電力の歴史 木川田一隆

大正15年、東大を卒業した木川田一隆が東京電燈に入社。当時、東京電燈は松永安左エ門率いる東京電力に仕掛けられた攻撃に戦々恐々の状態だった。木川田と松永は敵対関係にあった。

戦後松永が復帰すると、関東配電常務だった木川田が松永に賛同し、松永をフォローする。「電力をもって国を興そう」としていた松永を支えた。

東京電力の副社長だった木川田一隆は最初原子力政策に反対だった。昭和29年、中曽根康弘が奔走し、国会で初の原子力予算が可決。同じころ、第五福竜丸が水爆の死の灰を浴びる。まだ広島・長崎の原爆から9年しかたっておらず、原発反対運動が起きる。木川田は当然原子力導入を断固拒否。

ところが、木川田は突然豹変し、原子力発電の開発のための体制づくりを指示。戦前、松永とともに繰り返した国家との戦争が、戦後には原発を巡って再発。「原子力開発は挙国一致で」という河野一郎の主張は戦前と同じだった。木川田は国家に自由を奪われた暗い時代に逆戻りはできないと、決戦にのぞむ覚悟をきめた。