EOS10D日記その49 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2014.03.25 EMIL BUSCH PANTOSKOP No 4

PANTOSKOP No 4 R.O.J.A. vorm. EMIL BUSCH RATHENOW.


Periscop f22 7.25 inch. Pantoskopと刻印されているが、Vade MecumではPantoscopと表記。Pantoscop f22は1865年発売で、2.375, 3.5, 5.5, 7.25, 9.625, 14.5, 21.625インチがある。イメージサークルは、5.5inchで直径11.75inch、9.25inchで16x20inch, 21inchで直径46inch. 焦点距離の短いものはF32固定。焦点距離の長いものはウォーターハウス絞りがついている。

ラピッドレクチリニアの設計によく似ているが、球面収差の補正より、広角で使用時の非点収差の補正に重きを置いた設計。その結果暗いレンズになった。初期のレンズにはプロシアの刻印がある。

1905年に回転式の絞りを搭載したPantoscopの新シリーズがされる。このレンズはウォーターハウス絞りなので旧型


PANTOSKOP No 4 R.O.J.A. vorm. EMIL BUSCH RATHENOW.
ROAJはRathenow Optical Industry Anstaltの略。1897年ごろからこの名前が使われたが成功せず、Buschに戻された。

構成は2群4枚。


前玉、後玉とも曲率が大きく、製造は困難だったと思われます。


前玉は傷がなく美しい状態を保っています。


前後ほとんど対称のようです。


M52−M42ヘリコイド用に改造。


カメラと自家製のキャップを取り付けたところ。


2014.03.23 Planar 3,6/110mm再再再再再改造

Planar 1:3,6 F=110mm D.R.P. 92313 Serie Ia No 36606 Carl Zeiss Jena
1899年(明治32年)に製造されたPlanar 3.6を久しぶりに使うため再再再再再改造しました。以前はブロニカのヘリコイドを使っていたのですが、今回はM42のヘリコイドを使います。このため、近接撮影が可能になり、ヘリコイド共用による軽量化ができました。


座金に52mm-62mmのステップアップリングを接着して改造終了。


接着面積を増やすため、内部に革のスペーサーを入れています(外からは見えません)。


EOS 5Dに取り付けたところ。


キャップも製作。


2014.03.21 Voigtlander 9242

No 9242 Voigtlander & Sohn in Wien und Braunschweig
F3.6/125mmくらいだと思います。

中将姫光学から借用した1861年(万延元年)頃ウィーンかブラウンシュワイグで製造されたペッツバール型レンズ。


金ニスが剥げておらず、美しい外観です。


典型的なペッツバール構成。


52mmのフードを切断して無限遠調整。内側に革を貼って太さを調整。


レンズのスクリューを慎重にねじ込んでいくと、革の内側に自然にスクリューができます。このようになっていればOKです。革が劣化するまでは、フランジ金具の代用として使えます。


EOS 5Dに取り付けたところ。


2014.03.17 革のキャップ

昔のレンズはキャップが失われているものが多く、入手困難。たまに金属製のキャップがついたものがありますが、取り扱いを誤るとレンズを傷つけます。紙と布でできたものもありますが、すぐに脱落するので困ります。そこで、革でキャップを自作しています。これだと乱暴に扱ってもレンズが傷つくことはなく、脱着が容易です。ちゃんとサイズを合わせれば吸盤のような効果が出て、簡単には脱落しません。


以前は総革作りだったのですが、最近は発砲ウレタンを芯に使う場合もあります。どちらでも性能は変わりません。


2014.03.16 Turner-Reich 4x5 再改造

Turner-Reich ANAST F:6.8 SER.II 212375 GUNDLACH MANUFACTURING CORP. FAIRPORT N.Y. 4X5
中将姫光学から借用。以前PENTAX67用に改造したのですが、使いにくいのでM42に再改造。


刻印の字体が面白いです。



BETAXシャッターに入っています。Tモードでシャッターを開放にして使います。


金具を作ってM52のヘリコイドで使えるようにしました。


レンズボードの裏からコンパスで止めます。




これで使いやすくなりました。


2014.03.15 Riley Bros Bradford

Riley Bros Bradford

Vade Mecumから引用
Riley Bros, Bradford, UK.
Riley Brosはマイナーなカメラメーカー。1890年頃のカメラには"Riley Bros"と刻印された。レンズは他から仕入れて自社名を刻印したものと思われる。実物は見たことがない。


BradfordについてWikipediaから引用:
ブラッドフォード(Bradford)は、イングランド北部・ウェスト・ヨークシャー州にあるシティ・オブ・ブラッドフォードの中心エリア。人口は約29万人。アジア系住民(特にパキスタン出身者)が多いが、これは繊維産業に従事するため第二次世界大戦後に移住してきたものである。
ラピッドレクチリニア型のレンズです。


焦点距離は250mm以上あるので、ヘリコイドを二本つなげて、さらにその先に中間リングをつなげて改造。


ちょうどうまくねじ込める金具があったので、取り外しできます。


2014.3.14 Wray 5 1/2 IN R.R. London No. 5006

Wray 5 1/2 IN R.R. London No. 5006

1893年頃(明治26年頃)ロンドンで製造されたラピッドレクチリニア型のレンズ。Wray社の製造番号表は存在しないようですが、Vade Mecumには次のような記載がありますので、1890年から1895年の間だと考えられます。

Chronology
No published chronology seems to have been attempted. But note:
1890 possibly about No1,000 from change from Wh to iris stops.
1895 possibly about 8,000



