと思います。最近流行りの25mm近辺のCマウントレンズや、35mm映画の主流でありレンジファインファーカメラへの改造に向く30mm-50mmのレンズについては、残念ながら良く分かりませんので、他の方に譲りたいと思います。

これからシネレンズを使ってみたいという方の参考になれば幸いです。もし、このシリーズを読んでシネレンズの掘り出し物を見つけた方は、掲示板に書き込むか、メール下さい。なにしろ、情報が不足しておりますので、ご協力頂けると助かります。

ここから先は、私のメモです。この順で書くとは限りません。見なかったことにして下さい。ツアイスが一本もないなぁ。

イギリス
- Cooke Speed Panchro F2
- Cooke Panchrotal F2.3
- Cooke Technicolor F2
- Cooke Kinetal/Kinic/Ivotal
- Cooke Deep Field Panchro
- Dallmeyer Super-Six F1.9
- Dallmeyer Speed Anastigmat F1.5
- Dallmeyer F1.9
- Dallmeyer Kinematograph
- Dallmeyer F0.99
- Ross XPRES F1.9
- Wray Cine-Unilite F2
- Watson F/1.9

ドイツ
- Hugo Meyer Kino Plasmat F1.5
- Hugo Meyer Kino Plasmat F2
- Astro Berlin Gauss Tachar F2
- Astro Berlin Tachar F2.3/F1.8
- Astro Berlin Rosher-Kino-Portrait F2.3
- Astro Berlin Tachnar F1.0
- Ernst Leitz Hektor Rapid F1.4
- Goerz Kino Hypar F2.7
- Askania Kino-Anastigmat F1.8
- Schneider Xenon F2

その他
- Kern Switar F0.9/F1.4/F1.9
- Kern YVAL F3.3
- Kinoptik Apochromat F2
- SOM Berthiot Cinor
- Zunow Cine F1.1
- Baucsh & Lomb Baltar/Raytar
- Gundlach Ultrastigmat F1.9
- Kodak Cine Ektar
- Wollensak Cine-Verostigmat F1.5


2009.7.52 本能寺の変

”その時歴史が動いた2”(NHK取材班編、KTC中央出版)の「敵は本能寺にあり」でゲストの加来耕三氏は次のように述べています。

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NKH取材班---歴史にもしはありませんが、この本能寺の変がなければどうなったのでしょう。
加来氏---信長はおそらく天下を取ったはずです。日本を統一し、朝鮮半島に攻め込み、中国大陸まで侵略したと思います。そうなった場合、その当時の人たちが受けた苦しみや悲しみは、計り知れないほど大きくなったと思います。
 光秀に勝った秀吉がそのミニチュア版をやったわけです。別な角度からみれば、戦国争乱期を統一するエネルギーというのは、それほど強いものであり、そうでなければ日本を一つにまとめきれなかったということでしょう。
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なるほど。そういう見方もあるわけですね。ちなみに、長篠の戦いでは、信長は鉄砲三段撃ちはしなかったようです。梅雨時の豪雨とぬかるんだ水田の中での戦いでは、火縄銃を使うことは難しかったのだそうです。


2009.7.51 Spped Panchro 2/75mm 再々改造


だいぶスマートになりました。絞りも自由に変えられるようになりました。Checkie氏から頂戴したヘリコイドは非常に役に立ちます。


これが以前の姿。非常に大きいし、重いし、絞りは自由に変えられないし、持ち出す機会が少なかったです。


真鍮のローレットは補強です。今回はうまくビスが打てなかったので、接着剤のみによる接合になってしまいました。強度が足りないので、これで補強しています。もlちろん脱着時の滑り止めの役目もあります。


改造としては、単に52mmのスクリューを貼りつけただけです。レンズの太さが49.6mmですので、そのままでは太すぎて入りません。52mmのオスの内側の穴を極限までやすりで削ります。オスネジをぺらぺらになるまで削って、やっと入れることができました。指で強く押すと、へこんでしまうくらいの薄さです。


52mmスクリューを取り付けたところ。ビスは打てないので、合成ゴム系接着剤で貼りました。


中央に見えるのがうすく削った52mmスクリューです。


バックフォーカスが短いので、薄いヘリコイドは助かります。真鍮のローレットの右側に見えるのが絞り輪です。


最後に革でキャップとフードを作って改造終了。革のフードは今回初めて作りましたが、なかなか便利です。


2009.7.50 heavyweight

英語のheavyweightには大物とか重鎮とかいう意味があるようです。Microsoft Bookshelfによりますと、

II 有力者
a heavyweight in the political world 政界の大物

と出ています。「重」も「鎮」も「おもし」の意だそうです。


2009.7.49 アレキサンダー大王(12) 継承

前323年、はっきりした後継者を残さないまま、アレキサンダーはバビロニアで死にます。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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前323年6月の時点では、現存するアルゲアダイ家「マケドニア王室」の唯一の男性は、アレキサンドロスの異母兄弟アッリダイオスであったが、不幸なことに彼は、不治の精神疾患に冒されていた。ロクサネは妊娠していた。だが、多くのマケドニア人は、イラン人の女性から生まれた子どもに後を継がせようとは思わなかった。原因はどうあれ、摂政を任命するという問題が起こるはずであった。したがって、アレクサンドロスのおもだった将軍たちは、権力を奪うために、お互いに戦う覚悟を決めたのである。
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アケメネス朝ペルシャの最後の王として、ダレイオス一世によって作られた帝国の全領土の奪回に成功し、マケドニア・イラン混成軍の創設などには熱心だったアレキサンダーですが、マケドニア王室の後継ぎ問題に関しては、あまり熱心ではなかったようです。やはり、壮大な夢に突き動かされたいた偉大な変人という感じがします。


2009.7.48 アレキサンダー大王(11) 警察

”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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これほど広大な領土を征服すると、やはり警察という問題がもちあがった。小アジアの総督たちが進める「秩序維持」の作戦が、その証拠である。小フリュギアの総督カラスが。前327年の直前に、ビテュニアの領主バスとの戦いで行方不明になり、彼の同僚でキリキア総督のバラクロスも、前323年の直前、イサウラとラランダの町々に対して遠征を行っていたときに、同じ運命をたどった。この二人の例は、アレクサンドロスの通過後、マケドニア人が領土と住民を支配するのが困難であったことを示している。アレクサンドロスは、特に小アジアでは、正式の降伏を受け入れるだけで満足していたのであった。課題は二つあった。、すなわち、「反抗した」地域を最終的に屈伏させること、そしてここで実現した制服を少なくとも守ることであった。すでに見てきたように、この任務は、西方の管区では総督たちに、東方の管区ではマケドニア人の軍司令官たちにまかされていた。
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アレキサンダーの軍勢が来ると、とりあえず降伏し、適当に金を渡し、接待をする。アレキサンダーはすぐに次の戦いに出て行くので、無理に抵抗して被害を増やすことはない。アレキサンダーの占領部隊が残ったとしても、あまり強くはないので、そんなに心配することはない。アレキサンダーはそのうち負けて死ぬので、たぶん帰ってこない。もし帰ってくるとしても、数年後。とペルシャの地方領主は考えたのではないでしょうか。アレキサンダーの本意ではなかったと思いますが、アレキサンダーがどんどん前に進むことの助けにはなったと思います。


