EOS10D日記その19

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2007.7.28 渡部昇一の昭和史

なにげなく本屋で ”渡部昇一の昭和史” 渡部昇一著 WAC BUNKO刊 を買って読んでみたのですが、大変面白かったです。割と有名な本のようです。昭和史といっても、実際には明治維新から大東亜戦争までの歴史が分かりやすく書かれています。事実がどうかは私には分かりませんが、読み物として大変よくできていると思います。


2007.7.27 パウル・ルドルフ復帰(11)

ちょっと横道にそれますが、第二次世界大戦つながりです。久間元防衛大臣が「原爆投下はしょうがない」発言で辞任してから、しばらくたちますが、なんであんな発言(少なくとも選挙で不利になる)をしたのかは依然不明です。しかし、久間元防衛大臣の発言が、アメリカ合衆国の原爆認識に近いのは間違いないと思います。たまたま、”アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書” What Young Americans Know about History ジェームス・M・バーダマン著 村田薫[編] ジャパンブック刊 で次のように書かれているのを見ましたので引用します。アメリカの小学校では次のように教わっているようです。

”ドイツが降伏したにもかかわらず、日本は降伏を拒みつづけていました。あらゆる戦線で敗北を喫した日本は、中国と東南アジアで征服した領土から撤退していました。しかし、依然として本土には200万の兵士がいたのです。日本の民間人も、侵攻に抵抗するため武装していました。トルーマン大統領は日本人が死ぬまで戦うよう訓練されていることを知っていました。また日本に攻め込めば、多くのアメリカ人が犠牲になると確信していました。ですから、日本に降伏させるために2発の原子爆弾を投下するよう命じたのです。

1945年8月6日、最初の爆弾が広島市に投下されました。巨大な火の玉の1度の閃光で、8万人もの人が一瞬にして亡くなりました。火傷や放射能の影響で、何万人もの人が後に亡くなりました。市の大部分は焼失してしまいました。

広島の爆撃のあとでさえ、日本政府はアメリカの要求する降伏を拒否しました。3日後には2発目の爆弾が投下されました。今度は長崎市です。ここにきてやっと、国中が破壊されるのを恐れた日本政府は連合国に降伏することを承諾しました。

第2次世界大戦は終わりました。6年にわたる戦争で、世界中で約4000万人の人が命を落としました。世界史上もっとも過酷な戦争の1つが、恐るべき新兵器によって終焉を迎えたのです。”

どうやらヨーロッパの2度の大戦での悲惨な地上戦の経験や、沖縄で戦闘の経験が裏にあるようですね。それに、アメリカは戦前、日本をひどく恐れていたようなのです。


2007.7.26 パウル・ルドルフ復帰(10)

”写真レンズの歴史” ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳 朝日ソノラマ刊ではバンダースレプ(バンデルスレップ) について次のように書かれています。

”(バンダースレプは)、1906年、同僚オトー・エペンシュタインの妹エミーと結婚した。1911年、ルドルフが引退するとその跡を継いで、写真レンズ部門の部長となった。テッサーをF3.5まで明るくしたほか、多くのレンズを設計した。(中略) 1938年、国家社会主義の時代になると、彼の一家は半アリアン系ということで、辛い生活が続いた。子供は希望する進路に進めず、エミーはユダヤ系であったために、ブーヘンバルト収容所に送られた。バンダースレプはナチ体制をあまりに強く非難したため、ツァイスにはいられなくなったが、戦争が終わった1945年、ツァイスに戻った。1957年に引退した。1963年、夫婦ともに死去した。” 

半アリアン系とは何? ユダヤ系とは何? ブーヘンバルト収容所とは何? エミーは収容所からなぜ生還できたの? 1957年ということは78歳まで現役? など不明点が多いですが、大変興味を引きます。エミーを私の小説の主人公の第一候補にしたいと思います。情報収集が難航しそうな設定ですね。無理かなぁ。


2007.7.25 パウル・ルドルフ復帰(9)

ここで気づいたのですが、パウル・ルドルフは私よりちょうど100年前に生まれています。ということは、年号から年齢を実感することができます。ちょうど100年前、つまり1907年、49歳のパウル・ルドルフは何をしていたのでしょうか。

パウル・ルドルフは38歳でプラナー、41歳でウナー、44歳でテッサーを設計しています。順調ですね。そして53歳で引退しています。49歳は、テッサー設計から5年後で引退の4年前です。きっと1901年にツアイスの入社した28歳のエルンスト・バンデルスレップ(Ernst Wandersleb 1879-1963、本によってはヴァンデルスレップ、バンダースレプ)といっしょに、アポクロマティック・テッサーF10(1907年完成)や広角テッサーF9(1908年完成)などの開発をやっていたんだと思います。


2007.7.24 パウル・ルドルフ復帰(8)

順序が前後しましたが、パウル・ルドルフが生まれた1858年頃のドイツはどんな状況だったのでしょうか。”目からウロコの世界史” 島崎晋著 PHP文庫から引用します。

”ドイツでは1834年にプロイセンの主導のもとドイツ関税同盟が創設され、政治的統一の準備も整いつつあり、イタリアの統一とほぼ時期を同じくして、ビスマルクと参謀総長モルトケ(1800-1891)による強力な主導のもと、最後の詰めの作業が進められた。
 ドイツ統一の構想として大きく分けて2つの考え方があった。大ドイツ主義と小ドイツ主義である。プロイセンとオーストリア、ドイツ諸侯国を統合してすべてのドイツ人を包含する統一国家を建設しようとする立場が前者、多くの異民族を抱えるオーストリアの排除もやむなしをするのが後者であった。小ドイツ主義をとるオーストリアは関税同盟の発足以来、対立を深めてきたが、1866年、ついに宣戦布告もないまま普墺戦争に突入する。
 戦争はプロイセンの圧勝に終わり、オーストリアを排除したプロイセン主導によるドイツ統一が決定づけられた。”

ヴェルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国が成立するのは、1871年、すなわちパウル・ルドルフが13歳の時でした。


2007.7.23 パウル・ルドルフ復帰(7)

パウル・ルドルフはフーゴ・マイヤーを退職した2年後の1935年に亡くなるのですが、その頃のドイツはヒトラーの第三帝国でした。”目からウロコの世界史” 島崎晋著 PHP文庫から引用します。

”選挙戦にマスメディアをフル活用したナチスは、独裁政権確立後も映画・美術・文学・スポーツなどを民族精神の高揚と思想の一元化のために利用した。なかでも最大のイベントとなったのは1936年のベルリン・オリンピックである。映画監督リーフェンシュタールはこの大会の記録映画「オリンピア」と34年のニュルンベルク党大会を記録した「意思の勝利」で、ナチスの宣伝映画の基本的なスタイルを確立した。