F8からF64までの光彩絞りが採用されています。


刻印の通りラピッドレクチリニアです。

M39ですので、ライカの中間リングに入ります。これをM39-M42変換リングを介してM42のヘリコイドに接続できます。これらの部品があれば、改造なしで一眼レフで使えます。


M39-M42変換の金具はeBayで安く売っています。


EOS 5Dに取り付けたところ。


2014.03.11 Anthony レンズ

E. & H.T. Anthony 社のロゴの付いたレンズ。製造年代は不明。多分1870年頃だと思います。Wikipediaのアンスコの項目には次のように書いてあります。
1841年 - エドワード・アンソニーがニューヨークに写真スタジオを開いた。
1842年 - 写真スタジオの副業としてカメラメーカーE & HT アンソニー(E & HT Anthony & Co )設立。
1870年 - 高級木製カメラ、アンソニー(Anthony )を発売、写真館にあるプロ用木製カメラの代名詞となった。
1902年 - スコービル & アダムス(Scoville & Adams )を合併、アンソニー & スコービル(Anthony and Scoville )と改名。
1907年 - アンスコ(Ansco )と改名。
1928年 - アグフア(現在のアグフア・ゲバルト)と合併、アグフアアンスコ(英語: Agfa-Ansco )となる。その後アグフアの部門・ブランドとなった。

レンズにはこのようなロゴが入っているだけで、細かい記載はありません。


フランジ金具に適当な金具をビスで止めて、ヘリコイドと接続しました。


典型的なペッツバール型レンズです。


ラックアンドピニオンギヤは正常に動きます。


58mmのスクリューの金具をステップアップリングで52mmに変換。


EOS 5Dに装着したところ。


2014.3.10 J. H. Dallmeyer LONDON 2594

中将姫光学から改造依頼があったDallmeyer 2594。1862年頃(文久2年頃)ロンドンで製造されたペッツバール型のレンズです。

フードは中将姫光学が調達。フランジ金具がないので、適当な金具の内径を革で調整してねじ込み。


EOS 5Dに取り付けたところ。


2014.3.4 生類憐れみの令

五代将軍綱吉の出した「生類憐れみの令」は天下の悪法だと思っていたのですが、「逆説の日本史」(井沢元彦著、小学館)では、人命軽視の戦国時代から、人命尊重の平和な時代へ移行するための改革であったと評価しています。綱吉の時代にオランダ人と偽って日本に入国したドイツ人博物学者エンゲルベルト・ケンペルが「日本誌」という本を残しています。これを研究した現代のドイツ人学者ベアトリス・M・ボダルト・ベイリー女史は次のように述べているそうです。

「たとえば綱吉の治世において、捨て子が法律で禁止されたのはもちろんのこと、『正宝事録』によれば、親が子供を育てる財力を持たない場合には、親に代わって子供の世話をすることが、役人の義務となった。捨て子や子殺しを予防するため、妊婦と7歳以下の子供の氏名が登録され、乞食や流民に対しても、役人は食事と宿泊所を世話しなければならないようになった。それどころか牢屋の中の囚人に対してさえ、将軍はその福利厚生を配慮した。(以下略)」

江戸時代の初期には戦国時代の余韻から人命が軽視され、辻斬りなどが横行したようです。職業軍人である侍が失業たのが原因だと思われます。到来した平和時代に対応するため、侍の事務官僚化と人命尊重を推進する改革を断行したようです。

ところが血気盛んな侍は辻斬りを禁止され、退屈な事務作業を強いられたわけですから、おおいに不満です。事務作業では身分の低い商人に勝てない。そこで、綱吉の人命尊重路線を批判したのだと思われます。


2014.3.3 Holmes, Booth and Haydens社の歴史

Historic Cameraから部分的に翻訳。

Holmes, Booth and Haydens社は1853年2月、コネチカット州Waterburyで写真ケース、レンズ、ダゲレオタイプの銀板などの写真関連製品のメーカーとして創業。創業者はIsrael Holmes, John C. Booth, Hiram Washington Hayden, Henry Hubbard Hayden, Henry Hotchkissなど。Hotchkissを除く創業者の名前が社名となった。

Israel Holmesが社長に就任。彼はScovill Manufacturing Coの従業員として真鍮業界で経験を積み、Waterbury brass companyの社長になった。Henry Haydenが副社長に就任し、経理責任者になった。

Hiram W. Hayden が技術革新を行った。彼はダゲレオタイプの写真家で多数の特許を取った。1851年には直接紙に陽画を撮影する方法を発明した。Waterbury American新聞は次のような記事を掲載した。「創意工夫に富む芸術家であるMr. Hiram Hadyen氏は白い紙の上に一回の操作で写真撮影およびプリントできる方法を考案し、三枚の風景写真を公表した。」 

Henry Hubbard Hayden はNew York City at 37 Maiden Laneに営業所を開設した。ビジネスが軌道に乗った後、ダゲレオタイプ用銀板の製造に乗り出した。Henry HydenはフランスからAugust Brassartを呼び、銀板の製造品質を向上させた。当時アメリカでダゲレオタイプ用銀板を製造していたのはScovill Manufacturing Companyだけだった。Holmes, Booth & Haydensが少し遅れて製造を開始し、しばらくの間はこの二社がダゲレオタイプ用の銀板(銀メッキ銅板)の製造を独占した。

1854年2月、ボストンのダゲレオタイプ写真家であるAlbert Litchがカメラ製造を開始したとHumphrey's Journalが報じた。同年8月にはHolmes, Booth and HaydensがLitchのカメラ事業を引き継いだと報じた。