2009.7.47 アレキサンダー大王(10) 虐殺

もちろんアレキサンダーの大遠征が平和的にだったわけではありません。特に人民蜂起やゲリラの指導者には虐殺で対抗したようです。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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「プレトマイオスは海岸部を略奪し、レオンナトスは内陸を攻略するようにとの命令を受けた。アレクサンドロス自身は谷あいの地域と山岳地帯を廃墟とした。かくして同時に、広大な地方が業火と略奪、虐殺によって荒涼たる土地となってしまった。そして兵士たちはごくわずかの期間に、莫大な戦利品を手に入れることとなった。無数の蛮族がのどをかき切られた。流血の惨事にふるえあがり、近隣の諸部族は国王の権威になびいたのであった。」(原注:ディオドロス第XVII巻94章)
これらは、アレクサンドロスが、武力による反抗に人民を引き込む疑いのある若い政治的・軍事的エリートを排除するために、組織的な方法を決断し、それを実行したことを示している。
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虐殺はアレキサンダーに限らず昔は普通にみんなやっていますので、特に驚くことではありません。アレキサンダーが特に残虐だったというわけでもないようですが、特に平和的だったわけでもないようです。


2009.7.46 アレキサンダー大王(9) 協力

マケドニアから遠く離れた地域では、現地で騎兵の徴集を行いました。アレキサンダーの力を利用して利益を得ようとした現地の貴族がいたためだと思います。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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マケドニア兵は徐々にゲリラ戦に慣れ、アレクサンドロスもバクトリアとソグディアナの貴族が少しずつ支持を広げてくれたおかげで、この地方で騎兵を徴集することができた。
しかし、スキュティア人の協力は不安定ではっきりとしなかった。このことはアッリアノスの考察であきらかである。
「これらのスキュティア人は極貧にあえいでおり、また、彼らは都市も永続的な居住地ももっていなかったし、自分たちの価値のある財産を心配する必要もなかったので、誘いをかければ、容易にあらゆる戦争に参加するように説得されてしまうのである。」
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遊牧民は移動しながらの戦闘に強かったのではないかと思います。家畜ととも常に移動しているわけですから、食料や生活物資の心配はありません。家族も一緒に移動しているわけですから、ホームシックにかかることもありません。武器さえ与えれば、すぐに強力な旅団となり、とんでもない遠方に行くこともできます。負けそうになったら全員で逃げることもできます。家畜以外に失う財産もないので、アレキサンダーでもダレイオスでも、条件のいい方にいつでも寝返ります。

このような武装遊牧民は、中世のヨーロッパの戦争でも傭兵という名前で登場します。通過する経路上の村々を略奪し破壊しながら、家族や家畜とともに移動します。日本にはないタイプの戦力ですので、ちょっと想像しにくいのですが、なかなか破壊力がありそうです。


2009.7.45 アレキサンダー大王(8) 解放

アレキサンダーはエジプトをバビロニアにおいては楽に事業を進めることができたそうです。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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というのは、ペルシャ人はこれらの地では大多数の住民から圧制者と考えられていた、と記されているからである。たとえば、ディオドロスによると、「アレクサンドロスは一戦も交えずにエジプトの町々を手に入れた。事実、エジプト人はマケドニア人を喜んで迎えた。というのは、ペルシャ人は神殿に対して不敬をはたらき、国中に冷酷な支配をしたからである。」 だが、アレクサンドロスに解放者のイメージを与えるこの種の叙述には、注意しなければならない。
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アレクサンドロスはエジプトの伝統的な神々に犠牲をささげ、シヴァのオアシスにアモン神の託宣を聞きに出かけ、カルナックやルクソールなどの神域では神事を続けるようにと命令しました。これによって、エジプト社会に影響力のある神官や行政官の支持をとりつけました。しかし、ペルシャのカンビュセスやダレイオスがエジプトを征服したときにも、同じことを行いました。再び、”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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エジプトでも他の国々と同じく、エリートたちは、その時その時の権力と協調することに、あらゆる利益を見出していた。
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まあ、要するに、ペルシャでもギリシャでも、儲かればどっちでもよかった、ということですね。


2009.7.44 アレキサンダー大王(7) 結婚

前327年、アレキサンダーはソグディアナの王女ロクサネと結婚します。ロクサネの父オクシュアルテスは「ソグディアナの岩場」の抵抗戦を指揮したばかりでしたから、敵の王女と結婚したことになります。前324年には、ロクサネと離婚することなく、ダレイオス三世の娘スタテイラ、およびアルタクセレクセス三世オコスの娘パリュサティス結婚しています。婚礼はペルシャ風の豪奢な儀式にのとって挙げられたそうです。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。

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それゆえ、これらの儀式は、まさしく統治の協定をなすものであった。もちろん、イラン人貴族も、アレクサンドロスを自分たちの王と認めたのである。アケメネス朝の王女たちとの結びつきによって、伝統あるアケメネス王国との協調のうちに、権力が委譲されたのである。
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アレキサンダー大王は小国マケドニアの王から大国ペルシャの王に出世した。その過程で広大なペルシャ帝国全土に挨拶まわりに行き、逆らう奴は武力鎮圧した。そして最終的にはアレキサンダーがアケメネス朝ペルシャ後継者だとペルシャの貴族に認めさせ、その広大な領土を受け継いだ。ということではないかと思います。


2009.7.43 アレキサンダー大王(6) 先駆

「ダレイオス一世の大遠征」というのは、あまり正確ではないかもしれません。ダレイオス一世はエーゲ海からインダス川にわたる広大なペルシャ帝国の中央集権体制を整備した功績があるのですが、ひとりで全領域を征服したというわけではないようです。たとえばエジプトの征服は、紀元前525年にカンビュセス二世が行いました。エジプトは紀元前404年に一旦ペルシャから独立しますが、紀元前341年、アルタクセルクセス三世に再征服されます。つまり、歴代のペルシャ王にとってはギリシャ、エジプト、インダス川流域まで遠征し統治することが当然だったわけです。