ヴェルサイユ体制はヒトラーとムッソリーニの前にわずか20年ともたずに崩壊する。ドイツは1933年10月に国際連盟からの脱退を宣言したのに続き、35年3月には再軍備を宣言する。”

ドイツは中世からあまり中央集権的な国家ではなく、日本の歴史からは考えられないような不思議な動きをしています。国がバラバラなので映画を使って民族精神を高揚しなけらばならなかったのだと思います。ドイツ第三帝国ということは、その前に第一帝国と第二帝国があったわけです。これについては、現在研究中です。ややこしいです。


2007.7.22 パウル・ルドルフ復帰(6)

パウル・ルドルフがフーゴ・マイヤー社を退職するのは1933年(昭和8年)だったようですが、この年のドイツはどのような状況だったのでしょうか。

1933年1月30日、ヒトラーを首相とする新内閣が発足。これによりワイマル共和国が失敗に終わる。「民主的憲法」を持つワイマル共和国がわずか14年で崩壊したのには、過酷なベルサイユ条約、世界経済恐慌の打撃、大統領ヒンデンブルグの責任、ドイツ国会の政府選出能力の喪失、政党の責任などがあげられますが、最も大きな原因は次のことのように思えます。

(ワイマル共和国 林健太郎著 中公新書より引用)
”ドイツ国民はビスマルク以来、官僚の支配に馴れており、みずからが国家を形づくるという意識と慣行に欠けていた。その彼らが敗戦によって突然、民主主義と政党政治という新しい実践を課せられたとき、彼らはそれをいかに駆使するかに迷った。そして政党政治がいたずらに混乱をもたらしたように見えたとき、彼らは彼らの手にゆだねられた共和国をむしろ重荷と感ずるようになり、上からの強力な支配に救いを求める人が増えたのである。”

ビスマルクの時代の事を調べねばなりませんね。また、それより前、すなわち神聖ローマ帝国のことも理解する必要があるのですが、これが恐ろしく難解です。延々と日本で言うところの戦国時代、または南北朝時代のような混乱が広いヨーロッパで起こっています。本を一度読んだくらいでは全く理解できません。


2007.7.21 パウル・ルドルフ復帰(5)

1916年5月31日、デンマーク西方沖合いで繰り広げられた”ユトランド海戦”は、第一次世界大戦における最初にして最後の英独主力艦隊の決戦。そして、これはまた、海戦史上、敵艦を視界にとらえて互いに主砲を撃ち合う古典的艦隊決戦の最後となる。1920年代に入ると、海上での航空優位が確立し、飛行機の時代になる。

ビーティー中将の指揮するイギリス高速戦隊は、緒戦でいきなり予想もしなかった大損害を受ける。戦艦「クイン・メリー」と「インディファティガブル」がほとんど初弾命中被害にあい、轟沈。旗艦「ライアン」のブリッジにいたビーティーは思わず、「クソッ、われわれの船はどこか変だぞ!」とつぶやいたという。ドイツの徹甲弾の貫通力は化学工業力の差を反映して、イギリスのものよりはるかに強力であり、光学技術の差からドイツの測距儀と砲術は、イギリス海軍の予想をはるかに超える域に達していたのであった。(大英帝国滅亡史 中西輝政著、PHP文庫刊を参照)

測距儀とは、つまり、レンジファインダーのピント精度の違いですね。ドイツの光学技術はイギリスよりはるかに勝っていたようです。例えば、イギリスのロス社では1900年頃からツアイスのプロターやプラナーの特許を借りてレンズを作っていました。イギリスもレンズ設計ではがんばっていて、テーラーホブソンのH.W.リーが1920年、つまり第一次大戦終戦の翌年にプラナーを改良したF2.0のOpicというすばらしいレンズを設計しました。キングズレークの”写真レンズの歴史”によると、3年後の1923年に出たドイツのエルノスターF2.0の方が、先に出たOpicよりずっと評判が良かったそうです。”これは恐らく、オピックが単なる交換レンズであったが、エルノスターはフォーカルプレーン・シャッター及び優れた焦点合わせ機構がついたカメラと一体で販売されたからであろう。” 

実際撮影してみると、どちらもすばらしいです。Opicは開放では柔らかく、ハイライトには上品なにじみが出ますが、良く見るとシャープです。少し絞ると、非常にシャープになります。後の一眼レフでは全ての大口径標準レンズがこの型の改良型となっており、このことからも、その優秀さが分かります。一方エルノスターは開放からシャープです。フレアは少ないです。絞ってもシャープさを維持します。同じくらいの性能なのにエルノスターの方が売れたのは、私の想像ですが、ドイツの光学技術の方がイギリスより上だと、大口顧客であるアメリカ人が思っていたせいもあるのではないかと思います。


(写真は本文とは関係ありません)


2007.7.20 パウル・ルドルフ復帰(4)

勤労者の賃金が下がった分、輸出で大きな利益を得たのは、もちろん資本家です。一方、都市の中産階級は破滅します。インフレにより貯蓄は価値を失い、生活レベルが労働者階級と同じところまで落ちます。これは中産階級にとっては耐え難いことであり、これを引き起こしたワイマール共和国とヴェルサイユ条約を恨む気持ちが強まります。このあたりがナチスの台頭とも関係するようです。

カール・ツアイス財団も大きな利益を出したと思います。ただ、もともとアッベ博士が株を財団に譲渡して始まった会社ですので、このころ誰が儲かる会社だったのかは分かりません。一般には、このころのドイツの驚異的な復興は、もっぱらアメリカ資本の力によると言われます。つまり、儲かるのはアメリカ資本で、アメリカが資本を引き上げると、また不景気になってしまう性質のものだったようなのです。


(写真は本文とは関係ありません)


2007.7.19 パウル・ルドルフ復帰(3)

では、この頃、ドイツにはどのようなカメラメーカーがあったのでしょうか。カール・ツアイスの関連するメーカーについては、http://homed.inet.tele.dk/riess/goerz.html を見るのが多分一番早いです。第一次世界大戦中の1918年(大正7年)には、Ica, Ernemenn, Goerz, Contessa, Nettelがありました。終戦の年1919年にContessaとNettelが合併してContessa-Nettel AGとなり、インフレから脱却して景気が回復した1926年(大正15年、昭和元年)にこれらがすべて合併してZeiss Ikon AGになっています。

このインフレは勤労者の賃金を実質的に引き下げるものであったため、生産コストが下がり、ドイツ商品の海外輸出を有利にするという側面があったようです。明治時代には高嶺の花だったドイツ製のカメラやレンズも、大正末期には少しは安くなっていたかもしれません。