1871年 Henry Hayden引退
1874年 Israel Holmes 死去

Holmes, Booth & Haydens社はOctober 17, 1901まで独立して運営された。その後、Scoville Manufacturing を含む五社がAmerican Brass Companyに統合された。


2014.2.23 Hugo Meyer Co Goerlitz No 3501

Hugo Meyer Co Goerlitz No 3501 Aristostigmat 1:7.7 No 2 (F7.7/200mm)

亀さんから借用したAristostigmat 1:7.7 No 2。4群4枚。張り合わせのないダブルガウス型のレンズ。

3501と若いシリアルナンバーが刻印されています。






張り合わせのないダブルガウス。


レンズにヘリコイドが付いていますが、あまり移動量が大きくないし、レバーが硬いので、もうひとつのヘリコイドに装着しました。この方法だとひどいオーバーインフでも問題ないので、改造が簡単になります。


2014.2.22 Holmes Booth & Haydens F5.0/205mm

No 6454 Holmes Booth & Haydens New York
中将姫光学からお借りしたHolmes Booth & Haydensのペッツバールレンズ。焦点距離は約205mm F5.0

かなり使いこまれています。フードはほとんど金ニスがはげて、いい色になっています。



アメリカ製の古いレンズは最近アメリカ国内で人気があるのだそうです。


ラックアンドピニオンギヤの方向が工夫されており、スムーズに動き、壊れにくくなっています。


典型的なペッツバール型レンズ。


ウォーターハウス絞り板が一枚付属しています。


55mmのフードに革を貼ってねじ込み固定。52-55mmステップアップリングを介してM52-M42ヘリコイドに接続し、改造完了。


2014.2.21 EOS 5D Mark II ショット数

EOS 5D Mark IIを中古で購入してから一年七ヶ月(19月)。故障もなく好調です。シャッターを切った回数を調べてみました。

2012/6/17購入時が89,851枚、19月後の本日2012/2/21が157,476枚。私がシャッターを押した回数は67,625枚。月当たり3,559枚。一週あたり820枚。


2014.2.20 Cooke Speed Panchro 75mm f/2

COOKE SPEED PANCHRO LENS No 244242 75MM f/2

刻印も光学系も美しいSpeed Panchro 75mm F/2。多分1837年頃(昭和12年頃)に製造。テーラーホブソン社の製造番号表は良いものがないので、製造年ははっきりしません。

初期型ですので、ノンコートと言われたり、薄いブルーのコーティングがかかっていると言われたりしますが、分解してもはっきりとは分かりません。後期のものはコーティングがはっきりと分かります。


OASISのヘリコイドにきれいに収まるように改造されています。


EOS 5Dに取り付けたところ。


左側は私が以前から持っている製造番号282574のSpeed Panchro。前から見ると同じです。


無限遠の状態で横から見ると、かなり繰り出し位置が違います。左側の282574の方が少しバックフォーカスが長く、右側の244242の方が短いようです。


レンズの長さは同じで、バックフォーカスだけが変えてあるようです。このレンズの構成は前後非対称のダブルガウスなので、組立てが間違っている可能性はありません。スクリューの直径や向きが違うため組み立て方が一通りしかないのです。
多分シネカメラの機種が違うため、バックフォーカスを変えて製造されたものだと思います。Speed Panchroはプロ用の機材ですので、業務用のシネカメラメーカーからの注文を受けて製造されたと思われます。後で二本の描写を比較してみたいと思います。


2014.2.17 Super Baltar 100mm f/2.0

BAUSCH & LOMB INCORPORATED 100mm f/2.0 SUPER BALTAR SERIAL NO. 674UF MITCHELL CAMERA CORP. R-35

ボシュロムのレンズのシリアルナンバーは、Uが1942年製造を表し、Fが写真用レンズを表すのだそうです。MITCHELL R-35マウント。

前後のキャップ付き。


フォーカス用のギヤは簡単にはずれます。


MITCHELL R-35マウントも簡単にはずれます。


ERNOSTAR 1/8/85mmの改造に使われていた金具が余っていたので、これを流用してNIKON Fマウントに改造。


アダプタでEOSに接続。MITCHELL R-35用のマウントアダプタは市販されていないので、一眼レフで使うにはマウント交換が必要です。たまたまぴったりの金具があったので、簡単にマウント変更が終わりました。少しオーバーインフですが、短時間できれいに改造できました。


2014.2.16 Voigtlander Wien und Braunschweig

No 10229 Voigtlander & Sohn in Wien und Braunschweig (F3.8 205mm)

中将姫光学からの借用品。1862年(文久二年)頃にウィーンまたはブラウンシュワイグで製造されたペッツバール型のレンズ。ウイーン大学のペッツバール博士が1840年に設計し、ウイーンのフォクトレンダーに製造を依頼しました。これが本家本元のペッツバールレンズです。


重厚な感じの大口径レンズです。フランジ金具はありますが、フードが失われています。


No 10229 Voigtlander & Sohn in Wien und Braunschweig
きれいな刻印です。


Petzval type lens.