ほとんどのギリシャの都市と同じように、マケドニアも一時はペルシャの支配下に入ったことがあります。西洋史的に言うと、ペルシャに侵略されたということになるのですが、実際には割りと平和的な支配だったのかもしれません。若きアレキサンダー三世は家庭教師であるアリストテレスから、広大なペルシャ帝国のこと、エジプトのこと、バビロンのこと、インドのこと、そしてその先に広がるであろう世界のことを聞いていたのかもしれません。いつかは僕もダレイオス一世のようなペルシャの王になりたい、と思っていたのかもしれません。

そのように考えると、ダレイオス三世が殺害された後、後継者として復習のために戦うというのは納得がいきます。きっとアレキサンダーの部下たちもアレキサンダーの夢をしょっちゅう聞かされていたので、文句を言いながらもバクトリアやソグディアナまでつきあったのではないかと思います。


2009.7.42 アレキサンダー大王(5) 同質

マケドニア軍と、ペルシャ軍が全く違う軍隊であったかというと、そんなこともないようです。例えば、マケドニア側にもペルシャ側にもギリシャ兵がいました。マケドニア軍のギリシャ兵は、遠征中にギリシャを牽制するための人質のような軍隊であり、ほとんど働かないまま、ギリシャに送り返されたようです。ペルシャ軍のギリシャ兵は、お金で雇われた傭兵だったのですが、ペルシャ兵がダレイオス三世を見捨てた後でもなおダレイオス三世に忠実だったそうです。

ギリシャ対ペルシャは、すなわち西洋対東洋、つまり異質な世界の戦いであったと思っていました。しかし、良く考えてみると、紀元前4世紀にはギリシャとインドの間はすべてペルシャだったわけです。ペルシャからみると、ペルシャの中心のイランにあるダレイオス軍と、ペルシャの西の端にあるマケドニアの間の、国内紛争と見ることもできるわけです。

まあこれは、アケメネス朝の版図と、アレキサンダーの版図を比べてみれば一目瞭然です。どうも、「アレキサンダー大王の大遠征」という教科書の言葉に惑わされているようです。アケメネス朝のダレイオス一世が先にペルシャ帝国をマケドニアから北西インドにまで広げたわけですから、「ダレイオス一世の大遠征」と呼んでもいいと思います。


2009.7.41 アレキサンダー大王(4) 尊敬

アレキサンダー大王は、当初ペルシャ帝国アケメネス朝のダレイオス三世を戦争で打ち負かし、身柄を拘束することを目的としていました。しかし、紀元前330年の夏、ダレイオス三世の部下だったバクトリアのベッソスがダレイオス三世を殺害すると、アレキサンダー大王は急にダレイオス三世の後継者として、復讐のために戦います。それまで敵だったのに、ダレイオス三世が死ぬと急に味方だと言い張るのは、今の感覚からすると変です。まあ、アケメネス帝国の王であるという権威を手に入れてしまえば、後は適当に理由をつけて、反対派の有力者を討伐するというのは、古代では普通のことのような気がします。

ただ、古代では普通のことで済ましていいのかという疑問は残ります。実はアレキサンダー大王は以前からペルシャとアケメネス朝を尊敬していて、自分もいつかはアケメネス朝の王になりたい、という夢を持っていたのではないかと思います。


2009.7.40 アレキサンダー大王(3) 動機

”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)に、アレキサンダー大王が大遠征を行った動機がいくつか挙げられています。 (1)開放戦争、すなわちアジアにおけるギリシャ系諸都市の開放。小アジア(現在のトルコ共和国)のギリシャ系都市あるいは植民地がペルシャに支配されていたので、これを開放し、ギリシャからの植民を推進する。 (2)報復戦争、すなわちペルシャ戦争における紀元前480年のペルシャ軍によるアクロポリス陥落、アテネ占領などに対する報復。

しかし、なぜインドまで出かけたのかを説明することはできません。他にも諸説あるようで、ピエール・ブリアン氏は決定的な動機については述べていません。私がこの本では次のようなはっきりとした動機が暗示されていると思いました。つまり、アレキサンダー大王の大遠征の動機を簡単に言うと、「ペルシャ王就任後の国内有力者への挨拶回り

いやがるマケドニア人やギリシャ人の兵士を率いてペルシャ帝国内を10年かけて2万キロ移動し、雪のハワク峠 (3548m)を超えたのも、この理由であれば少しは納得できます。しばらくこの仮説、「挨拶回り」説に基づいて、調査をしてみたいと思います。


2009.7.39 アレキサンダー大王(2) 称号

アレキサンダー大王は、各地でいろいろな称号を得ていたようです。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)から引用します。
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前三二三年、アレクサンドロスの権力基盤は、帝国の様々な領域において、まことに多様であった。彼は、マケドニア人の王であると同時に、テッサリア同盟の執政官(アルコン)であり、コリントス同盟の指導者にしてアジアのギリシャ系都市の「解放者」かつ「再建者」、エジプトではファラオ、バビロニアでは「世界の四地域の国王」であった。他方、大王の称号を採用しないとしても、彼はアケメネス王国から多くを受け継いでおり、多数のペルシャ人は、彼をアケメネス朝の後継者と考えていたと思われる。
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要するに紀元前四世紀において、ギリシャの盟主にしてペルシャ帝国の実質的な皇帝であったわけです。もともとマケドニアはギリシャとペルシャの中間に位置したので、そんなに不思議なことでもないようです。ペルシャの王はこの時代にはエジプトを征服しファラオを名乗るのが普通だったようで、エジプト人はペルシャ人のペルシャ王よりマケドニア人のペルシャ王の方を歓迎したようです。

これを見ると、アレキサンダー大王は世界中のすべての称号が欲しかったのかもしれません。ヨーロッパ、エジプト、ペルシャの次は、マウリヤ朝のインド戦国時代の中国を狙うのは自然な流れではあります。卑弥呼が生まれる500年も前のことです。


2009.7.38 アレキサンダー大王(1) 版図

アレキサンダー大王の大遠征は、いったい何だったのか? どうしてインドまで到達できたのか? 不思議でなりません。私は勝手にアレキサンダー大王=旅芸人だと思っていたのですが、これは明らかに間違いのようです。”アレクサンドロス大王”(ピエール・ブリアン著、田村孝訳、白水社)を読んでみたところ、その遠征の経緯はだいたい分かったのですが、なぜ辛い大遠征を行ったのかについては、依然不明です。ただの旅行好き、あるいは探検マニアだったのかもしれませんね。

まあ、いろいろ疑問はあるのですが、何しろ10年間で2万キロメートルの行軍をしたわけですから、尋常ではありません。Yahoo地図をお借りして、そのイメージを描いてみると次のようになります。マケドニアからインダス川までと同じ距離を、東京から西南西に向って仮の線を引いてみると、何とガンジス川に至ります。つまり、マケドニアからインドに行くのと、日本からインドに行くのは同じくらいの距離なのです。