(写真は本文とは関係ありません)


2007.7.18 パウル・ルドルフ復帰(2)

このような天文学的なインフレの原因は何だったのでしょうか? ”ワイマル共和国” 林健太郎著 中公新書から引用します。

”その第一の原因は戦争中、ドイツがその戦費を直接課税によってではなく、もっぱら公債の発行によって賄ってきたことにある。これらの公債は戦勝後の敵国からの戦利品を目当てとして出されたものであった。したがって戦争が敗北に帰し、しかも敗戦後、軍隊の復員や失業者の救済、その他多くの支出を余儀なくされた以上、不換紙幣が氾濫してドイツの貨幣価値がますます低落したことは当然である。(中略)しかしこのような悪条件のもとにあっても、政府の賢明な、断固たる処置によって、インフレをある程度に押えることは可能であったと思われる(中略)何より絶えざる政情の不安定が一貫した財政政策の樹立を妨げていた。”

やっぱり戦争にはお金がかかるということですね。


(写真は本文とは関係ありません)


2007.7.17 Dallmeyer Speedのフタ

カメラ屋がErnostar 10.5cm 1.8と一緒に送ってきたErnostarとは全くサイズの合わないフタ。

こんなものどうしようもないなぁとガラクタ箱に放り込みました。Dallmeyer Speedのフタがないので、ガラクタ箱を探したところ、このフタが一番近い。ただ、残念ながらわずかに直径が細くどうしても入らない。


内張りのビロードのような布をエイヤとひっぱると、簡単にとれました。


するとどうでしょう。ぴったりではありませんか。ちょうど茶筒のようです。手でやるとスーと入ってスーと抜けるのですが、持ち運び時には絶対に抜けない。塗装はレンズの塗装と全く同じもののようです。Dallmeyer Speedの出番がますます増えそうです。


2007.7.16 パウル・ルドルフ復帰(1)

”第一次世界大戦前には、レンズ設計者に販売数量に応じて報奨金を払う制度のある会社があった。1911年、パウル・ルドルフは会社を退職しそれまでの貯蓄で田園生活を始めた。所が運が悪いことには戦後のインフレーションで財産を失い、61歳で職に就かざるを得なくなった” (写真レンズの歴史、ルドルフ。キングズレーク著、朝日ソノラマ)

インフレのせいでルドルフがプラズマートを作ることになり、我々が今それを楽しんでいるわけですから、レンズから見るとこのインフレは悪いことばかりではなかったのですが。さて、この頃のドイツは、いったいどうなっていたのでしょうか?

ルドルフは1858年(安政5年、日米修好通商条約調印の年)生まれですから、61歳はちょうど1919年(大正8年)すなわちヴェルサイユ条約の締結により第一次大戦が公式に終了した年です。

まず、インフレ率はどのくらいだったのでしょうか。”目からウロコの世界史”(島崎晋著、PHP文庫)から引用。

対ドル為替相場指数 卸売り物価指数 (ksmtコメント)
1913 1 1.0 1.0 第一次大戦前
1920 1 15.4 12.6 終戦の翌年
1921 1 15.4 14.4
1922 1 45.7 36.7
1923 1 4,279.0 2,785.0 1923年の危機
7 84,150.0 74,787.0
8 1,100,100.0 944,041.0
9 23,540,000.0 23,949,000.0
10 6,014,300,000.0 7,095,800,000.0
11 1,000,000,000,000.0 750,000,000,000.0 レンテン・マルク発行

まさに天文学的インフレですね。この後インフレは収束に向かい、一旦落ち着きをみせるのですが、1929年10月24日の世界恐慌が全てを無にしてしまいます。


2007.7.15 京都

京都は祇園祭りですが、あいにくの雨。大原の三千院は静かでした。


2007.7.14 博多

博多は山笠です。これは13日の写真。朝は土砂降りの雨だったのですが、お昼前に上がりました。

浴衣が流行っているようです。


2007.7.13 吉野ヶ里

佐賀も晴れ。沖縄にいる台風が一時的に前線を押し上げたようです。暑い。

吉野ヶ里は、国立の公園になっているだけあって、よく整備されています。弥生時代に迷い込んだようです。


2007.7.12 倉敷

昨日から出張です。大阪、岡山、佐賀、福岡、京都。DALLMEYER SPEED ANASTIGMAT F/1.5 F=3"とFlexon 2/50の2本だけ持って移動中にスナップ。

雨のつもりだったのですが、晴れました。倉敷は初めて行きましたが、いいところですね。


2007.7.11 ROSS WIDE ANGLE XPRES

ROSS LONDON PATENT 5 IN WIDE ANGLE XPRES F 4 No119526


ワイドアングル・エクスプレスは、普通のロスエクスプレスとは異なり、分離型ダゴールに属するそうです。2-1-1-2の対称型で、フーゴマイヤーのザッツ・プラズマート、ツアイスのオルソメタなどと同じ構成だそうです。

”写真レンズの歴史”(ルドルフ・キングズレーク著、アサヒソノラマ)から引用:
ダゴールの大きい輪帯球面収差は、強い張り合わせ面を凸レンズの形をした空気間隔に置き換えることで、劇的に削減することができる。(中略) 1903年、ポツダムのシュルツ・アンド・ビラーベック社のアーバイトがオイリプランで特許を取った。(中略) (フーゴ・マイヤーに移ったパウル・ルドルフが)最初に設計したのは、空気間隔入りダゴール型のF4.5ダブル・プラズマットまたはザッツ・プラズマットである。(中略) 同じような構成がツアイスにもあり、1926年に、W.メルテが非対称型のオルソメターを設計している。これに似たロスの広角エクスプレスは+-35度の画角でほとんど歪曲がなかったことから、1932年頃に、トポゴンやメトロゴンが出現するまでの長い間、航空写真用の標準レンズであった。”


前玉と後玉は分解できるのですが、それ以上は分解できません。一応前後とも2群3枚であることは簡単に分かります。下の段はペンタックス6x7に改造するための部品。フランジはついていなかったのですが、たまたまちょうどぴったり合うメスネジ見つかったので、改造は至って簡単。3個の輪を接着剤でくっつければ終わりです。


ここにレンズをねじ込めます。このメスネジは43mmほどの中途半端な太さの一眼レフ用エクステンションチューブです。何のカメラ用のものか分からないのですが、とにかくWIDE XPRESがぴったり入ります。


PEXTAX 6x7の一番短いチューブの中にきれいに入ります。


PENTAX 6x7のヘリコイドでピント合わせを行います。


レンズが小さすぎてバランス悪いですね。しかし、PENTAXのヘリコイドはとてもスムーズで使いやすいです。


EOSに取り付けた方がバランスがいいですね。せっかくイメージサークルが大きく、ゆがみのないレンズなのに、EOSじゃちょっともったいないですね。でも便利です。


2007.7.10 Ernostar 1.8 10.5cm

Ernemann Anastigmat "ERNOSTAR" 1:1,8 f=10,5cm 179761 D.R.P.


