電力の歴史 河野対正力

1955年、東京電力に原子力発電課新設。大型発電用原子炉導入の動きが活発になる。

「その当時、原子炉の受け皿をどこにするか、政府内で対立が起こった。原子力委員長の正力松太郎は、迅速かつ柔軟な対応が可能な民間の企業を受け皿にすべきだと主張し、経済企画庁長官・河野一郎は、まだ不安定要素が多い原発は、国家機関で慎重に行うべきだと主張していた。正力には、自分が作った日本テレビの普及のために、民間の電力会社に原発を導入させ、速やかなる形で低廉で豊富な電気が欲しかったのだ。(中略)河野一郎にいう、原発の受け皿になる「国家機関」とは、かつて松永安左エ門と共に、苦労して解体に追い込んだ「日本送発電」を母体にした「電源開発」だったからである。電源開発とは、日発解体後、九電力体制がまだ発足したばかりで力弱かった頃、通産官僚たちの巻き返しで生まれた国策会社である。この原子炉導入をめぐる攻防は、民に奪われた電力の主導権を再び国家のものにせんとする、まさに官僚の仕掛けた「遺恨試合」でもあったのだ」(電力と国家から引用)

「河野対正力の対決は、河野に電力会社が「届け物」をしたことで、あっけなく手打ちとなる。「届け物」とはもちろん金である。」(電力と国家から引用)

その結果、民間が原子力発電の主導権を握り、民間80%、電源開発から20%出資して日本原子力発電が設立された。