さらに驚くのは、ヒンドゥークシュのハワク峠 (3548m)を超えているのです。雪で何も見えず、飢えに苛まれながら行軍を続ける理由が良く分かりません。やはり探検マニアだったのかもしれませんね。


2009.7.37 明治維新はRestoration

明治維新を英語で言うと "Meiji Restoration"だそうです。徳川慶喜から明治天皇へ大政奉還をしたわけですから、まさにRestorationすなわち王政復古だったわけです。維新という言葉から、何となくRevolutionやReformを想像していたのですが、違ったようです。Wikipediaの明治維新の項目を見ると、明治維新という言葉は昭和以降のもので、明治時代は”御一新”と呼ばれていたそうです。


2009.7.36 Cooke Series IIA 3.5/158mm再々改造

Cookeのトリップレットです。デジカメで使うとピクセル等倍でもしっかり解像するくらい良く写ります。バックフォーカスが長く改造は簡単なので、さっと暫定改造したままでした。ちょうど香港のヘリコイドの長い方にぴったりですので、外観を重視して再々改造してみました。

結構太くて、57mmの筒にぎりぎり入る程度です。なので、まず57mmに改造。ちょっとビスが長すぎるのは、見なかったことにして下さい。ビスの長さ調整は面倒臭いのです。


先日作った57mm-->52mmアダプタを使ってヘリコイドに取り付けます。


改造したら、レンズを蛍光灯に向けてマウント面からのぞきます。浅い角度で入った光は平面では反射します。起毛素材を貼っても、やっぱり反射します。この反射は写真のコントラストを下げます。光るところに反射止めを入れて改善すればOKです。


最後にフタを作って改造完了。皮のふたは気に入っています。簡単に作れますし、吸盤のようにレンズに吸いつきます。何より、カメラバッグの底にフタが落ちている状態で、誤ってレンズを裸で放り込んでも傷がつかない点が優れています。


2009.7.35 Hermagis 4.5/210mm再々々改造

以前カメラ屋さんで、ダブルガウス型のエルマジのレンズはめずらしいと聞いたので使いたいのですが、210mmは長すぎて持ち出す機会がありませんでした。ペンタックス67マウントに改造したのは、まともな選択だったとは思うのですが、なにしろ大きくて持ち運び不便。そこで、先日頂戴した香港製のヘリコイド用に改造しなおすことにしました。


ちょうど太さの合う52mmスクリューのフードがありましたので、これを使いました。長さが足りないので、もう一個フードを継ぎ足しました。今回は皮張りにしたのですが、実はこの皮が二個のフードを繋いでいます。分解するときには、この皮を力まかせに剥がします。滑り止めにもなります。


ヘリコイドにねじ込んだところ。かなりスマートになりました。


キャップを作って改造完了。


同じ太さの筒だと内面反射が激しいので、途中にワッシャーのような形の反射止めを入れて、フェルトを貼っています。蛇腹のような内面形状が理想的ですが、筒の場合には途中に何箇所か反射止めを入れることにより、蛇腹と同じような効果が得られます。


2009.7.34 広東語

広東語と普通話(中国の標準語)は相当に違うようです。どれくらい違うかが知りたくて、広東語の本を見てみました。付属のCDを聞いてみたところ全く違います。なるほど、方言ではなくて”語”なのだなぁと思いました。何となく南方の言葉という感じです。普通話初心者の私は混乱するので、広東語を聞くのをすぐにやめたのでした。


2009.7.33 謎のレンズメーカー(10) Leitmeyr

ミュンヘンには著名なカメラメーカーがたくさんあります。アグファ、デッケル、エナ、リンホフ、リーチェル、シュタインハイルなどです。 Leitmeyr(ライトマイヤー、ライトメイヤー、ライトメヤー、ライトメーヤー)社もミュンヘンにありました。 CamerapediaのLeitmeyrの項目を見ると、レンズの名前はみんなSytarのようです。

Wikipediaのマイヤーの項目を見ると、 マイヤーがドイツ語読み、メイヤーまたはメイアが英語読みだそうです。まあ、我々は日本人ですので、好き勝手に読めばいいのではないでしょうか。いや私は実はヘブライ人だという方は、メーイールあるいはマーウールでも良いと思います。綴りは8種類出ていますが、meyrは含まれておらず、9種類目と言えます。 フーゴ・マイヤー、ダルマイヤー、ライトマイヤー、カール・マイヤー以外にも、マイヤーのつくレンズやカメラがあるかもしれませんね。

ということで、Leitmeyr社のことはさっぱり分からず、相当に謎のメーカーです。うちにあるのは、
G. Leitmeyr Munchen Doppel Anastigmat Sytar 1:6.3 f-24cm


2009.7.32 謎のレンズメーカー(9) Rietzschel

リーチェル(Rietzschel)社のリネアー(Linear)はキングズレークの”写真レンズの歴史”の”4枚張り合わせのレンズ”の項目に登場します。
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配置bは-+-+の順で1898年、リーチェル(Rietzschel)のリネアー(Linear)に採用されている。このシステムはシュタインハイルのオルソスチグマットの中央のエレメントに平らな張り合わせ面を入れたものと考えることができる。
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CamerapediaのRietzschelの項目にLinearの断面図が出ています。うちにあるProlinearについては残念ながら何も触れられていません。Wikipediaのリーテェルの項目にはProlinearの名前が出ています。Rietzschel社は1925年にアグファに吸収合併されたそうです。Prolinear 1.9/135mmはスピーディック型で、たいへん大きなイメージサークルを持ちます。Prolinear 1.9/135mmは、うちにある物以外に2個確認されていると聞いています。

RIETZSCHEL PROLINEAR F:1.9 / 13.5cm D R P 164290


2009.7.31 謎のレンズメーカー(8) Kenngott

CamerapediaのKenngottの項目をみると、私の記事とNoyanさんの記事にリンクが張ってあるだけなので驚きました。 日本にゆかりの深いメーカーなのかもしれません。私の記事には、山本写真機店のウエハーライトについていたのではないかと書いてありますが、 このカメラの記事はWebでは見つかりません。

CamerapediaのSpeed Reflexの項目を見ると、栗林製作所のSpeed Reflexというカメラと いっしょに売られていたそうです。1927-1929年頃です。カタログに一番安いレンズとしてリストされています。1929年(昭和4年)の名刺判のカメラ単体が75円、 Kenngott F4.5付きが107円(レンズ分32円)、Tessar F4.5付きが140円(レンズ分65円)、Tessar F2.7付きが270円(レンズ分195円)ですから、Tessar F4.5の半値、 Tessar F2.7の1/6の値段です。