ERNOSTAR F1.8です。F2.0が1923年に開発され、前から2-2-1-1の構成であるのに対し、F1.8は翌年1924年に開発され、1-3-1-1の構成となります。


入手した時には、ビスが全て抜かれたおり、絞りもヘリコイドも空回りの状態でした。小さなネジは全て失われていました。ですので、分解は至って簡単。文献にある通りのErnostar 1.8の構成でした。


外観はよく使い込まれていますが、ガラスは大変きれいなものです。ただし、この形でテーブルに直接置いてはいけません。後玉がでっぱっているため、起き上がりこぼしのような状態になり、後玉に傷がつきます。既にかすり傷が何個かついていましたが、これは仕方がないでしょう。


EOSマウントに加工したところ。ちょうどいい部品がなかったので、フード2個を接着して製作。フランジバックには1cmほど余裕があります。一眼レフなら何でも取り付けられます。645の一眼レフに取り付けるのは無理だと思います。


ヘリコイドは大変軽く快調です。ネジを打ったのは結局絞りのところだけ。ヘリコイドのネジを打っても、すぐに緩んで脱落するので、やめてしまいました。従って直進ヘリコイドではありません。その代わり、レンズは脱落するまでどこまでも伸びますので、マクロが効きます。1/4倍くらいまで寄れます。レンズ脱落対策を考えたのですが、マクロが効かなくなるので、結局やめました。ヘリコイドリングを絞り輪が隣接していますが、ヘリコイドの方が大きいし、動きが軽いので問題ありません。


外観的にはErnostar 2.0/100と良く似たものになりました。


070709 DALLMEYER SPEED改造

ヘリコイドのローレットの直径を約60mmから約90mmに太らせました。効果てきめん。ヘリコイドは普通に使えるレベルまで軽くなりました。今回の方針は、十分太く指がかりの良いローレットで、軽量で、モダンなデザイン。素材として透明アクリルをはじめて使ってみました。

材料は次の通り。
1. 5mm厚の透明アクリル板。
2. 90mm程度のアルミの輪。今回はPentax 6x7のチューブを幅10m程度に切断して使用。
3. 太さ2mm、長さ20mm程度のボルトとナット各4個


製作手順は次の通り。
4. アクリル板をドーナツ型に切断。このままでは入らないので、三日月形2つに切断。
5. ドリルで2mmの穴を2箇所開ける。アルミ輪とアクリルを貫通させる。
6. アクリルの内側にナットが入るくぼみを作る。
7. 組み立てと調整。5mm厚のアクリルを6mm幅のローレットの真上に乗せて、ビスで固定します。

アクリル加工は苦戦しました。曲線なのでアクリルカッターが使えないためです。しかたなくピラニヤのこごりを使ったのですが、これが大誤算。切っても切っても切れないのです。ピラニヤのこぎりの摩擦熱でアクリルが溶けて、歯が通り過ぎた後、再度くっつきます。これが強固で、以前より硬くなります。まるで手品のようにピラニヤのこごりはアクリルの中を通り過ぎるのです。電動ドリルも同じこと。一旦アクリルが摩擦熱で溶けますので、一旦開いた穴が閉じてしまいます。回転数の遅いドリルが欲しいところです。


完成図。透明アクリルを使い、オリジナルのレンズの形が見えるように作ってみました。


前から見るとこんな感じ。


工作中にアクリルが傷だらけになったのですが、案外目立ちません。もうちょっとネジを短く切ればいいのですが、面倒くさいのでこのままにしておきます。実は一回ネジを切断して短くしたのですが、長すぎたようです。ネジを切断すると、先端を尖らせるためにヤスリがけが必要ですが、これが面倒臭いのです。2回やる気にはなれません。


まずは室内で試写。先週買った観葉植物。F1.5開放ですが、普通に写りますね。


F1.5開放。いい感じですねぇ。


ピクセル等倍。シャープですね。一見ソフトに見えるのに、拡大するとちゃんとピントが来ています。古典ダブルガウス大口径レンズの面白いところです。


2007.7.8 DALLMEYER SPEED ANASTIGMAT 3"

DALLMEYER SPEED ANASTIGMAT F/1.5 F=3" 318147


ダルマイヤーのSuper Six F=1.9は非常に有名ですが、割と数が出回っているので、目移りがして、いつまでたっても買えません。F1.5のSPEED ANASTIGMATは、めったに売りに出ないので、迷いようがありません。これはわりときれいな固体じゃないかと思います。


純正のフードが付いています。ネジ込み式の深いフードです。このレンズ、残念ながらこれ以上分解できません。レンズの内部が見られないのが残念ですが、多分普通の4群6枚のダブルガウスです。ビオターと同じスペックですね。コーティングはされていないように見えますが、定かではありません。製造年も不明。


Nikon Fマウントに改造されていますが、それ以外はオリジナルのままだそうです。寫楽彩同じレンズが出ていますので間違いないと思います。このレンズ光学系はきれいなのですが、ピント合わせが難しいです。ヘリコイドが硬く、回すのに一苦労です。ローレットが小さく、カメラに近すぎて、指にかからず、レンズが重いためです。指が異常に疲れます。特に最短距離付近まで回すと、そこで固着します。プライヤーのお世話にならないと元に戻りません。ローレットを大きくして指にかかるよう改造しないと、実際の撮影は厳しいそうです。見た目はいいんですが。


このフード、オリジナルだけあって、よく効きます。ただし、刻印が読めなくなるため、知らない人には何のレンズかまったく分からないのが難点。


デザイン的にはいいんですけどねぇ。ピントリングより絞りリングの方が大きい理由が分かりません。デザイナーが機能を無視したデザインをしたんじゃないかと思います。


EOSとななかないいバランスのように見えますが、実はこのレンズは異常に重く、バランスよくありません。


フードをつけるとこうなります。ちょっとデザインがあっさりしすぎですねぇ。カメラ屋に聞いたところ、これがダルマイヤーのオリジナルの鏡胴だとのこと。


ニコンFマウントだと、フランジバックぎりぎりです。EOSでほんの数ミリ。改造しづらいです。



とりあえず、そのへんにあったErnostarを撮影。マクロは全然きかないので、チューブ使用。開放F1.5でも思ったよりシャープです。


ううん、どうなんでしょうか? これだけでは何ともいえませんね。週末に試写しようと思います。


2007.7.7 アラビヤのロレンスのカメラ(8)