NH-24フードを接着して、52mm-62mmステップアップリングを介して52mmヘリコイドに接続。


黒い筒に0.1mmの真鍮板を貼り付けてフードを復元。ちょっと厚いアルミホイルみたいなものなので、カッターでもハサミでも簡単に切れます。真鍮板がうまく錆びてくれるいいのですが。


2014.2.15 Perken Portrait Lens

Perken Son & Rayment Hutton Garden LONDON Portrait Lens 4 1/4 x 3 1/4 (F5 165mm)

中将姫光学からの借用品。Perken Son & Rayment社のレンズはRapid Rectilinearしか見たことなかったのですが、これはペッツバール型です。Portrait Lensと刻印されており、これがPetzvalの意味になるのだと思います。

この会社は最初LejeuneとPerkenが始めたが、全てのレンズにPerken Son and Raymentと刻印されている。この刻印は1880年から1900年ごろまでの商標。広告にはこの会社の工場でレンズの製造を行っていると書いてある。同時にレンズの輸入もしていたようで、輸入されたレンズにはOPTIMUSとだけ刻印され、メーカー名は刻印されていない。この会社のレンズはイギリスでは一般的である。外観は美しいものが多く、光学系の設計は古典的である。(Vade Mecumより)


Perken Son & Rayment Hutton Garden LONDON Portrait Lens 4 1/4 x 3 1/4


ピニオンギアの部品が付属していましたが、ビスが効かず取り付けられません。ヘリコイドを使った改造を行いますので、この金具はなくてもかまいません。もちろんデザイン的にはあったほうがいいのですが。


典型的なペッツバール型レンズ。


フードの内側に1mm程度の厚みの革を貼ってアダプタ完成。


ゆっくりレンズをねじ込むと強力に固定できます。


49mmのスクリューを52mmに変換してヘリコイドに接続して完成。


2014.2.14 Hugo Meyer OminI 1:3.5 F=20cm

OminI 1:3.5 F=20cm Hugo Meyer Co Görlitz No9001(ariound F5.0, 220mm)

中将姫光学からの借用品。シリアルナンバーが9001番と若いので、Hugo Meyer社の初期のレンズだと思います。Hugo Meyer社は1880年代に設立された会社ですが、初期に何を作っていたのかははっきりしません。多分Aplanat型とPetzval型のレンズだと思われますが、情報がありません。1898年頃になるとGoerz Dagor型のDouble Anastigmat F7.7の製造を開始、1901年にはAristostigmatの製造を開始したようです。その後、1910年代にはSchulze and Billerbeck社が開発したEuryplanの販売を行います。1920年代になってDr RudolphのPlasmatの生産を開始し、ここから後の歴史は分かります。

製造番号表はoldlens.comに出ていますが、1930年500,000番以降の番号はありますが、それ以前の番号表はありません。このレンズの9001番は、一応1890年頃製造ということにしておこうと思います。


1:3.5 F=20cmと刻印されています。しかし、今の基準で言うと、F5.0, 220mm程度のようです。Canonのズームレンズで同じ画角、同じ明るさの写真を撮って、焦点距離とF値をEXIFから読み取っています。1:3.5とは単に焦点処理を前玉の直径で割っただけの口径比でF値ではありません。しかし、どうみても口径比は1:4.0くらいでして、ちょっと誇大表示のような感じです。


ラックアンド・ピニオンのピント合わせ機能は健在です。


典型的なペッツバール型のレンズです。


ミノルタのフードに少し切り込みを入れてレンズを押しこむと、ぴったり固定できました。このフードは55mmなので、52mm-55mmステップアップリングを介してヘリコイドと接続。このステップアップリングはeBayでは一個百円くらい(送料無料)で売られていますので便利。ただし、きつく締めるとヘリコイドからはずれなくなるので、そっと扱う必要があります。


これで無限遠です。これを見ても200mmよりは長いのは明らかです。


2014.2.7 ハングルの歴史

15世紀、世界各国の文字を参考にして韓国でハングルが作られました。中国の支配を逃れるため、漢字文化圏から独立するため、すぐにハングルの普及に努めた、と思っていたのですが、そうではなかったようです。もうちょっとまじめに隣国の歴史を学ばねば。

「日本人だけが知らない世界から絶賛される日本人」 黄文雄著 徳間書店 から引用します。
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ところが、せっかくハングルがつくられたものの、公文書はあいかわらず漢文で書かれていた。(中略)宗主国である中華王朝への遠慮jからであった。(中略)
さらに1504年にはハングルの教授と学習が禁止された。次代の中宋になるとハングルは完全に廃止された。(中略)
あくまでも中国の属国としての立場を堅持しようとしている朝鮮の態度に危機感を感じていたのが、一足先に近代化をとげた日本だった。朝鮮がこのまま中国と宗属関係を続け、独立、近代化を断行しないのであれば、やがて欧米列強の波に飲み込まれてしまうと考えた。地政学的に考えて、それが日本の脅威になることは明らかだった。(中略)
朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために国学、国文の使用を鼓舞し、ハングルの推奨を始めたのは、日清戦争後の1897年からで、朝鮮が大韓帝国として清から独立してからであった。(中略)
韓国では、19世紀末から漢字・ハングル混じりの文章体系を使用しはじめた。これはもともと福沢諭吉が提案したものである。(中略)そしてその後は近代学校教育に組み込まれていき、一般に普及するようになったのである。
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日本は明治維新の時に、アルファベットに比べて格段に難しいと言われた漢字カナまじり文による初等教育を成功させ、近代化を実現しました。同じことを韓国でもやろうとしたようです。よく調べないと、いい加減なことは言えませんね。


2014.2.6 佐村河内守騒動 2

新垣隆氏の記者会見で佐村河内守騒動の全貌が明らかになりました。私が予想した報酬不満説はハズレだったようです。高橋大輔選手がオリンピック代表に選ばれ、新垣隆氏が作曲した「ヴァイオリンのためのソナチネ」が使われることになったことが原因だそうです。オリンピックの前に嘘を告白したかったという気持ちはよく分かります。北京オリンピックなどで我々日本人は楽曲の盗用をさんざん批判したわけですから、このままオリンピックで「ヴァイオリンのためのソナチネ」が使われるのはちょっとまずいですね。