CamerapediaのNeumann&Heilemannの項目を見ると、Billy Neumann氏はフランスのKrauss社の出身で、Willy Heilemann氏はKenngott社の出身だそうです。Neumann氏とHeilemann氏は日独写真機商店(後のミノルタ)に招かれて日本で働いていたのですが、1931年に辞めて、 西宮でNeumann&Heilemannという会社を作りました。シュナーダーから輸入したRadionarのレンズを自社のシャッターに組み込んで販売していたそうです。 Neumann氏は1937年に芦屋でノイマン精機という工作機械の会社を作っていますので、金属加工の専門家だったようです。

1927年(昭和二年)に山崎光七氏はコンゴーレンズを開発するときに金物ができなくて苦労したそうです。それを知っていた日独写真機商店の 田嶋一雄氏がフランスから金属加工の専門家を招いたのでしょう。光学ガラスは輸入に頼っていたようです。 オハラガラスが蒲田でカラスを製造を開始するのが1936年(昭和11年)ですから、この頃になったようやく純国産のレンズが作れるようになったのだと思います。

日本の写真レンズ開発を主題とした歴史小説を書くとしたら、1924年(大正13年)に山崎光七がレンズ屋になると言って浅沼商会に辞表を出したあたりから始めようと思います。苦心の末、浅沼商会から山崎光七の作ったコンゴー・レンズが発売されると、小西六と日本光学もレンズ開発を始めます。田嶋一雄はフランスとドイツから技術者を招いてレンズを作りはじめます。蒲田でオハラガラスの製造が始まり、やっと純国産レンズの目処がついたところで、戦争の影が忍び寄る、というところで終わります。

うちにあるのはWekarというレンズです。
Anastigmat Wekar 1:4,5 f=10,5cm W.Kenngott Stuttgart No 11028


2009.7.30 文禄・慶長の役

文禄・慶長の役において、明は朝鮮に援軍を送ったものの、秀吉の中国侵略を真剣に心配していたわけではない、と思っていました。しかし、倭寇に悩まされたいたこともあり、実際には相当に危険を感じていたようです。「中国史の中の日本像」(王勇著、農山漁村文化協会)から引用します。
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日本軍は二ヶ月足らずで、王京(ソウル)・開城・平壌の三都を陥落させた。明の朝廷はこの急襲に接するや、危険を感じ、朝鮮に援軍をおくった。七月に、明の援軍は日本軍を接戦してから、慶長三年(1598)に至るまでの七年間に、中国は数十万人の戦死者をだし、およそ数百万の戦費を費やした。戦争は豊臣秀吉の病死をもって幕を降ろしたが、中国・日本・朝鮮「三敗倶傷」(勝者なし)の結果となった。
 豊臣秀吉の朝鮮侵略によって勃発した日中直接の対戦は、「白村江の戦い」(663年)以来のもので、国家レベルの大規模な戦争であるだけに、その傷跡がことのほか深く、社会の影響も大きかった。その結果として、個々の倭寇像はしだいに日本という国家像に重ねあわされ、さらに「豊臣秀吉像に凝縮されるようになったのである。
 こうした時代的な背景を反映して、明清時代には関白こと豊臣秀吉を題材とする文学作品がおおく生みだされた。これらの作品のなかでは、豊臣秀吉をはじめ倭人らは「狡詐残暴」の倭寇よりも恐ろしい「水鬼」「鮫」「蛟(みずち)」などの化け物に仕立てられ、朝鮮侵略によって日本のイメージがさらに悪化することとなった。
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以前は秀吉の朝鮮出兵というと、「加藤清正の虎退治」という言葉くらいしか知らなかったのですが、この戦争は朝鮮・中国・日本に多大な犠牲者を出しただけでなく、中国から見た日本のイメージを大きく損ねたようです。家康が朝鮮との友好関係を維持したのとは対照的です。ところで、「加藤清正の虎退治」がいったい何のことなのか分かりません。Webで調べると絵は出てくるのですが、この絵が何を意味するのか、よく分かりません。裏に政治的意図があるような気がするのですが。


2009.7.29 謎のレンズメーカー(7) Wray

キングズレークの”写真レンズの歴史”にはWray社のC.G. Wynneが1944年に設計したF2ユニライトとF1.9ユニライトとF1 CRTレンズ、1950年に設計したF0.71のレントゲン・カメラ用レンズが取り上げられています。また有名な一眼レフであるWrayflexを1951年に発売しています。このカメラのミラーの動きは独特です。普通のカメラではミラーが45度上方に跳ね上げるのに対し、ミラーが反対向きに135度回転するようです。レンズと接触することをうまく避けているようです。三塁ランナーが本塁をブロックするキャッチャーをうまく回り込んで生還するような感じです。Wrayflexは合計で2750台ほど作られており、6種の交換レンズがあるようです。
- 35/3.5 Lustrar
- 50/2.8 Unilux
- 50/2 Unilite
- 90/4 Lustrar
- 135/4 Lustrar
- 8”/4.5 Lustrar

LustrarはANSCOの蛇腹カメラなどにも使われています。Suparという名前の引き伸ばしレンズもよく見ます。シネ用のレンズも作っており、中将姫光学さんのところに、Cine-Unilite 35mm F2の作例があります。私はUnilite F2またはCine-Unilite F1.9の75mm以上のものを探しているのですが、未だに一個も見たことがなく、存在するのかさえ分かりません。

うちには4本もWrayのレンズがあるのですが、Wray社自体の情報はWeb上ではほとんど見つけることができません。

WRAY LONDON 2in f 1.0 CRT LENS(Barrel)
WRAY LONDON 2in f 1.0 CRT LENS(Shutter)
WRAY LONDON LUSTRAR 5inch
WRAY LONDON SUPAR 4.25inch


2009.7.28 Dallmeyer F/1.9 はやはりKino Plasmat型だった

以前お借りしたDallmeyer F=3" F/1.9 (Super-Sixと書かれていない物)の写りはすばらしいものでした。その時はSuper-Sixだろうと思い込んでいたのですが、返却した後でどうもKino Plasmat型のような気がしてきました。写真を見てこのような判断ができるようになったのは、まだ最近なのです。しかし、このレンズはすぐに売却され、確認ができなくなってしまいました。先日、香港のcheckie氏と鎌倉で会った時にその話をしたら、Dallmeyer F=3" F/1.9を持っているので確認してみるとのことでした。そして、確認の結果はやはりKino Plasmat型だったのでした。どうやらあのレンズを買ったのはcheckie氏だったようです。たぶんそうじゃないかなぁと思っていたのですが、やっぱりそうでした。