1910年にロレンスが持っていたレンズのお話。

Rossの広角とは何だったのでしょうか? 多分ラピッドレクチリニアかRoss-Zeiss Anastigmat V類だと思われますが、写真からは判別できません。分離型ダゴールの広角Xpres(ザッツプラズマート、オルソメターなどと同じ型)は1920年代のものなので、ここで使われたとは考えられません。

Dallmeyer Stigatic F6 135mmは1895年にダルメヤー(ダルマイヤー)のアルディスが作ったレンズです。F6のは普通シリーズIIと呼ばれ、結構中古を見かけます。どういうわけか、見かけるのは全部F6のシリーズIIです。シリーズIを探しているのですが、見つかりません。シリーズIIはうちにも一本あります。手札版なので135mmは標準レンズですね。

Dallmeyerのラック&ピニオン式焦点調節望遠レンズは写真を見ると2本あります。そのうちの一本は2個の後群レンズとセットになって、箱に収められています。これは、1891年にダルメヤーが改良した型のようです。前群は普通のペッツバール型人物用レンズ(3群4枚)で、後群は貼り合わせのダブレット(2群4枚)が2種類。後群を変えると焦点距離が変わるタイプです。2本の望遠レンズとも非常に小型です。これなら携帯できそうです。当時は良い光源がなかったために引伸機が普及せず、従って写真家は長い蛇腹なしで使える望遠レンズを評価したようです。全部密着プリントだったわけですね。

オックスフォード大学に行く機会があれば、実物を見てみたいものです。しかし、想像するだけでも十分楽しめます。


(本文と関係ありません。Ernostar 100/2.0 開放)

(完)


2007.7.6 アラビヤのロレンスのカメラ(7)

このカメラについてオックスフォード大学のWebに記載があります。
http://www.mhs.ox.ac.uk/cameras/index.htm?item57

カメラは J.H. DALLMEYER 2.II. (クオータープレート、8cmx11cm、手札版) 。Compurシャッター 1-1/250秒シャッター付き。
レンズは全部で5本。
・Rossの広角
・Dallmeyer Stigatic F6 135mm
・Dallmeyerのラック&ピニオン式焦点調節望遠レンズ
・その他Dallmeyerのレンズ2本

この頃、他にもレンズ交換式のカメラがありました。例えば、サンダーソン トロピカルなど。広角レンズを装着したとき、視野が蹴られないようベースボードを前傾などの仕掛けがついています。トロピカルカメラは熱帯地方向けに作られたとは本で読んでいたのですが、どうもピンと来ませんでした。しかし歴史を振り返ると、当時英国は世界各地に広大な植民地を持っていました。20世紀初めには世界の地上面積の5分の2に当る3千万平方キロ、人口4億から5億を支配していたとも言われます。インドなど熱帯の植民地で撮影して本国に報告することが大変重要だったはずです。英国でこのようなカメラが発達したのもうなずけます。

(本文とは関係ありません)

(続く)


2007.7.5 アラビヤのロレンスのカメラ(6)

翌1910年の12月、ロレンスはレバノンのジュバイルを一年ぶりに再訪した。米系のミッション・スクールでしばらくの間、アラビア語の勉強に本腰を入れるためである。

ロレンスは帰国後に仕上げた論文で最優秀賞を獲得、オックスフォードを卒業した。そのころ大英博物館はヒッタイト時代の遺跡発掘のため、ジェラブルスに調査隊を送ることを決めていた。隊長は恩師のデイヴィッド・ホガース博士。ロレンスは恩師の口添えにより、「アラビア語学者」として調査隊に割り込むことができた。

この時ロレンスは1910年製、つまり新品のカメラを持って行きました。

”ロレンスは彼(ダフーム)を写真係助手として使った。カメラは1910年製の文字どおりの新品だ。15x16x10センチメートルという大型で、これに広角から望遠までの五本のレンズと付属品がつく。この「七つ道具」について基礎的な知識や撮り方のイロハを、「ぼくの未熟なアラビア語で彼の頭に植えつけて行くことがどんなに大へんな仕事か」と、彼は家族への手紙のなかでこぼしている。”
(”アラビアのロレンスを求めて” 牟田口義郎著 中公新書を参照)

これはダフームが悪いのではなく、単にロレンスのアラビア語が下手だっただけのようです。ロレンスはダフームからシリアの方言を学び、のちに大変役に立ちました。また、ロレンスは後にダフームに何度か命を助けられています。

この当時、レンズを5本も交換できるカメラがイギリスにあったのかと驚いたのですが、確かにあったようです。

(本文とは関係ありません)

(続く)


2007.7.4 アラビヤのロレンスのカメラ(5)

後にイラクの「王様づくり」を実現させたガートルード・ベルというイギリスの高名な女性考古学者(後の英国植民地省担当大臣)がいます。ベルは伊東忠太が中東を旅した翌年の2005年2月から4月、伊東とほぼ同じ工程をたどって旅をしています。

伊東もベルも紀行文を書いています。伊東の紀行文が専門分野および資料をふまえた事物の紹介であるのに対し、ベル女史はアラビア語が堪能で、現地の人々との会話を記録しています。また、遺跡を100枚を超える写真とともに紹介しています。優れた写真術を持っていたようですが、残念ながら、ベルのカメラが何であったかは不明です。

時は日露戦争の最中。ベルはドルーズ人のある村で村長一家のもてなしを受けたが、村での最大の関心事は日露戦争だった。ベルは1899年と1903年に世界一周旅行の際に日本を訪れており、日本を知っているということでドルーズ人一同は彼女を囲み、夜が更けるまでしゃべり通した。彼らドルーズ人は、日本人を自分たちと同じ種族だと思い込んでいるので、日本人の常勝に快哉を叫んだ。同様にシリアであれ小アジアであれ、すべての人が日本に共感を抱いていた。

彼女のこのような記述は、1909年、日本人で初のメッカ巡礼者となった山田光太郎が、ダマスカスを含め、行く先々で後援を行い、爆発的人気を得た背景をよく語っている。
(”アラビアのロレンスを求めて” 牟田口義郎著 中公新書を参照)

(本文とは関係ありません。文字ばかりだとさみしいものでして)

(続く)


2007.7.3 アラビヤのロレンスのカメラ(4)