高橋選手から「ヴァイオリンのためのソナチネ」使用許諾依頼が来たときは、新垣隆氏は苦しかったと思います。うまく断る方法はなさそうです。なんとかオリンピック選考会で失敗してくれと祈ったのではないかと思います。

高橋選手が全日本選手権のフリー演技では転倒した時には、新垣隆氏はきっと飛び上がって喜んだと思います。それなのにオリンピック代表に選ばれてしまった。その後期待した怪我もたいしたことなかった。後は世界を敵に回しても、覚悟を決めて告白するしかありません。

高橋選手は騒動を分かった上で「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使った演技をするようで、騒動は解決に向かっているようです。新垣隆氏の勇気ある告白によって最悪の事態は避けられたのでした。

今回の騒動は、佐村河内守氏の芝居がうますぎて、普通は売れないクラシックの楽曲が売れてしまったことが招いた喜劇(悲劇)だったと思います。NHKスペシャル「魂の旋律―音を失った作曲家」は今となっては品のないコントですが、NHKには続編を作る気概を持ってもらいたいものです。「魂の旋律ージャンプ失敗を祈る作曲家」みたいなのを。主演はもちろん新垣隆氏で。(ひょっとしたら、NHKはオリンピック選考会のテレビ中継を見ながら高橋選手のジャンプ失敗を祈る新垣隆氏の姿をビデオに収めていたかもしれませんね。受信料を払っているんだから、それぐらいサービスしてもらわないと)


2014.2.5 佐村河内守騒動

佐村河内守氏は自分で作曲しておらず、ゴーストライターの新垣隆氏が作曲していた騒動、面白いですね。私はクラシック音楽のことは分かりませんが、世界中のファンや音楽関係者が全員嘘を見抜けなかったというのが面白いです。まあ見抜いたとしても、それを強く主張するメリットがないのですが。。。

要するに音楽を聞いて誰の作曲か言い当てられる人はいないということですね。CDの中の説明書とかWebとかに作曲者名が書いてあれば、それを信じるしかない。今回のニュースが面白いのは佐村河内守氏とか、佐村河内守さんとかの敬称で記事が書かれていることです。別に呼び捨てでいいような気がしますが、そうすると、佐村河内守は個人名ではなくて「ユニット名」ですと言い逃れられるのを恐れたためか? 佐村河内守Aは宣伝担当で佐村河内守Bが作曲担当です、みたいな。

バッハとかベートーベンとかモーツァルトなんかも実は「ユニット名」で、音楽室の額に飾ってあった作曲家の肖像画は実は宣伝担当者の顔だったのかなぁ、なんてことを考えさせるのが、今回の騒動の悪いところですね。(実はその通りで、佐村河内守氏が音楽史の隠された事実を明らかにした可能性もある)

まあでも、他の業界では普通に行われていることですので、そんなに目くじらをたてなくても、という気もします。自動車だって電気製品だってカメラだってレンズだって委託先で作るのが普通だし。写真だって、弟子に全部セッティングしてもらって先生はシャッターを押すだけなんて普通だし。マツモトキヨシだって薬を作っているわけじゃないし。

佐村河内守ユニット内で秘密を守り通せれば幸せだったのですが、やはり宣伝担当の取り分が多すぎて喧嘩になったのでしょうか?

1840年にウイーン大学のペッツバール博士がF3.6の明るいレンズを設計し、オーストリアの特許を取ります。しかし、小国に分裂していたドイツなど、オーストリア以外の国では特許を取っていませんでした。友人のフォクトレンダーに製造と販売をまかせ、このレンズは商業的に成功をおさめます。設計と製造技術が両方良かったためです。しかしすぐに特許料の支払いで喧嘩になり、フォクトレンダーは特許の効かないブランシュワイグに工場を移転してしまいます。結局ペッツバール博士は特許料を取れなくなりましたが、そのおかげでフランスやイギリスやドイツやアメリカのメーカーが特許料なしで自由にペッツバールのレンズを作れるようになり、ペッツバールの名声が高まる結果となりました。そしてフォクトレンダーも大成功をおさめ、今でもコシナのレンズにそのブランド名が使われています。

今回の騒動のおかげで益々知名度があがり、今後新垣隆氏が有名な作曲家として成功されることを祈ります。また、佐村河内守氏も宣伝担当としてますます成功されることを祈ります。お詫びと称して佐村河内守ブランドの曲の著作権使用料をしばらく無料化するという手もありますね。「万事塞翁が馬」または「焼け太り」を狙いたいところです。


2014.1.30 西施組合

中国語の勉強で『非誠勿擾』(邦題:狙った恋の落とし方)という映画を見ているのですが、美人のたとえで「西施」が登場します。「西施」は中国の四大美女のひとりで、王昭君貂蝉楊貴妃と並ぶ美女です。読み方はシーシ(xishi)です。この映画は中国語の四文字熟語や妙なたとえのオンパレードで面白いです。日本でも有名なビビアン・スーも出演しています。後半は北海道が舞台になっていますので、割と親しみやすいです。

テレビを見ていたら、玉置浩二と結婚した元CCガールズの青田典子さんが出演していました。そこでCCガールズのCCは「西施」なんだなぁと思い当ったわけです。WikipediaではCCはCOOL & CLASSYの略と紹介されていますが、私的には「西施」の方がピンときます。四大美女ですから。

C.Cガールズが中国に進出していれば中国名があるはずで、それは西施組合かと思ったのですが、残念ながらそういうものは発見できず。今と違ってまだ中国には進出していなかったようです。


2014.1.26 下総国と上総国

京都に近い方が前または上で、遠い方が後または下。真ん中が中。筑前・筑後、肥前・肥後、豊前・豊後、備前・備中・備後、越前・越中・越後、上野・下野。これらはセオリー通り。

例外がいくつかあります。
丹波・丹後・但馬=律令制で丹波国造の領域だったためだと思われます。
陸前・陸中・陸奥=時代によって定義が変わるので難しい?