ということで、Super-Sixと書いていないDallmeyer F/1.9にはKino Plasmat型のレンズがあることが確認できました。全部かどうかは分かりませんが、シリアルナンバーの若い物は可能性が高いと思います。こんなことを書くと値上がりしそうですが、Dallmeyer F/1.9は既に十分高いので、あまり影響ないと思います。

これにともない、kino plasmat sample pictures にDallmeyer F/1.9のテーブルを追加しました。


2009.7.27 52mmオス-57mmメス アダプタ

香港製のヘリコイドは良く伸びるので使いやすいのですが、レンズ側が52mmスクリューで私の持っている57mmスクリューのレンズは入りません。そこで、52mmオス-57mmメスのアダプタを作りました。


52mmのオスと57mmのメスを3本のビスでつないだだけです。こんないい加減なものでも、作っておくと後でいろいろと役に立ちます。


Opic 2/4.25"だとこんな感じ。100mmF2クラスだと太くて52mmのスクリューには入らないので、一旦57mmに入れてアダプタでつなぐと便利です。特に長焦点レンズの持ち運び時の全長を短縮する効果があります。


2009.7.26 ヘクトール 1.9/73mmをソフトレンズとして使う

Leitz Hektor 1.9/73mmの前玉を緩めて少し前に出してやると、ソフトな描写になります。前に出す距離を変えると、ソフト加減が変わります。作例はこちらをご覧ください。2009.7.11の日本民家園の写真にサンプルを掲載しました。
http://www.ksmt.com/panorama/090711minka/090711minka.htm

前玉を前に出すと、レンズ全体を繰り出したのと同じ効果があり、焦点面が手前に移動します。したがって、レンジファインダーカメラではピント合わせをすることができません。ヘクトールを一眼レフ用に改造すると、ファインダーでソフト効果を確認しながらピント合わせができます。

ライカのレンズで一眼レフに改造して面白いのは、このヘクトール 1.9/73mmと、ズマレックス 1.5/85mmと、タンバールだと思います。タンバールは高くて買えないので試していませんが、ヘクトールとズマレックスはデジタル一眼レフでも素晴らしい味わいがあります。値段も以前より下がっており、外観の汚いものや、レンズ周辺の貼り合わせが怪しいものなどは、かなりお買い得です。


2009.7.25 Hektor 1.9/73mm 再々改造

先日行ったHektor 1.9/73mmの海造は、いまいち納得がいきません。妙なリングやらネジやらガムテープやらで52mmスクリューを固定しているのですが、美しくありません。外から見えないところではありますが、もうちょっと何とかしたいところです。


そこで、このような金具を作りました。ヘクトールのヘリコイドを分解したとき、将来ライカで使うためにメスを取っておいたのです。しかし、レンズ側のオスの方はネジを打たれてヘリコイドとしてはスムーズに動かなくなってしまいましたので、思い切ってライカでの使用を断念し、ヘリコイドのメスを切断しました。なにしろオリジナル部品ですので、ぴったり合います。


レンズヘッドに52mmスクリューを入れて、後ろから製作した金具で押さえます。


硬くなったヘリコイドが幸いして、一度ねじこむと簡単にははずれません。


この方法だと、いつでもワンタッチでマウントを取り外せるので、後に再再再改造するときに大変便利です。


2009.7.24 ヘリコイドのM42-EOSマウント改造

香港のCheckie氏に、香港で売っているレンズ側52mm, カメラ側M42のヘリコイドを2個頂きました。薄い方は既にRoss XPRES 1.9/75mmやHektor 1.9/73mmの再改造に使いました。次は厚い方です。こちらはものすごく長く伸びますので、マクロ撮影や長焦点レンズ向きです。

M42マウントは安いEOSアダプタが市販されていますので(ヤフオクを見ると一番安いのは1,750円)、手軽にEOSで撮影を楽しむことができます。しかし、時々アダプタを持って出るのを忘れることがあります。撮影に出かける前に必要なアダプタを確認するのですが、家を出る直前にレンズを入れ替えた場合などにアダプタを忘れます。

一番簡単な方法は、300円とか500円で売っているジャンクのレンズからEOSマウントを取り出して、貼ってしまうことです。これで、マウントアダプタ忘れは完全に防止できます。


これが完成図。シグマ製のレンズからEOSマウントを取り出して、ビス3本で留めただけ。シグマの金具はマウントの内側にネジ穴があるので大変便利です。


拡大図。左側の大きな穴が本来マウントをレンズに固定するネジ穴です。しかし、このヘリコイドは細いので、この穴の下には何もなく、ビスは打てません。そこで右側の小さな穴を使います。ここに1.2mmのドリルで穴を開けて、1.3mmのビスをネジ込めば作業終了。よく見るとビスの締め方が足りないので、後で締めなおしておきました。キヤノンや、タムロンのレンズについているEOSマウント金具には内側のでっぱりがありませんので、ビスを打つことができません。

ただし、マウント金具はマウントアダプタより厚いので、M42マウントで無限遠調整したレンズは狂います。再度無限遠調整する必要があります。

EOSマウント金具取り用のジャンクのレンズを買う時には、キヤノン製、シグマ製、タムロン製をバランス良く買うようにしています。それぞれ特長と欠点があって、うまく使い分けると、改造がずいぶん楽になります。


2009.7.23 謎のレンズメーカー(6) Perken

ロンドンのHatton Gardenでこのようなレンズとカメラを作っていたメーカー。このくらい古いメーカーになると正式名称もよく分かりません。カメラにはPerken Son and Raymentと書いてあるようですが、レンズにはPerken, Son & Co, Ltdと書いてあります。読み方が分かりません。カタカナ表記はパーケンかペルケンかなぁと思いますが、何しろ発音を聞いたことがありません。レンズの名前はOPTIMUSというのが多いようです

うちにあるのは次のレンズです。
Perken, Son & Co, Ltd Hatton Garden LONDON Rapid Rectilinear 7 x 5 "OPTIMUS" Specially Prepared for Shanker Dass & Co LAHORE

LAHOREというのはインド国境に近いパキスタンの町のようです。Journey to Lahoreを見ると、Sunder/Harish/Jagdishの三兄弟がShankar Dass and Co.という会社を経営しており、そのうちのひとりが写真屋さんだったそうです。ラホールで写真館を始めるにあたって、イギリスに一台の木製カメラを注文しました。レンズには発注者の依頼通り、手彫りの刻印が行われたのでした。

このような木製のカメラが朽ちた後、レンズだけが売りに出たのだと思います。このようにごちゃごちゃと刻印されたレンズも、当時の様子が想像できて、なかなか面白いものです。


2009.7.22 謎のレンズメーカー(5) R&J Beck

CamerapediaのBeckの項目や、キングズレークの本、The cameras of "Lawrence of Arabia"から次のような年表を作ってみました。