ロレンスが初めて中東旅行をする5年前の1904年に、伊東忠太が同地を訪れ、「叙利亜(シリア)砂漠」を書いています。伊東忠太(1867-1954)は東京・築地の本願寺や明治神宮、京都の平安神宮の作者として名をのこしています。ヨーロッパからの帰途この地に足を踏み入れたのは、シルクロードの西端における東西交渉史の実態を専門家の立場から探るためでした。(”アラビアのロレンスを求めて” 牟田口義郎著 中公新書を参照)

この頃、中東の村での最大の関心事は日露戦争だったのです。中東の人々は日本を同じアジア人と考えていたようなのです。カメラの話とは離れますが、面白いところなので、もう少し後で。。。

(続く)


2007.7.2 アラビヤのロレンスのカメラ(3)

ロレンスがドイツのカメラを持つことは考えられません。この時(1909年)既にイギリスとドイツは険悪な関係にあったようです。

”実際、その後のイギリスは、ドイツを「主敵」と定めて、世界各地から軍事力を次々と撤退させヨーロッパに集中するとともに、フランスやロシアにも大きな譲歩を行って、これらとの協商関係に入り「対独包囲網」をせばめてゆく。しかしその結果イギリスは、包囲網を破ろうとしてもがくドイツとのあいだに、次々と危機をつくりだす悪循環へのプロセスへとはまり込んでいった。1905年のタンジール事件(第一次モロッコ事件)。。。(以下略)” (”大英帝国滅亡史” 中西輝政著 PHP文庫から引用)

(続く)


2007.7.1 アラビヤのロレンスのカメラ(2)

1909年(明治42年)の大学二年生がカメラを持っていたというのは、いくら大英帝国とはいえ驚きです。ロレンスはどのような家に育ったのでしょうか。

田舎貴族だったロレンスの父は妻を捨てて娘たちの家庭教師と家出し、5人の息子をもうけたが、妻が離婚に応じなかったので、彼らは皆私生児であった。ロレンスは次男である。(”アラビアのロレンスを求めて” 牟田口義郎著 中公新書を引用)

同書にロレンスの母セァラの写真が出ていますが、なかなかの美人です。駆け落ちした田舎貴族でも結構裕福だったのかもしれません。まだ大英帝国が世界に君臨していた時代だったのでしょう。しかし、1883年のアメリカ独立戦争の敗北、1902年のボーア戦争(何とか勝ったものの)などにより、英国の衰退が徐々に明らかになってきた時期です。

(続く)


2007.6.30 アラビヤのロレンスのカメラ(1)

1890年頃から1930年頃にかけて主要な写真用レンズが主にイギリスとドイツで開発されます。レンズの歴史についてはキングズレークの”写真レンズの歴史”を見ればだいたい分かるのですが、この頃のイギリス、ドイツ、そして日本の歴史については関連付けられていません。そこで、この頃の歴史背景を昨日から調べ始めました。本当はもっと調べてからまとめて書きたかったのですが、面白くて待ちきれないので、順次書いていくことにします。そうです、新しい日誌シリーズの始まりです。

T.E.ロレンス(後にアラビヤのロレンスとして有名になる)は、この時オックスフォード大学の二年生。イギリスから海路ベイルートに渡り、1909年7月6日の明け方、初めて中東の土を踏んだ。旅の目的は十字軍が建てた城を調査し、卒業論文を書くことであった。徒歩でシリアとパレスチナを旅行するには、頑丈な靴と最小限の荷物があればよかった。カメラに三脚、シリアをパレスチナ方面に関するベデカーの案内書、モーゼル銃、靴下、下着、着替用のシャツ一枚を詰めたサックを背負い、ベイルートから海岸沿いを南部をめざして歩き出した。ロレンスは父から写真の撮り方を教わっていた。(”アラビアのロレンスを求めて” 牟田口義郎著 中公新書を参照)

この時持っていたと思われるカメラがオックスフォード大学のWeb(Museum of the History of Science)に出ています。
21. Half Plate Field Camera c. 1890

R.J Beckのハーフプレート(160mm x 120mm, 今で言う5x7inchでしょうか)のフィールドカメラです。シャッターはついていません。レンズはTaylor and Hobson f8 symmetrical meniscus doublet lens of 185 mm focal length(虹彩絞りつきの185mm f8 ラピッドレクチリニアですね) 乾板ですので、徒歩でも持ち運べたんですね。いったい何枚乾板を持って行ったのか、シリアやパレスチナで乾板が買えたのかなどは不明です。

(続く)


2007.6.29 Astro Berlin

アストロ ベルリンのいいページが見つかりました。http://www.exaklaus.de/astro.htm

Gauss Tachar 1:2 ダブルガウス型 4群6枚
Pantachar 1.8/2.3 Speedic型 4群4枚
Tachar 1.5/1.8/2.3 Speedic型 4群4枚
Telestan 3.5/4.5 Speedic型 4群4枚
Tachon 0.95/1.2 ゾナーみたいですね 4群8枚
Tachnar 1.1 レトロフォーカス 5群5枚

これで、すっきりしたのでした。

あれぇ、キングズレークはダブルガウスの例としてTachar, Kinoを上げていました。何とかTacharではGauss Tacharだけがダブルガウスだと分かったのですが、Astro Kino 1:1.4 35/36/40/52/65/75/85/100/120mmがどうだったのかはっきりしませんね。焦点距離とF1.4から想像するとダブルガウスのように思われるのですが、プロジェクション用と書いてあるのがちょっと引っかかります。すっきりしないですね。
(掲示板より転記)


2007.6.27 旧作復活

やっとのことで、旧作のQTVRがWebに復活しました。サーバーの容量が2倍に増えたためです。とはいえ、わずか600MBですので、すぐまた一杯になると思いますが。昔作ったQTVRはファイルサイズが割と大きいのです。QTVR変換時に画質優先でやっているためです。最近は画質を落としてファイルサイズを小さくしています。QTVR以前の記事についてはファイルサイズが小さいので、当面無料のサーバーで行こうと思います。後数日で完全復活の予定。

時代によってファイルの階層構造が変わってきているので、なかなか面倒です。まあ、内容が変わるのでやむをえないですね。

1995年頃   Windows 3.1でホームページ製作開始。友人のIIJのサイトに間借り。
2000年4月  岸本農園を開園して、ほぼ毎週アップデートを開始
2001年9月  少年野球の記録を開始
2003年7月  EOS10Dを買って日記を開始
2004年2月  パノラマ写真の撮影開始
2004年8月  QTVR製作開始
2005年10月 古いレンズで撮影開始