セオリーと逆のケースがひとつだけあります。
上総・下総
調べてみると、西暦771年以前の東海道の経路は今とは違っていたそうです。鎌倉から三浦半島を南下し、走水から浦賀水道を船で渡り、房総半島を北上し、安房、上総を経由して下総国府に至る経路。なので、上総国の方が奈良・京都に近いのです。

霞ヶ浦は今よりはるかに大きく、東京湾とほぼ同じ大きさがあったようです。利根川は東京湾に注ぎ、現在の東京と千葉を分断していました。現在の東京の下町付近が利根川のデルタ地帯で、陸路でも海路でも通過困難だったためと思います。奈良時代後期には利根川デルタ地帯の道路が整備され(砂の堆積で陸地化?)、東京湾西岸および北岸の道路が通行可能になったため、東海道の経路が変更されたのだと思います。

これは古事記でヤマトタケルの尊(日本武尊、倭建命、小碓命)が通った道と同じです。ヤマトタケルのお話は、主要街道である東海道を分かりやすく説明する地理の教科書の側面もあったようです。


2014.1.23 J. H. Dallmeyer LONDON 2833

J. H. Dallmeyer LONDON 2833。Canonズームレンズとの比較から、焦点距離約110mm F4.0。うちにある2212番とほぼ同じレンズのようです。


フードの先端が失われています。


典型的なペッツバール型のレンズです。


アルミのフードに0.1mmの真鍮板を張り付けてフードを再建。


52mmのニコンの中間リングを張り付けて革を巻けば改造終了。


これでごくわずかにオーバーインフ。


EOSに装着したところ。真鍮板が少し錆びるといい感じになると思います。


2014.1.22 Planar 4.5/100mm Serie Ia No 5

Carl Zeiss Jena No 73565 Planar 1:4,5 F=100mm D.R.P. 92313 Serie Ia, No 5

中将姫光学さんからPlanar 4.5/100mmを借用。レンズの裏を見ると、以前から探していたSerie Ia No 5だったでした。資料にはIa No5は10cm F3.6だと書いてあるのですが、F4.5でもIa No5と刻印されたようです。

製造番号73565はZeissの台帳に出ています。
Planar 4.5 100mm Menge:10 Nr. von:73562 bis:73571 Fertigung:8.2.1905
1905年(明治38年)2月8日にPlanar 4.5 100mmが10本製造され、その番号は73562から73561。このレンズは10本のうちの4本目ですね。


レンズの裏側の刻印。Serie Ia No 5


絞り指標はミリ単位です。このころのツアイスのレンズはF値ではなくミリ表記が採用されています。多分同じ金物で、異なる焦点距離に対応したのだと思います。当時は1ロット10本でしたし、Plotar VII類のような組み合わせレンズが流行っていました。


III Germany 多分これが金色の筒の型番。


分解したところ。http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/planar.htmに出ているように、前後のレンズが全く同じ均斉式のようです。


中将姫光学さんから預かったライカのヘリコイドに装着したところ。


39mmスクリューなので、ライカの中間リングにぴったり入ります。非連動。ほぼ無限が出ているようです。


EOS用の暫定マウント。私がEOSで使うためのものです。オーバーインフなのでピント合わせしやすいです。


2014.1.21 WATSON 1.9/3in 修理完了

懸案だったWATSON 1.9/3inの修理が完了しました。以前はこんな改造でした。

多分35mm映画用の大きなカメラに入ってたため、レンズ後部がレンズ後部が太く、普通にヘリコイドに入りません。なので、レンズの外側をすっぽり覆うヘリコイドに入っていました。また、絞りがヘリコイドの中に入ってしまうため、レバーを引き出すために大きな絞りリングが使われていました。


こちらが新しいヘリコイド。 65mmスクリューの太て薄いヘリコイドに入れました。絞りレバーが露出するので、構造が簡単になります。それに、レンズが外から見えるようになり、シネレンズであることを主張できます。


M65のヘリコイドは少し太すぎるので、革で太さ調整してねじ込みました。絞りレバーがないので、適当なビスを打って代用。


M65のスクリューの後ろにEOSマウントを接着して改造終了。革を黒く塗れば目立たなくなると思います。


2014.1.20 首都圏の知事の仕事

昨日の検討から、東京都知事、神奈川県知事、埼玉県知事、千葉県知事はつぎのような行動を起こすべきだと思います。

3. 山梨、長野、新潟、山形県に対し、山岳部に首都圏用の火力発電所の建設、日本海側から燃料用パイプライン敷設の許可を依頼する。
4. 新潟、福島両県民に過去の電力供給に対して感謝し、災害時の原発再稼働をお願いする。
5. スマートメータを即座に設置し、事業所または住宅の種類ごとに停電を実施できるようにする。
(1.と2.の案は実現性に疑問があるが、一応検討する。)