1843年、Smith and Beck社設立
1854年、Smith, Beck and Beckに社名変更
1865年、R&J Beckに社名変更、Richard Beck(1827-1866) と Joseph Beck (1828-1891)
1888年、R&D Beckで年季奉公を終えたThomas Taylorが兄弟のWilliam TaylorとHerbert HobsonとともにTaylor, Taylor and Hobson社を設立
1906年、Isostigmarレンズ発表

Webで調べても何も分かりません。顕微鏡とかカメラはそこそこ見つかるのですが、レンズはさっぱり見つかりません。

うちにあるのは、次のレンズです。
R&J. BECK PATENT 871559 9.5 IN ISOSTIGMAR f 6.5 No 113434


2009.7.21 Hektor 1.9/73mm 再改造

以前から外観の悪さが気になっていたHektor 1.9/73mmを少しきれいに再改造しました。先日香港のCheckie氏に頂いたヘリコイドの薄い方がちょうどぴったりです。ニコンFのスクリューの中間リングを薄く削ってHektorに取り付けるだけで作業完了。

一眼レフに改造する目的でHektor 1.9/73mmを買うのであれば、レンズヘッドがはずれるタイプを買うべきです。私はたまたま安かったHektor 1.9/73mmを買ったら、アグファカラーシステム対応の直進式ヘリコイド付のもので、分解すら困難で、非常に苦労しました。


左が今回の改造。右が以前の改造。以前はレンズが外からは見えず、カメラから取り外さないと絞りを変えられませんでした。今回はオリジナルのレンズが見え、絞りも自由に変えられます。


左が今回の改造。左側の角のようなものは邪魔なので切断しました。


ヘリコイドが薄いので、非常にシンプルな構造にできます。


すっきりとした外観になりました。

このヘリコイドは薄いので改造しやすいです。前が52mmスクリュー(ニコンの中間リングや、52mm径のフィルター枠がねじ込めます。厳密には少しスクリューのピッチが違いますが、使用上は問題ありません)で、後ろがM42というのは汎用的です。注意点としては、あまり太いレンズは入らないということです。75mm F1.9クラスのレンズに適していると思います。ちなみに、ブロニカのヘリコイドの内径が57mm、ペンタックス67のヘリコイドの内径が64mm程度です。


2009.7.20 マイケルジャクソンと美空ひばり

7月3日付けのジャパンタイムスを眺めていたら、マイケルジャクソンに関する面白い記事がありました。美空ひばりと類似点が多いというのです。たとえば、

● 美空ひばりの命日が1989年6月24日で、マイケルジャクソンは20年後の6月25日。美空ひばリの20周忌追悼番組とマイケルジャクソンの追悼番組が同時に放送されていた。美空ひばり52歳。マイケルジャクソン50歳。ちなみにマイケルは私と同い年です。
● メジャーレコードデビューがふたりとも11歳の時
● 膨大なレコードセールスを記録。美空ひばりは8千万枚、マイケルジャクソンは7億5千万枚。
● 晩年訴訟など多くのスキャンダルを抱えて苦しんでいた

それと、数年前、マイケルジャクソンのテーマパーク建設について日本の企業と交渉していたそうです。この交渉は結局まとまらなかったのですが、もしうまくいっていれば、もう少し長生きできたかもしれないと書いてありました。1400億円のプロジェクトだったそうです。ご冥福を祈ります。


2009.7.19 Emil Busch Glaukar F3.1の構成図

Google BooksでGlaukarを検索したらF3.1の構成図が見つかりました。ただし、これが私が調べているGlaukar 80mm F2と同じかどうかは分かりません。キングズレークの本にも、Richard Helmut Naumannがエミール・ブッシュにいた時に、Vario Glaukarrというシネ用のズームレンズを設計したと書いてありますので、エミール・ブッシュでは色々な型のレンズにGlaukarという名前を付けていたようなのです。まあ、トリプレットのグラウカーがあることが分かっただけでも、よしとしましょう。


2009.7.18 謎のレンズメーカー(4) Watson

W. Watson & Sons Manufacturersは1837年創業の古いイギリスの会社で、1956年まで存続したとCamerapediaに書いてあります。古いカタログには反転ダゴール型のHOLOSTIGMAT Series Ia F4.6, Series I F6.1, Wide Angle F11が掲載されています。また、eBayでWatsonで検索すると、フィルムローダーばかりが出てきます。ということで、Watson社のことはさっぱり分からないのでした。

うちにあるのは次のレンズです。シネ用のレンズで、Speed Panchro 2/75mmDallmeyer Super-Six 1.9/75mmRoss Xpres 1.9/75mmに似ています。
WATSON LONDON 3IN f/1.9 No S 1552

現状ではHOLOSTIGMAT以外のWatsonのレンズを集めることは難しいと思います。


2009.7.17 謎のレンズメーカー(3) Laack Rathenow

ドイツRathenowのLaack社のレンズは割とよく見かけますが、Camerapediaを見ても何も書いてありません。キングズレークの本にはLaackのレンズは名前だけ2本記載されています。テッサー型のDialytarと、ダゴール・コリニア系のPolyxentarです。Webでちょっと調べても何も出てきません。自分のページに、COX氏の本にLaack Polyxentarは1.5cm-7.5cm でF1.3-F2.0であると記載されていることが書いてあります。シネ用のPolyxentarはダゴール・コリニア系ではなく、スペックから推測するとひょっとしたらキノプラズマット型かもしれない、というのを思い出しました。 こんなのが本当に見つかれば、Laack の人気は一気に上昇するかもしれません。

うちにあるのは次のレンズです。絞りがなかったので、多分映写機のレンズだと思います。
Laack Vergr. Anastigmat 1:4.5 F=13,5cm 206148

とりあえず、Webで検索したレンズの名前だけ列挙しておきます。

Dialytar 7.5cm-36cm F3.5-F4.5
Dialytar Weitwinkel 9cm F8.8
Helestar 2,5cm F1.6
Pololyt 13,5cm F3.9-6.3
Polyplan 135 mm F7.2
Polyxentar 1.5cm-75mm F1.3-F2.0
Texon 7.5cm-10.5cm F3.5
Vergr 13,5cm F4.5

Laack社のレンズを研究することは、良い趣味だと思います。安いレンズが多いし、競合がないので、今なら存分に楽しめると思います。


2009.7.16 Kino Plasmat 75mm F2 (2)

このキノ・プラズマットですが、どこかで見た覚えがあります。改造前の写真はこれですね。思い出しました。このレンズはめったに出ないですね。


2009.7.15 Kino Plasmat 75mm F2

Kino-Plasmat 1:2 F=7.5cm DRP Dr. Rudolph Hugo Meyer & Co-Goerlitz No290965

香港のCheckie氏と鎌倉に行ったとき、Kino Plasmat 75mm F2を借りしました。

金色のレンズですが、M42マウント改造の都合で金色の部分が見えなくなってしまっています。Checkie氏もその点は気になっているようでした。その点を除けばうまく改造してあり、大変使いやすいレンズです。