2007.6.26 Ernostarは絞っても大丈夫

Ernostarの刻印上の最小絞りはF32ですが、実際にはF100くらいまで絞れます。自動絞りではないため、絞りの穴が1mmくらいまで絞れます。デジカメで絞りすぎると回折の問題が出ると言われますが、多分それは広角レンズだけの問題です。中望遠だと、F100でも穴の直径が1mmもあるので、大きな問題とはなりません。これが例えば21mmだとF100の絞りに直径はわずか0.21mm、8mm円周魚眼だと0.08mmですので、ピンホールカメラの領域に入ります。ISO50でF100だと昼間(雨の日の午後5時くらい)でも3秒くらいの遅いシャッターが切れて便利です。NDフィルターいらずですね。



ピクセル等倍で切り出し。井の頭線への通路から窓ガラス越しにカメラを窓枠に押し付けて撮影。それにしても、安いビニール傘が多いですね。


2007.6.25 WWPやっと完成

WWPの作品がやっと完成しました。題して"Community under Umbrella"。邦題は”透明のビニール傘は地面が透けて見えるので他のところで撮影した傘を合成できないので困った”です。
http://www.ksmt.com/panorama/070624shibuya/070624shibuya.htm


2007.6.22 Flexon調査

ツアイスの台帳を使ってFlexonのことを調べてみました。次のようなことが判明しました。

・Praktina用に14,400本、Exakta 24x36用に11,100本、合計25,500本が製造されています。M42マウントが製造された記録はありません。

・台帳記入日(受注日?)は全て1954年10月5日です。組み立て終了は1960年。わずかの間だったようです。

・Karte als Biotar (ビオターの改良?)またはauch Pancolar(パンカラーと同じ?)などの注釈があります。BiotarはFlexonの後でも引き続き製造されています。

・Flektogonが1949年頃から大量に作られています。FlexonはFlektogonの成功にあやかった名前かもしれません。

・Pancolar 50/2.0は全て1960年11月10日に受注しています。Flexonの在庫がなくなったためだと思われます。

・Pancolar 50/1.8は1964年ごろから大量に作られています。Pancolar 55/1.4も少し、75/1.4はごく少量作られたようです。

なぜキングズレーク氏が”写真レンズの歴史”で、Zeissの代表的ダブルガウスの銘柄として、なぜPancolarではなくFlexonを書いたのかは依然不明のままです。たまたまFlexonのついたPraktinaのユーザーだったのかもしれませんね。

参考資料:
Fabrikationsbuch Photooptik II Carl Zeiss Jena
寫楽彩で紹介してもらった俗にZeissの黄色い電話帳と言われるものです。3冊セット。ドイツ語。Zeiss愛好家にはおすすめの本。私はアメリカの本屋から通販で買いました。)


2007.6.21 Zeiss Flexon

Carl Zeiss Jena Flexon 2/50 5252670

ずいぶん前からFlexonが気になっていました。”写真レンズの歴史”の中で、ダブルガウス型レンズの例としてZeissではBiotar, Flexon, Planarが出ていました。BiotarとPlanarはあまりに有名なのですが、Flexonは聞いた事がありません。中古屋さんで見つけたものの、プラクチナマウントだったので、EOSで無限遠が出るか分からず買わずにいました。しかし、やはり気になる。中古屋さんの話ではパンカラー50/2と同じレンズだということでした。これを信じて買ってみることに。


家に帰ってからツアイスの電話帳で調べると、1954年から1957年にかけてPraktina向けに、5252501-5254000 の1500本が出荷されています。これはそのうちの170本目ですから、1954年製と考えられます。


Webにも解説がありました。例えば、http://m42.povlab.org/lens_detail.php?lid=266 やはり、Pancolar 50/2と同じレンズのようです。また、ほとんどがPraktinaマウントだったようです。Praktinaマウントは、ずいぶんフランジが前にあり、後玉はフランジの後ろにあります。これは試してみないと、EOSで無限遠が来るかどうか分かりません。ミラーと干渉しなければいいのですが。


レンズぎりぎりまで下げる関係で、絞り連動ピンは抜かなければなりません。これが押されると絞りは常に開放になります。ピンを抜くのは至って簡単なのですが、元に戻すのは無理です。


マウント改造用に準備した材料。左からFlexon, その辺に転がっていたアルミの輪、EOSマウント。


これだけ材料が揃っていれば、後は接着剤で貼るだけ。無限遠が出るように、アルミの輪を少しずつ削っていきます。無限遠は出るのですが、わずかにEOS 5Dのミラーと干渉します。ですので、レンズの後端のアルミ枠をやすりで削ります。レンズを傷つけないように、慎重に。削った後で、マジックで黒く塗っておきました。10DなどのAPS-Cならミラーと干渉しませんので、削らなくてもいいでしょう。このことから、Flexon 50/2はBiotar 58/2と同じフィルムバックだということが分かります。Biotar 58/2でレンズのお尻を削った方は、同じように削りましょう。


EOSマウントに改造されたFlexon。


どうやらビオターの後継機種のようですので、収差はよく補正されており、F2.0からシャープだと思われます。


2007.6.17 蛍

新聞を見ていたら、蛍が飛ぶ時期と書いてありました。蛍は光でコミュニティーを作っていると言えないこともない。生田緑地は6月中旬が見ごろと書いてあったので、とりあえず行ってみました。

確かに蛍が飛んでいます。生田緑地で自然に育った蛍です。数は数十匹ですが、はっきり見えます。レンズはSigma 15mm 2.8対角魚眼。蛍は光を放ちながら相手を見つけて交尾し、産卵をします。携帯電話やカメラのランプが点灯すると、これに惑わされて交尾できなくなるそうです。デジカメの赤いアクセスランプは、暗闇では大変明るいので、ダメだそうです。消すことはできないので、何らかの方法で隠す必要があります。


これを拡大するとこんな感じ。結局、コミュニティーと言えるほどの数の蛍を写すことはできず、WWPの役には立たず。でも、自然の蛍が見られて良かったです。


カメラマンは数人で、ほとんどは幼い子供と蛍を見に来た家族連れでした。レンズはエルノスター 100/2。


生田緑地から駅に歩く途中の看板。エルノスターはシャープさと大きな光のにじみが同居して独特の世界です。やはり夜に使うレンズなのかもしれません。


2007.6.16 WWP "Community"は難しい

今回のWorld Wide PanoramaのテーマはCommunityです。とりあえず人が多そうな渋谷、原宿、代々木公園などを歩いてみたのですが、ただ人が多いだけでコミュニティーという感じではありません。これは困った。撮影期限は6月21日まで。