これに加え、原子力発電の最終処分場を探す必要があります。これは原発の恩恵を受けた首都圏の首長がまず動く必要があると思います。そうでなければ、福島県民や新潟県民が非常時の原発再稼働を許す気になれないと思います。こんなことを言う知事候補がいたら投票したいと思います。(東京都民ではないので都知事選の投票はできませんが)


2014.1.19 首都圏の電源喪失を防ぐ方法

昨日までの調査で首都圏の電源喪失を防ぐ方法はそんなに多くないことが分かります。
1. 東京湾の入り口に津波防止用の可動堰を建設する。
2. 東京湾岸の火力発電所が20m程度の津波にも耐えられるように改築する。
3. 関東地方の山岳地帯に別系統の火力発電所を建設する。日本海側から燃料のパイプライン敷設。
4. 柏崎刈羽821万KWと福島第二440万KWの原発を耐震補強し、いつでも再稼働できるように準備しておく。
5. 全戸にスマートメータを設置し、残りわずか1590万KWを病院、警察、消防、通信施設、冷凍食品倉庫、食料品販売店、ガソリンスタンド、公共交通機関などに優先的に供給できるようにする。

この中で、2が一番難しいと思います(なんとなくですが)。1も直下型地震に耐えられるか疑問です。従って、3、4、5を優先的に実施するべきだと思います。このような対策を打たない場合、首都圏は工場や事務所の立地としては不適切と判断されると思います。


2014.1.18 関東地方の発電所

Wikipediaで関東地方の火力発電所を調べてみました。東京電力の原子力発電所(柏崎刈羽821万KWと福島第二440万KW)は停止しています。

東京都: 218万KW 品川、大井
神奈川: 2,189万KW 横浜、横須賀、東扇島、南横浜、磯子、川崎、川崎天然ガス、扇島パワー、JR東日本川崎
埼玉県: 0KW
千葉県: 1,815万KW 富津火力、姉ヶ崎、袖ヶ浦、千葉、五井、君津共同
茨城県: 890万KW 鹿島、常陸那珂、鹿島共同、鹿島北共同、住友金属鹿島
群馬県: 0KW (水力433万KW)
栃木県: 0KW (水力275万KW)

火力の合計は約5000万KW、水力の合計は約700万KW。総計で5700万KW。

東京電力の資料http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120518j0101.pdf を見ると、火力が4640万KW, 水力が317万KW, 揚水が850万KWで合計5807万KWですから、ほぼ同じ数字になります。ただし揚水発電は夜間でも出力が落とせない原発用としては有用ですが、出力が落とせる火力発電では経済性の問題があると思われます。

最大の問題は赤字で示した主要火力発電所が東京湾岸にあるということです。合計約4200万KW。これらが壊滅した場合、残りは茨城県の太平洋岸にある火力890万KWと、群馬・栃木両県にある水力発電約700万KW(東電の資料によると317万KW)の合計1590万KW(または1207万KW)が残るだけです。

このような前提を元に、関東地方の電力政策を立案しなければなりません。(私の仕事ではありませんが)


2014.1.17 発電所からの送電経路は二系統必要

15年ほど前のある夏の日、東京から遠く離れたある工場で産業用ソフトウェアの評価作業を行っていました。一瞬蛍光灯が暗くなった後、館内放送がありました。落雷のせいで瞬時停電が発生したとのこと。その時、一部のコンピュータがダウン。ほとんどのコンピュータはダウンしなかったのですが、当時は一部のサーバーがダウンするとネットワーク全体がダウンしてしまい、復旧には相当の時間がかかるとのこと。その日は作業をあきらめて東京に帰り、復旧後に再度出かけることにしました。

発電所からの送電線が二系統ある工場では雷雲の移動に合わせて送電経路を切り替えて停電を防止できるが、この工場は一系統しかなく送電経路を切り替えられないとのこと。製造工程の方は瞬時停電しないように大規模な無停電電源装置を設置しているのだと思うますが、相当のコスト増になるのは避けられないと思います。また、発電所が被災した場合などにも工場の停止時間が長くなる可能性があり、工場の立地としては良くないと言えます。

現在、東京電力の原子力発電所はすべて停止しており、ほとんどの電力は東京湾岸の火力発電所に依存しています。東京湾岸に地震または津波が発生した時、すべての火力発電所が破壊される可能性があります。その時、関東地方の工場や事業所は長期にわたり送電を受けられないと思います。東京湾岸の火力発電所以外の送電経路を確保しないと、日本の経済は壊滅的な打撃を受けます。真夏の電力消費量がぎりぎり足りたからと言って、喜んでいる状態ではないと思います。


2014.1.16 Windows 8.1 + MS Word 2013 貼り付けの問題

Windows 8.0のスリープから復帰するにはEnterキーを感何度か押さなければなりませんが、あまり反応が良くないので画面を見ずについカチャカチャと何度か押してしまいます。どうやらWindows 8.1にアップデートしますかと聞かれたのにYesと答えてしまったようで、いきなりシャットダウンが始まりました。VMware上でubuntu Linux立ちあがっておりシャットダウンしたくなかったのですが、手遅れです。シャットダウンにかなり時間がかかり、Windows 8.1へのアップデートにもかなり時間がかかり、一応Windows 8.1が立ち上がりました。幸い急ぎの仕事がなかったのでよかったですが、商談中とかだとちょっとまずいですね。