後玉をはずしたところ。まさにKino Plasmatですね。


前玉も後玉も絞りに向かって凸になっているのが、Kino Plasmatの特徴です。


2009.7.14 XPRES 1.9/75mm再改造

Checkie氏にもらった薄いヘリコイドを使って、ROSS XPRES 1.9/75mmを再改造しました。


以前は左の写真のように、金色のレンズが全く見えなかったのですが、再改造後は右のように、レンズがよく見えるようになりました。以前はレンズをはずさないと絞りが変えられなかったのですが、再改造後は普通にいつでも変えられます。


まず、ニコンFの中間リングを適当な長さに切断します。次の、これをレンズのネジ留めして、改造終了。これをヘリコイドにネジ込んで使います。


2009.7.13 香港製のヘリコイド二種

香港のCheckie氏と中将姫光学氏と鎌倉を訪れました。その時、Checkieから香港製のヘリコイドを二個も頂きました。Checkie氏は日本語がペラペラで、この日誌を読んで、私が自分で改造するのをご存じです。このヘリコイドは優れたものですので、お礼もかねて、紹介させて頂きます。ありがとうございました。


レンズ側は52mmスクリュー。


カメラ側はM42。汎用性が高いです。


薄い方は、縮めたとき17mm、伸ばした時31mm、トラベルが14mmありますので、ブロニカのヘリコイドと同程度です。これは使いやすそうです。


長い方は、縮めたとき37mm、伸ばした時90mm、トラベル53mmは驚異的です。


52mmスクリューは初めてなのですが、これはどこかで見たような太さ。試しにニコンFの中間リングをねじ込んでみると、ぴったり合います。これは便利です。レンズ側にニコンFの中間リングを取り付けられれば、改造終了となります。ニコンFの中間リングは割と安いし、入手しやすいので助かります。


2009.7.12 謎のレンズメーカー(2) Krauss

フランスつながりでクラウス社を取り上げたいと思います。まあ、謎のメーカーというくらいなので、ほとんど何も知りません(このテーマは調べることを放棄しているので楽だ)。 ツァイスの特許を使ってプロターとかテッサーを作っていたことくらいしか知りません。 CamerapediaのKraussの項目を見たら面白いことが書いてありました。 ライツが35mmカメラの名前を"Leca"ではなく"Leica"にしたのは、フランスのクラウスの"L´Eka"と名前がかぶったからだったそうです。 もしそうであれば、ある意味ライカの名付け親ですね。

既に売りましたが、うちにあったのは次のレンズです。
BteSGDG E Krauss, Paris No 81288 Lent - Protar Zeiss 1:12 F=412 (ツアイスのプロターリンゼと同じです)


2009.7.11 謎のレンズメーカー(1) HERMAGIS

「大昔のレンズ入門」シリーズは一旦終了としますが、後で思い出したことがあれば追加します。「大昔のレンズ入門」シリーズを書いてみて思ったのですが、調べれば調べるほど、分からないことが増えていくようです。謎が謎を呼ぶという感じです。

ということで、「謎のレンズメーカー」シリーズを始めることにしました。簡単に言うと、私が調べても良く分からなかったので、知っている人は教えて欲しい、ということです。

第一弾はフランス パリのHERMAGIS。先頭のHと最後のSは発音せず、エルマジと読むようです。エルメスとかと同じですね。エルマジは古くからあるメーカーでして、ポートレート用の大きなペッツバール型のレンズが有名です。寺崎さんの六櫻社の資料の中に、典型的なエルマジのレンズが出ています。山崎さんの資料を見ると、”クラカメ専科N023に「貴族趣味のレンズ゛エマルジー″土方健介氏」がある。” との指摘があります。私はこの本を持っていませんが、参考になりそうですね。

CamerapediaにもHermagisの項目があるのですが、情報量は少ないです。ペッツバール以外にもダブル・ガウス型やテッサー型のレンズを作っていたようですが、まとまった資料は見つかりません。シリアルナンバーが古い順に付けられていることを示す資料もなく、レンズの製造年代特定は今のところ難しいです。

うちにあるのは次の2本。
HERMAGIS Opticien Fabricant S.G.D.G Paris ANASTIGMAT 1:4.5 F=210m/m No 59182 (キャビネ用のダブルガウス型レンズ。初代プラナーのコピーだと思われる。)
HERMAGIS PARIS No 150059 OBJECTIF CINEMA F=100M/M 1:2.9 (映写機用のペッツバール型レンズ。)


2009.7.10 ニコン パノラマヘッド その3

広島県のAKENOさんから、過去の10D日誌の記事2005年1月29日 ニコン パノラマヘッド その2 に関してメールを頂きましたので掲載させて頂きます。ありがとうございました。
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広島県のAKENOと申します。
突然で恐縮すが
貴殿の過去の記事に関しましてメールさせて頂きます。

小生、先日廃業する写真店から処分品のパノラマヘッドを頂戴し
本品の詳細を調べるべく、ネット検索してみたところ
貴殿の「2005年1月29日 ニコン パノラマヘッド」の記事を
お見掛けしましたので、早速メールさせて頂きます。

本品を見る限り、当方の物と貴殿の物とは同一品と思われますが
若干の違い・定価表示がありましたので
突然厚かましくお伝えする次第です。

@本体サイドボデー部にシリアルa@『736937』の刻印

A外箱ステッカーには 『現金正価¥3,040』の記載

B説明書の使用例写真のカメラは 「NIKON SP」とは違い、『NIKON F』

C皮ケースのメーカーロゴは 「NIPPON KOGAKU JAPAN」とは違って
  『Nikon』の刻印

すみません。写真は添付いたしませんが
上記、是非お伝えしたくてお邪魔致しました。

なお、当方所有のニコン資料等でも探してみましたが
「アクセサリー総合カタログ1982・12・1」には
次期改定版と思われる「パノラマヘッド AP-2」(水準器付/定価記載なし)
が掲載されていただけでした。
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現在分かっているNikon PANORAMA HEADの情報をまとめると次のようになります。

732723 定価不明 説明書の中のカメラ:Nikon S2 皮ケースのロゴ:不明
736299 定価不明 説明書なし 皮ケースのロゴ:NIPPON KOGAKU JAPAN
736937 現金正価¥3,040 説明書の中のカメラ:Nikon F 皮ケースのロゴ:Nikon

たった3個でも少しづつ違っていて、面白いですね。


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