2007.6.14 Wide Field Raytar

WIDE FIELD RAYTAR 152mm f:2.7 BAUSCH & LOMB OPTICAL CO. ROCHESTER N.Y. USA 3235425

ルドルフ・キングズレークの”写真レンズの歴史”に6枚エレメントのダブルガウスとして示されるBAUSCH & LOMB RAYTARですが、”しかしよくあることだが、同じ商品名が全く異なった構成のレンズに付けられることが多々ある”との注意書きもあります。その立派な外観から、てっきりダブルガウス型だと思い込んで購入したWIDE FIELD LAYTAR 152/2.7ですが、開けてびっくり、何と3枚玉のトリプレットでした。後でよく考えてみると、ダブルガウスで152mm F2.7だと相当重くなるはずです。すでにWOLLENSAK 152mm F2.7というシネ用のレンズがうちにあり、これはテッサー型だったのでした。このスペックなら、テッサーやトリプレットの方が妥当でしょう。前玉の内側にコーティングがかかっており、戦後の物と思われます。




コーティングのムラが写真だとよく見えます。肉眼では分かりません。しかし、これを撮影したレンズであるOlympus OM 50mm F3.5 MACROはものすごい解像度ですね。最短距離でもきれいにピクセルまで解像していますし、何しろピントの合う確率が非常に高い。キヤノンのマクロレンズは使ったことがないので分かりませんが、これ以上のマクロレンズを買う理由が見当たらない。


F2.7のレンズのくせに、絞り輪の刻印がf-6.3までしかないのが不思議。映画の撮影はどれくらいの絞りで撮影されたのでしょうか? ひょっとして当時の映画はシャッタースピード固定だったので、絞りだけで露出を調節したのかもしれません。


レンズにもキャップにも453と手書きしてあります。カメラの番号だったのでしょうか?


全部分解するとこのようになります。レンズは中段の3枚だけ。貼り合わせはなさそうです。


ペンタックス67マウントに改造。Opic 5.5in/2.0やキノプラズマート9cm/1.5と同じような太さです。そのままだとペンタ67のオスにうまく取り付けられないので、太さ調整のリングを入れています。これは、ラバーフードのフィルター枠を加工したものです。


ネジを6本締めると、ペンタ67マウントの完成。


太いので、ペンタ67でちょうどいいバランスです。レンズの後ろにぴったりとマウントを取り付けて、ヘリコイドチューブをかませると、ちょうど無限遠が出ます。


EOSだとこんな感じ。


2007.6.12 欲しいレンズ13 Dallmeyer Speed Anastigmat 3in/1.5

有名なSuper-SixがF1.9であるのに対し、Speed AnastigmatはF1.5と明るいのが特徴です。なかなか刺激的な写り方をするようです。値段はSuper-Six同じくらいか、または少し高い。シリアルナンバーはSuper-Sixと変わらないようで、平行して生産されたようなのですが、詳細は不明です。


2007.6.10 魚露目8号 CANON A75アダプタ製作

魚露目8号のCANON PowerShot A75アダプタと製作。実際には52mmフィルターネジに変換していますので、52mmフィルターが付くところであれば、どこにでも取り付けられます。写真を見れば分かるように、52mmフィルターのガラスをはずして、魚露目8号を入れただけの構造です。

バヨネットマウントでワンタッチで脱着できます。


メーカー製のマウントは三脚のネジ穴を利用しています。汎用性は高いですが、脱着が面倒だし、レンズの真ん中に取り付けるのが難しいし、レンズが落下しそうだし。


PowerShot A75はバヨネットマウントで52mmフィルターネジのコンバータが取り付けられるようになっています。これは0.75倍のワイコンを取り付けたところ。


ですので、このようなものを作ればよいわけです。


部品はこれだけです。魚露目8号とフィルター枠は強力な磁石でくっつきます。フィルター枠に魚露目8号標準附属の鉄製リングを取り付けています。


フィルター枠のガラスはコンパスがあれば簡単に取り外せます。コンパスがない場合、あるいはコンパスで回せない場合には、カラスを叩き割りましょう。アダプタの素材は写真の通りベニヤ板です。工具は彫刻刀のみ。


AFで問題なく撮影できます。中心部分解像度はなかなかのものです。


広角側にズームするとこんな感じ。小さすぎますね。


望遠側だとこんな感じ。ほぼ対角魚眼になります。画質重視ならこれで行く手もありそうです。


2007.6.8 5Dのバッテリー

8GB CFを購入してデジカメのメモリーの心配がなくなる一方、電池の心配が出てきました。10Dの時には純正バッテリーが全然ダメだったので、値段が1/4ほどの安い互換品を2個買い足して合計4個で運用して正解でした。しかし、5Dの純正電池は一年以上使っても好調で、たった1個で足りています。一回の充電で2GBくらいは行けます。純正をもう1個買えば、それで十分な気もします。さて、どうするか。

一般には無名のCFカードや互換品の電池を嫌う人がいますが、私は大好きです。失敗した時は一日で忘れますが、成功した時の話は長い間自慢の種になります。


2007.6.6 8GB CF

秋葉原で"A DATA"社のTurbo Compact Flash 120X 8GBというのを購入。8,990円也。安くなったものです。何軒か同じ値段で売っている店がありました。この日記を書き始めた4年前には512MBで1.8万円でしたので、1GBあたり約3.6万円。今はたったの千円。4年で1/36はすごいですね。EOS 5DとVAIOで試したところ特に問題なさそうです。5DのRAW+Large Fineで300枚強。私がいつも使うJPEG Large Normalでは、999までしか表示されませんが、多分3,000枚くらいは行けそうです。予備のCFはもう要らないですね。


2007.6.3 魚露目8号

今QTVRクリエーターの間で人気の魚露目8号 http://www.fit-movingeye.co.jp/2003/03/gyorome8.html を購入。お店では売っていないのですが、メールで注文すると、代引きですぐに送ってくれます。これはコンパクトデジカメの先につける円周魚眼コンバータです。その特長はレンズの先0cm(つまりレンズにくっついていても)からピントが合うことです。また小型軽量のため、どこにでも差し込んで使うことができます。


2007.6.2 IKEA

港北のIKEA に家具を買いに行きました。二階のショールームを見ると安くていいのがたくさんあったので、タンスやらテーブルやらの型番をメモ。次に一階の倉庫でセルフサービスでカートに家具を積み込みます。すべての家具は自分で組み立てますので、その材料がダンボール箱に入っています。これが重い。タンス1本分の材料ですので、当たり前なのですが、それにしても重い。何とか車に積み込んで、家で組み立て。5個組み立てるのに汗だくでがんばって5時間ほとかかりました。疲れた。IKEAで家具を買う場合には、少しずつ買ったほうがいいようです。


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