Windows 8.1では中国語のFEPが変わっており、IMEではないので手書き入力ができなくなってしまいました。そこで中国語のパッケージをダウンロードして立ち上げ。MS Wordで中国語を書き始めたのですが、IEからコピペするとMS Wordが無限ループに入ってしまい、タスクマネージャーで強制終了するしかありません。入力した内容は当然失われます。”書式を選択して貼り付け”でテキストまたはunicode テキストを選べば問題ないのですが、面倒くさいし、ctrl-vを押す癖がついてしまっているので、強制終了を繰り返すことに。30回くらい強制終了して、なんとか文章を完成。Windows 8.0の時は問題なかったのですが。。。

Webで調べても何もヒットしません。Skypeが悪いとか、MS Wordが壊れているとか、そんな情報は出ているのですが、どれも該当しません。どうやら私だけの問題のようです。となると、MS Wordのオプション設定しか考えられません。試しにMS Wordのファイル-->オプション-->詳細設定でチェックをはずしまくると解決しました。どの設定が悪かったのかまでは特定できていませんが、ワードのオプションの設定によっては”貼り付け”で無限ループに陥ることは間違いありません。

私は中国語の発音記号であるピンインが必要なのでワードが必要なのです。ピンインが必要なければ”メモ帳”でも構わないのですが。はやくピンインなしで中国語が読めるようになりたいものです。とにかく解決して一安心。

新しい中国語のFEP Microsoft Pinyinの手書き入力はWindows 8のタッチパネル用に作られた、IMEの手書き入力よりは格段に高性能のようです。ちなみに日本語IMEでスマホと同じ入力をすることもできます。


2014.1.13 SONY MDR-CD900ST再改造

SONY MDR-CD900STのプラグの接触が悪いので修理。銀色のプラグは表面が錆びるようで、すぐに接触不良になります。

写真は接触不良を起こす銀色のプラグ。以前はケーブル変えずにプラグだけ変えました。しかし、市販のプラグはカバーをねじ込むタイプなのでサイズが大きくなります。


今回はケーブルごと交換しました。金メッキされたプラグのついたケーブルを適当に切って、根元から付け替えました。これだとプラグがゴムでモールドされているので小さくできますし、故障も出難いと思います。


2014.1.12 iPhoneのマイクをパソコンで使うためのケーブル

iPhone付属のヘッドセット(イヤホン)にはマイクが付いていて、ハンズフリーの通話ができます。BOSE QuietComfortなどのサードパーティーのヘッドホンにも最近はマイクがついており、iPhoneで通話ができます。ところが、このマイクはパソコンでは使えません。iPhoneは四端子のジャックですが、パソコンは三端子x2だからです。出張先でWenExなどを使ったネット会議がある場合、iPhone用のヘッドセットとは別に、パソコン用のヘッドセットを準備しなければなりません。パソコン内蔵のマイクを使うこともできますが、大人数の会議だとノイズ源になる可能性があり、ヘッドセットの方が安心です。最近はBOSE QuietComfortを必ず出張に持って行くので、これをパソコン会議に使えないかと考えました。変換ケーブルは量販店では見つからず自作しようかとも思ったのですが、ネットで見つかりました。SSA ST35-SM35M 「3.5mm(メス)音声+マイク(オス) ケーブル 15cm」 595円也。送料無料。問題なく使えます。


構造は簡単で、パソコンの三端子x2とiPhoneの四端子を変換しているだけです。これでiPhoneのヘッドセットのマイクが使えます。


パッケージはこれ。


2014.1.2 米一石

「逆説の日本史 11 朝鮮出兵と秀吉の謎」(井沢元彦著、小学館)から引用

”なぜ昔は一反=三百六十坪だったかというと、一反とはそもそも一人の人間が一年に食べる米の量から逆算したからである。
今でも「米一合」という言い方をするが、十合があの「一升瓶」の一升となり、十升が一斗、十斗で一石、つまり一石とは千合なのだが、これを昔は一人の人間が一年に食べる米の量の平均値として認識していたのである。だからそれを三百六十で分割した単位「一坪」が重要なのだ。昔は太陰暦で一年は三百五十日余(閏月のある年は約30日増える。第十巻「戦国覇王編」参照) だから、一坪といえば、一人の人間の一日分の米の量を生み出す広さ、ということになる。
逆にいえば、加賀百万石とは加賀百万人であり、百万人の人口を養える国ということだ。
ところが、大化の改新以来の「一反は三百六十坪、そこから収穫できる米が一石」という決め方には二つの問題があった。”

秀吉は農業技術の進歩を考慮して一反を三百坪に変更。また、田の条件によって、収穫量の基準統一します。上田は「一石五斗」、中田は「一石三斗」、下田は「一石一斗」を一反で生産できるものと定めます。これによって、田の面積から収穫量を予測し、納税金額を決定しました。

米一合は約150gですから、上田一反で生産する「一石五斗」=1,500合=225Kg(一俵60Kgなので3.75俵)。

昔は一人が一年で千合食べたのですが、今では約400合まで減少しているそうです。
昔は一人が一日で食べる米の量は1000/365=2.74合。今は400/365=1.1合。
一合の米を炊いた時330gのご飯になるとすると、昔は一人一日に2.74合X330g=904.2g、今は1.1合X330g=363g、のご飯を食べます。


2014.1.1 2014年の年賀状

あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。本年もksmt.comをよろしくお願い致します。

本来ならご挨拶に伺うか紙の年賀状をお送りするべきですが、以下の二枚の画像で挨拶に代えさせて頂きます。

遠景ははがきに印刷するとつぶれてしまうので、クローズアップの方が良いようです。


この緑色がプリントでは出せなくてギブアップ。何度やってもプリントは難しいですね。


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